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かごかき入門

 

古今東西

世界広しといえども「かご」ほど謎めいた乗り物はありません。
これはまったくもって理解し難い乗り物です。いったい誰が好き好んでこんなものに乗りたがるでしょうか?あるいはまた進んで運転したがるでしょう?窮屈なかごに座らされガタガタ揺られながらどこかへ運ばれるのも嫌ですし、ましてや人間の入った重いかごを肩に担ぎ歩いてどこかへ運ぶのもまっぴらごめんです。そのためかどうかはわかりませんが、かごという乗り物は今ではすっかり姿を消しました。うれしいことに今では絶滅しています。当然です。乗るのも運転するのも勘弁してほしい乗り物ですから消滅するのが自然な成り行きだと思います。ところが江戸時代にはこのかごは大変に人気のある乗り物でした。好んで江戸の人たちはかごに乗っていたのです。いったいなぜでしょう?実に謎めいております。

ご存じない方も多いと思いますので、ここで改めて「かご」について説明いたします。「かご」は、お客様である人間を入れたかごに長く太い棒をくくり付け、「かごかき」と呼ばれる運び手が二人、棒の前後を肩に担いで「えっさ」「ほいさ」と客を目的地まで運ぶ乗り物です。江戸時代にはごくありふれた乗り物だったのでテレビの時代劇ではよく見ます。繰り返しになりますが、客も運び手もさぞかし大変だったことでしょう。かごは揺れるし、揺れるからかごに乗っている人間は文句を言います。担いでいる「かごかき」は肩に食い込む重い棒を必死になって担ぎ速足で歩きながら、その間ずっと客から文句を浴びせられ続けます。このように乗り心地、運転心地どちらを取りましてもおよそ快適な要素がまったくもって見つかりません。それが「かご」です。

言うまでもありませんが

、かごが乗り物の主流だった江戸時代にも馬や牛はおりました。牛や馬の方が人間よりもはるかに体力に優れているのは江戸時代だって同じなはず。そのため江戸時代にもちゃんと馬車があり馬もおりました。実際、江戸より以前、戦国時代には人々はかごをあまり使わず馬や馬車に乗っていたのですから江戸の人だって素直にそれに乗ればよかったのです。ところが江戸の人たちはあえて馬車や馬を捨ててしまいました。そしてあろうことか、なぜか人間に担がせたかごに乗りたがったのです。その理由は今となってはわかりません。江戸は遠くになりにけり。かごはすっかり姿を消してしまいました。今ではもうかごの何が良かったのか、何が江戸の人をそれほどまでに熱狂させたのか、かごの魅力を体験してみたくてもできません。現代でも浅草へ行けば、あふれる江戸情緒を堪能できますけれども、かごだけはそんな浅草へ行っても無理です。浅草にももうかごはありません。あるのは人力車まで。人力車を引こうというくらい気力体力に優れた腕力自慢の若い衆でも、人を入れたかごを担ごうという気合まで持ち合わせている人はさすがにいないようです。現代人の感覚ではそれほどかごは不自然な乗り物です。改めてなぜ江戸の人たちはかごに乗ったのか? 謎はますます深まるばかりです。

 ではそもそも江戸の人たちはかごが大好きだったのでしょうか?江戸の人々は誰も彼もが喜んでかごに乗り、または自ら進んでかごを担いでいたのでしょうか?どうもそうではなかったふしがあります。たくさん利用していたのだから好きに決まっていると思うのは早計です。それほど好きではないことを嫌々やるということは誰にでもあります。江戸の町を見てみると、たくさんのかごかきがいて、たくさんの人がかごを利用しました。ところがむしろ、みんなだいぶ無理をしてかごに乗ったり担いだりしていたように私には感じられます。というのも、かごは明治に入るとあっという間に消えてなくなってしまったからです。本音のところでは、やっぱり江戸の人たちもかごが嫌いだったのではないでしょうか。やめたいやめたいと心の中で思いながら無理して乗ったり担いだりしていて、ようやく時代が明治に変わったのを機に、今だ!この機を逃してなるものか!とばかりに棒もかごも放り投げてしまったのではないでしょうか。

 

