カナイと八色の宝石⑩
シュリは部屋に戻ると、右側の壁を指差した。カナイも窓から身を乗り出すのを止めて、シュリが指を差している壁を見る。文字のような記号のようなものが、青い絵の具で壁一面に書かれていた。
「追われて部屋に入った時は、床に魔方陣が描かれているだけで物なんて無かったし、壁にも何も書かれていなかった」
カナイは、右側の壁に近付いた。途中で椅子の山に腕が当たり、椅子の山が大きな音を立てて崩れた。それでも気にせず壁の前に立ったカナイは、青い絵の具でいっぱいになった壁を隅から隅まで見た。
「何が書いてあるのか、さっぱり分からない」
「僕には分かるよ」
カナイは驚いて、隣りに来たシュリの顔を見上げた。シュリは、目の前の文字を指で触れる。
「例えば、ここは『白い石を持って』と書いてある」
「これが?」
カナイはまじまじと、シュリの指の上の文字らしきものを見た。やはり、何が白で何が石なのかさえ分からない。カナイは困ったように、眉を寄せる。
「私には、分からないよ。だいたい、村の中で文字を読める人って限られてるし。シュリはいつの間に、文字を読めるようになったの?」
「文字自体は、ずいぶん前から読めるようになったけど」
シュリは、首を横に振った。
「これは、カナイ達が使う文字じゃない」
目を見開くカナイに気付かず、シュリは壁の上の方を見る。
「違うけど、全部読める。『白い石の用途は、長い間ずっと謎だった。しかし、ようやく私は白い石の力を解明した』」
壁に両手をついて夢中で文字を読み出すシュリに、カナイは後ずさった。なぜだか、シュリの存在が遠くなった気がする。カナイは何度もシュリに声を掛けようと息を吸ったが、なかなか言葉が出てこなかった。どんな時でもシュリはカナイを無視しない、と知っているのに、名前を呼ぶのがとても怖い。
心臓が早鐘を打って、息が苦しくなる。カナイが泣き出しそうになった時、部屋の扉が勢いよく開かれた。
『ネズミめっ。今日こそ、退治してくれるっ』
カナイもシュリも、飛び上がって出入り口に立つ人物を見た。出入り口に立っているのは、シュリと同じような、波が弾く光の色をした髪を持つ男だった。彼の後ろには、鉄の鎧を着た護衛が二人付いている。
『泥棒かっ?』
太い眉を寄せた男は、腰に下げた剣の柄に手を掛けた。それを見て、カナイは後ずさり、シュリは彼女をかばうように腕を伸ばす。
不意に、男は銀色の目を見開いた。
『ん? おまえ』
男は一気にシュリに詰め寄ると、腕を掴んだ。彼はシュリの肩にある銀色の鳥を見て、シュリの顔を覗き込む。
『まさか、シユーリなのか?』
シュリは呆然と、男の顔を見ている。一方で、男の方は満面の笑みを浮かべた。
『やはり、そうだ。おい、おまえ。すぐに、父上と母上にお知らせせよ。シユーリが見つかりました、とな』
男が護衛を振り返ると、二人の内の一人が短く返事をして走り去っていった。鉄が合わさる音が、段々と小さくなっていく。
男は再びシュリを見下ろすと、彼の両肩を掴んだ。
『特に母上は、おまえがいなくなって、とても心配しておられたのだ。それが、これほど大きくなって戻ってこようとは。おまえは、母上にそっくりだな』
『は……は、うえ?』
カナイの心臓が、大きく鳴った。
シスカがくれた腕輪のおかげで、カナイには異国の言葉も聞き取ることができる。しかし、腕輪を持っていないシュリも、異国の言葉を聞き取ることができた。
更に、シュリは今、異国の言葉を口にした。腕輪の力を使っても、動物や異国の言葉はなまっているようにカナイには聞こえる。チチなら片言に、銀髪の男なら言葉の調子にずれがある、といった具合だ。シュリが発した、たった一言だけでも、銀髪の男と同じ言語だとカナイには分かった。
カナイの足が、小刻みに震える。
いつもはカナイの異変にいち早く気付くシュリだが、今は目の前の男の顔を見上げたままだ。驚きのあまり、カナイの存在を忘れてしまったらしい。
『ああ、かわいそうに。母上のお顔も忘れてしまったか。もう十年近くも離れていたのだから、無理もないな。それでは、私のことも覚えておらぬだろう。私は、シヤーク。おまえの兄だ』
シヤークは上着を脱ぐと、左肩を見せた。そこにはシュリと同じように、銀色の鳥が描かれている。
『これは、我が家の紋章だ。我が家系の者は、五歳になると必ず、この紋章を肩に入れられるのだ』
肩を震わせたシヤークは、眉を寄せる。慌てて上着に袖を通すと、シュリから一歩下がって、彼を上から下まで順に見下ろしていった。
『その格好では、寒かろう。おまえも、なんという格好をしているのだ』
ようやくシヤークは、カナイを見た。彼はシュリと比べると鋭い目つきをしていて、カナイは肩を跳ね上げる。
『これは、男か? 女か?』
『カナイは、女の子だよ』
シュリの言葉に、シヤークは目を見開いた。
『女だと? なんという、はしたない格好をしているのだっ』
カナイは、頬を膨らませた。確かにシヤークが着ている服は、仕立てが良いし、どこにも穴が開いていないし、上下とも紺色で落ち着いている。それでも、カナイの格好は村では普通だし、男の子だと疑われたことも一応は無い。
カナイは何か言い返そうと口を開いたが、足音が近付いてきて口を閉じる。出入り口の方を見ると、残っていた護衛が壁側に身を寄せた。次いで、大柄な男性と、はかなげな女性が部屋に飛び込んでくる。
『シユーリッ』
女性がシュリを抱き込んで、更に男性が二人を抱き寄せる。二人が涙を流す中、シュリだけが訳も分からず目を見開いていた。
『シユーリ。おまえの父上と母上だ』
シヤークの言葉に、シュリは目を瞬かせる。
『ちち、うえ、と、母上?』
シュリの父親と母親は、シュリを抱いていた腕を解放して、彼にほほ笑みかけた。母親がシュリの頬を優しく撫でると、シュリは照れ笑いを浮かべた。そんなシュリの顔を見るのは初めてで、カナイの心臓はわし掴みされたかのように痛んだ。
うつむいたカナイの肩に、シヤークの大きな手が乗せられる。
『父上、母上。シユーリもこの者も、このような薄着です。いつまでも、このような場所にいさせては、風邪をひいてしまいます』
シュリの父親と母親が、初めてカナイの方に視線を向けた。父親は太い眉を寄せ、母親は両手で口を覆った。
『まあ、なんて格好を。それでは、寒いことでしょう』
シュリの母親はカナイに近付くと、肩に巻いていた赤い布を外した。
『これでは、一時しのぎにしかなりませんが。女の子が体を冷やすのは、良くありませんよ』
カナイの肩に、シュリの母親の布が掛けられる。優しい温もりにカナイが顔を上げると、シュリの母親はほほ笑んだ。細面の顔に、きめの細かい白い肌。細い眉も、穏やかな目も、すっかり見慣れた銀色だ。シヤークの言った通り、シュリは母親にそっくりだった。
頬を染めるカナイの両肩に、再びシヤークの手が乗せられる。今度は、カナイの力では抜け出せないくらいの重みが加えられた。
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