「知らないもの」は「存在しないもの」
私はペットボトルというものを知っている。主に水や他の飲料を持ち運ぶために用いられる無色透明で軽量の人工物だ。そしてそれは私の生きる世界に確かに存在している。
なぜペットボトルは存在しているのか?これは誰がどういった理由でペットボトルというものを生み出したかという問いではなく、そのままの意味合いでだ。なぜペットボトルは存在する?
それは、私がペットボトルを知っているからだ。私がこの世に生まれ、ペットボトルというものを見て触るまで、私の世界にペットボトルは存在しなかった。
例えば、地球のどこかにブックという名前の国があるとしよう。今の私はその国が存在していることすら知らない。そして、この先死ぬまで知らなかったとしたら、ブックという名の国は私の生きる世界に存在したといえるのだろうか。
この話はあくまで主観的な観点から見ての話だ。だがそれも至極当然のことだろう。私たちは主観で生きている。私が寝ている間に他人が外で野良猫を見かけても、私の見ている世界にはその野良猫は存在しない。
ここで大きな疑問に直面する。
冒頭で言った通り、私の生きる世界にペットボトルが存在をあらわにしたのはそれを見たときであり、触った時だ。
では、
私はいつから存在したのだろうか。