江戸っ子といえばやせ我慢

、やせ我慢といえば江戸っ子と言われるほどの江戸っ子気質が、かごをめぐるこんなところにも現れているように私には思えます。つまり江戸の人たちは大昔に脳のどこかで「かごは粋な乗り物だ」というスイッチがオンになってしまう瞬間があったのでしょう。とにかく粋を重んじる江戸っ子の性質上、粋だと決まったらどんなに我慢をしてでもかごに乗らざるを得なくなってしまったのかもしれません。それにまた粋な男であるためには無理をしてでもかごかきにならざるを得なくなってしまったのでしょう。「だってかごは粋だぜ」。そうなったらもう利用するより他江戸っ子には選べないというわけです。以来江戸時代の人たちはだいぶやせ我慢をしてかごを利用し続けました。なにしろ二百六十年です。江戸時代は二百六十年あまりもの間続きました。おかげでその間ずっと江戸っ子は無理をしてかごに乗り、また担ぎ続けました。それは恐ろしく大変なやせ我慢でした。なにしろ二百六十年。並大抵ではありません。見上げたやせ我慢と言えましょう。

さらに江戸っ子にとってとりわけ大変だったと思われるのが、かごは一人ではなく二人で担がなければならなかったことです。かごは一人では担げません。このことは強情っぱりで我が強く、一匹狼の多かった江戸っ子にとってどんなに苦痛だったことでしょう。

明治になった途端、かごかきたちがかごと棒を放り投げてしまった気持ちが痛いほどよくわかります。今から振り返ってみますと、かごかきほど江戸っ子らしくない仕事は他にありません。長い間お疲れ様でございました。本当によく我慢をいたしました。

本編

「かご屋さん、かご屋さん、こんにちは。今日はまた良い天気になりましたね。絶好のお出かけ日和ではないですか?」

「えい!旦那、どうぞ乗ってくだせえ!と言いたいところだが、あいにくまだ相棒の野郎が来ねえんでさあ。あいすいません。どうぞ他のかご屋を当たってくだせえ。」

「相棒が来ない?それはいけませんねえ。」

「ええ、そうなんでさあ。実のところ言いますとね、あっしもその相棒ってやつをまだ見たことがねえんですよ。いえなに、つい先日古女房みてえにずっと長いこと組になってかごを担いでいた相棒と喧嘩別れしちまってね、そんでもってしかたなく新しい相棒を探しているってえと、元締めがどっからか探してきて今度の野郎を紹介してくれたんだけれども、まだ来やがらねえんでさあ。」

「するとお前さんはかご屋の八兵衛さんかい?」

「おや?旦那はあっしをご存じで?」

「いや知らないよ。今初めて会ったばかりだ。」

「でしょうね。あっしも旦那を知らねえから。しかしそうなるってえとわからねえのが、旦那がどうしてあっしの名前を知っているのかってことだ。何しろ俺たちは今初めて会ったばかりときていやがる。どうしたってお互いに名前なんぞ知っているわけはねえんだ。」

「だけどそうではないんだな。どうやらお前さんもあたしの名前を知っているようだよ。」

「なんと!あっしがお前さんの名前を知っている?それはねえと思うな。だってあっしはおめえさんを知らねえもの。一体全体どうしたってそんなことが言えるんです?」

「だってあたしは三助だ。」

「三助!おお!知ってるぜ!おめえが三助か。」

「あい。」

「今日から俺んとこでかごかき修業をしようっていう三助か?」

「あい。」

「驚いたね。これがこれから修業させていただこうって人間の態度かい?時間に遅れて来たうえに、一人前のお客さんの風情を醸しながら登場したよ。」

「あい。」

「それになんだ?その返事は?もっと腹に力を入れて返事をしてみな。」

「あい!」

「まず『あい』は止めろ。かご屋は『えい!』と言うんだ。腹に力を入れてな。」

「えーい。」

「どうもしなを作っているのが気に入らねえな。もっと両足に力を入れて、ドンっと立ってみな?男なんだからよ。」

「あい。」

「えい!だ。声は腹から出せ。それにくねくねするな。それにしてもおめえはまたずいぶんと細えなあ、肉なんぞ全然ついてねえじゃねえか、ええ?その細い腕でかごが担げるかい?どうしたってまた元締めはこんなのを俺のところによこしたんだろう?おい、三助、おめえ前職は何だ?前は何をやっていた?」

「えい。何かと聞かれましても、とくにこれと言って難しいことをやっていたわけではありません。それでもまあ、八兵衛さんがどうしてもあたしが何をやっていたのかお知りになりたいというのでしたら申し上げます。あたくしの父は呉服屋を営んでおりまして、あたしはそこの御曹司でございました。」

「御曹司?それがどうしてこんなところにいる?」

「二十で成人になったのを機に追い出されました。」

「どうして?女遊びが過ぎたか?」

「めっそうもない。女は嫌いです。」

「どうもそのようだな。じゃあ酒か?」

「とんでもない。酒は一滴もやりません。」

「それじゃあ博打か?」

「博打なんて、やろうと思ったこともありません。」

「じゃあ何で家を追い出された?何をやらかした?おめえいったい何をしでかしたんだ?」

「何にもしちゃあいません。何もしないから追い出されたのです。」

「何もしなくて追い出されるもんか。」

「それが追い出されました。あたしは働くのが大嫌いなのです。ずっと部屋にこもり、一日中商品の着物を眺めておりました。なにしろ着物はみんな美しいですからね。つい目を奪われてしまいます。するとある日父親から『出て行け!』と言われてしまいました。あたしだって、怠けたくて怠けているのではありません。働かなきゃと思った時もたまにはあります。でも駄目なんです。どうしても怠け心が出てしまい働けないんですう。」

「ですう?そんな間の抜けた調子でかごかきが勤まるかい?」

「勤まりますかね?」

「俺が聞いているんだよ!だいたいおめえ、やる気はあるのかい?」

「あります!あたしだってねえ、いつまでも家の奥に引きこもっていたいわけじゃないんです。汗水流して働いて、いっぱしの男になって、いつか親父を見返してやりたいと思ってるんですう。」

「ですう。どうしてもおめえは言葉尻から空気が抜けるね。まあいいや、どうやらやる気だけはあるようだな。なるほど。ようやくわかってきたぜ。どうして元締めが俺にこんな唐変木を押し付けてきたか、さっぱりわからなかったがこれで合点がいった。おめえを一人前のかごかきに育て上げるのは、うん、確かに江戸中探してもこの俺以外にはいるめえ。一流のかごかき職人である俺以外に、この大役は到底務まらねえだろうよ。」

「そうですかい?」

「ああそうだとも。いいか与太郎。」

「あたしは三助ですよ。」

「どっちだっていい。さあ、俺がおめえを弟子と認めるかどうか、ひとつ試験をしてやる。いいか?かごかき入門の第一問だ。考えろよ。俺たちかごかきにとって、一番大切なのものは何だ?言ってみろ。」

「なんだそんなことですか。ええわかりますよ。簡単です。そりゃあかごかきなんですから決まっています。一番大切なことは、お客さんをかごに乗せて運ぶことです。」

「馬鹿野郎。知った口をききやがって。これだから素人は嫌なんだ。はずれもはずれ、大はずれだ。いいか、三の字、一度しか正解を言わねえからよく聞けよ。俺たちかごかきにとって一番大切なことはな、人を運ぶことなんかじゃねえ。いいか、一番大切なのは、相棒と息を合わせることだ。」

「息を?」

「そうだ。かごかきはまずイの一番に相棒と息が合わなきゃいけねえ。客を運ぶのはその次だ。いいか、俺たちの仕事はな、まずこの一本の棒を二人で担ぐところから始まる。それもただ担ぐだけじゃねえ、棒には真ん中にこうしてお客を乗せるかごがくっついている。人間様を乗せるかごだ。これを二人で持ち上げなきゃならねえ。息が合わなかったらどうなる?ええ?かごがあっちへ傾き、こっちへ傾きしたらかごの中のお客さんはどうなる?それこそあっちへ揺られこっちへ揺られで『こんな地震みてえに揺れるかごに乗れるか!』ってんで怒って帰っちまう。かごはな、息を合わせてスッと持ち上げねえといけねえんだ。中のお客さんが持ち上がったことに気づかねえくれえが理想だ。だがな三の字、そこで終わりじゃねえぜ。きれいにかごが持ち上がったってそんなのは当たり前なんだ。音もなくスッとかごが持ち上がり『はい終了。お疲れさまでした』ってわけにはいかねえのがかご屋の難しいところよ。いいか、俺たちの仕事はそこからが始まりだ。そこから、俺たちかごかきは走り出さなねえといけねえのよ。一本の棒を二人で肩に担いでだ。これで息が合ってねえとどうなると思う?」

「どうなりますか?」

「前へ進まないね。棒の前を持つ俺が先へ進もうとしても、後ろを持つお前が反対に後ろへ行こうとしたらどうなる?かごはその場からピクリとも動かないね。お袋を賭けたっていい、かごは微動だにしねえ。俺が右に行こうとして、お前が左へ行こうとしても同じこった。やっぱりかごはピクリとも動かねえ。よしんばだ、運よく俺とおめえの行きたい方向がたまたま同じであったとする。そうなると確かにかごは動くだろうよ。俺たちの息が合ってなくったってたまたま偶然が重なれば客を乗せたかごは進むことだってあるだろうさ。だがな、そうなると今度はもっと恐ろしいことが起こるんだ。いいか、息が合わねえままかごを担ぐってのはな、何よりも恐ろしいんだ。『こんなんだったらピタリと動かねえほうがよかったぜ』ってくらいの恐ろしいことが起こっちまうのよ。」

「いったい何です?その恐ろしいことってのは?」

「客が死ぬのよ。」

「まさか。」

「ああそのまさかだ。俺とおめえの息が合わねえとな、客は死ぬんだ。いいか、よく聞け、息が合わねえとまずかごが揺れるだろ、かごが揺れるとどうなるかっていうと、次に客が落ちる。それで客が膝小僧を擦りむくだけならかまわねえぜ。だがな、乗せるのはいつもそんな運のいい客ばかりじゃねえ。客の中には恐ろしく運の悪い奴もいる。そんな奴がかごから落ちてみな。たいていはその先に決まって石ころが落ちていてよ、よせばいいのにそいつは頭から石ころ目がけて突っ込んでいってしまうのよ。そうなるともう助かる見込みはねえな。客はそれでお陀仏だ。」

「なんて恐ろしい。」

「恐ろしいだろ。とにかくかごかきにとって息を合わせるってのは何よりも大切なことだ。いいか、相棒と息を合わせることだけは絶対に何があっても忘れちゃいけねえぜ。おめえにはまだ息を合わすってことがどんなことかわからねえだろうから、いちおう詳細に言っておく。息を合わすってことはな、前を担ぐ俺と後ろを担ぐおめえとが歩く速さも歩幅も肩の高さも全部一寸たがわず一緒ってことだ。分身の術でも使ったみてえにそっくり同じに動くってことが息を合わすってことよ。そうやって棒を担いではじめて、かごは波のない水面を舟がスーッと行くようになるのさ。三助、おめえにそれができるか?」

「そうですねえ。やってみないことにはなんとも。」

「生意気なことを言うんじゃねえ!おめえにできるわけがねえんだ。息を合わせるってことはそんな簡単にできるもんじゃねえ。十年かごかきをやったって、できねえ奴は五万といるんだぜ。だがな、この俺はできるのよ。それも完ぺきにな。俺はどんな相棒ともぴったりそっくり息を合わせることができる。まさに息合わせの達人だ。」

「へえ。」

「元締めが俺におめえのようなすっとこどっこいを押し付けてきた訳はだ、おめえと息を合わせて仕事が勤まるのは江戸広しといえども俺しかいねえと、そう元締めが考えたからなんだな。わかるか?さすが百戦錬磨のかごかきを千人束ねる元締めの中の元締めよ、よくわかっていやがるぜ。」

「それで?八兵衛さんはあたいと組んでくれますか?」

「組みますかだあ?おいおい勘違いするな。いいか、おめえと俺とは対等じゃねえんだ。俺はかごかきの手練れでおめえは頭にドの付く札付きの素人だ。いうなれば大親方と末端の弟子志願者よ。弟子を取るかどうかは親方が決める。いいか与太、俺の方から聞いてやる。」

「あたしゃ三助ですよ。」

「どっちだっていい!いいか三の字、おめえ俺に弟子入りしてえか?俺様の下で一人前のかごかきになりてえか?どうだ?」

「あい。八兵衛さん、どうぞよろしくお願いいたします。あたいを一人前の男にしてやってください。」

「よし!いいだろう。今の今から俺とお前は親方と弟子だ。俺のことは『親方』と呼べ。いいな。」

「あい。親方。」

「返事は『あい』じゃねえ。さっき言ったろ。」

「えい。」

「間の抜けた野郎だ。まさかおめえ、一番大事なことをもう忘れてやしまいな。おい、三助、かごかきで一番大事なことはなんだ?言ってみろい。」

「勘弁してくださいよ。またその話ですか?今さっきさんざん聞かされたばかりですよ。こんなあたしだって忘れるわけがない。何しろ耳にタコができるほど聞いたんだから。ええ、かごかきにとって一番大事なことでしょ?まったくいやだなあ、そんなことを改めて聞いて。ええ、ええ、もちろん忘れてやしませんとも。さっき親方に聞いたばかりですからね。ちゃんと覚えていますよ。覚えていますとも。あたしは一度聞いたことは絶対に忘れやしないんだから。」

「それで?」

「それで?何です?」

「だから、かごかきで一番大切なことは何だ?言ってみろ。」

「かごかきで一番大切なことはですね、そりゃあもう決まってるじゃありませんか。お客を乗せて運ぶことです。あ痛!何で引っ叩くんです?」

「おめえの頭が良くなるように叩いてやるんだ。次は耳を引っ叩いてやる。全然聞こえてねえようだからな。痛!おい!なんだって俺の向こうずねを蹴りやがる!」

「あたしの頭を引っ叩いたお返しさ。」

「てめえ、よくも親方のすねを蹴りやがったな!ただじゃおかねえ!」

「親方だってかまわないよ!きー!噛みついてやる!」


「おやおや八兵衛さん、新しい相棒を見つけたね。仲がよさそうでよかったじゃないか。ええ?」

「あ、これはどうも、若葉町の若旦那。今日もまたピシッと決まっておりますなあ。いえなに、今こいつにね、腕ずくでかごかきの礼儀を叩きこんでいたんですよ。やい三助、この続きは後だ。」

「ははは。相変わらず威勢がいいね。泥をはねないようにしておくれよ。今日はちょいとばかり上物の着物を着て来たんだ。なあ八さん、この雪駄も見ておくれよ。ええ?どうだい?いいものだろ?本来ならこんな雨上がりの泥の上を歩くものじゃないんだよ、これはね、畳の上を歩いたっていい代物さ。さ、乗せておくれ。」

「いや若旦那、それが今日は、ああ、乗っちまった。困ったなあ。」

「さあ何をやっている。急いでおくれ。先方は私の到着を今か今かと待っているんだ。」

「また女ですかい?」

「狼だよ。怖い狼だ。さあやってくれ。」

「いえね、若旦那。乗せて行ってやりたいのは山々なんですがね、実のところ言うとこいつがかごを担ぐのは今日が初めてなんでさあ。ざっかけなく言わせてもらうと、こいつはまだかごを担いだことは一度もねえんです。」

「ほう?一度も?」

「へい。一度もありやせん。そうだろ?」

「へいそうです。」

「じゃあ今あたしが乗ったら初めての客になるね?なるほど見ればお前さん、ずいぶんと線が細いね。こんな女のようなかごかきをあたしは見たことがないよ。お前さん大丈夫かい?かごを担げるのかい?」

「へい。おそらく。」

「ならやっておくれ。」

「若旦那、良いんですかい?だいぶ揺れるかもしれませんぜ。」

「かまわないよ。この人にとってあたしは初めての男になるんだろう?ええ?いいじゃないか。初めての男。いい響きだ。一緒に揺れてみようじゃないか。さあやっておくれ。」

「そうですかい?ではどこへ?」

「聞きたいかい?」

「聞かねえと行けませんからね。」

「しかたがないねえ。お前さん方がどうしても聞きたいって言うから言うよ。女のところへ行くのさ。これがまたいい年増でね。いやもう酒なんぞ一滴も飲んでねえのに普段からほんのり酔っているようないい女なんだ。もう男なら放っておけねえ女だ。それがさ、またこの女があたしに惚れているときていやがる。ぞっこんだよ。『いつあたしのところへ来てくれるのさ?』なんて文が毎日のように来るんだ。毎日だよ。あたしのことが好きで好きでどうしようもねえんだね。ああ、あたしだって好きだよ。正直に言うとね、大好きさ。何しろ水がボタボタと音を立てて滴っているようないい女だ。だけどね、八さん、文が来たからといってすぐに行くってわけにはいかないじゃないか。ええ?そうだろ?あたしがそんな野暮な男に見えるかい?あたしはこれでも少しは粋ってもんを心得ているよ。女の気持ちだって少しはわかっているつもりだ。女ってものにはずいぶん苦労をさせられたからね。いいかい?八さん、女ってのは難しいんだ。呼ばれてすぐ来るような男はどんなにいい男でも駄目なのさ。『はい!只今参上致しました!』なんて調子で勢いよく音を立てて障子なんか開けてさ、汗だくの汚い顔でも出してみなよ、サッと女は冷めるね。百年もの間燃え続けた恋の炎だって一瞬で凍りついちまうよ。だからと言ってね、八さんこれが難しい。呼ばれたのにずっと行かない男ってのもいけないよ。だってそうだろう?ええ?せっかく家へ呼んでくれているのにさ、行かねえってのはどういう了見だい?行かなかったら永遠に会えねえじゃねえか。そんなのは女も嫌だしあたしだって嫌だ。八さん、物事には頃合いってもんがあるのさ。女が待って待って待ち焦がれて、『もう耐えられない!もういけない!もうこれ以上あの人に会えなかったらあたし死んでしまう!きー!』となったところへもって、おもむろにすっと現れるのが粋な男ってもんよ。つまりこのあたしさ。いいかい、あたしはすぐに障子なんて開けないよ。障子の向こう側に静かに座っているんだ、こう片膝なんかついてさ、まずあたしの影だけを障子越しに女へ見せる。『姐さん、お前さんをそれほどまでに苦しめている憎い男をあたしも憎んでいいかい?そこまでお前さんに想われるたあ大した男だ。』なんて言ってさ。すると女は言うのさ。『ああ若旦那、なんて口惜しいお方、全部わかっているくせにそんな口をきいて。いつまで焦らすつもりだい?早く入っておいでよ』なんてな。つまりだ、八さんここが肝要よ。恋ってもんには頃合いがあるのさ。女が男に惚れ直すちょうどいいって頃合いってのがね。あたしはその点をよく心得ているよ。だからモテるのさ。今がちょうどその頃合いってわけだ。もたもたしてられないよ。頃合いが逃げちまう。さあ急いでおくれ。」

「で?どちらまで。」

「田楽町。」

「おう!三の字、おめえの初仕事だ!気合を入れな!」

「あい!」

「いいか、俺の教えたことを忘れるなよ。息を合わせるんだ。俺とおめえでピッタリとな。相棒同士息が合ってりゃあ何も心配ねえ。心構えはできたか!」

「あいよ!さあ行きましょう!あたしの初仕事だ。ええ、担ぎますよ。担いでやりますとも。あたしにだってできるってとこを見せてやりますよ。さあ、親方、行きましょう。準備は万端だ。さあ!あれ?親方、何で行かないんです?なんです?なんだってあたしの方をみてニヤニヤ笑っているんです?感じ悪い。」

「おめえ、悔しくねえかい?」

「悔しい?」

「かごの中の若旦那とおめえはよく似ているぜ。そりゃあそうだ。二人とも同じく立派な商家の御曹司だからな。それがどうだ?ええ?片や女の所へ遊びに行くってえのに、片方はそのかごを担がねえといけねえときていやがる。さぞかし悔しいだろうなあと思ってな。」

「どうしてそんなことを聞くんです?悔しいに決まってるじゃないですか!悔しくて泣きそうですよ!」

「そうだろうよ。それもこれもおめえが何にもしねえでいたせいだ。いい勉強だぜ。これから汗水流してかごを担ぎ、いつかおめえもこの若旦那みてえになって見返してやんな。」

「そんなこと言われなくたってなってやりますよ。さあ行きましょう!」

「おっとっと!八さん、かごがやけに揺れたよ。」

「馬鹿野郎!三助、まだだ!まだ棒を持ち上げるんじゃねえ!俺の合図を待ちやがれ!おめえがいきなりかごを持ち上げるもんだから中の若旦那がよろけちまったじゃねえか。若旦那、大丈夫ですかい?」

「ああ、大丈夫だ。初めてってのはいいねえ。こうやっていろいろあるのが初体験ってもんだ。実に乙なもんじゃねえか。さあ時間がない。やってくんな。」

「へいどうもすいません。おう三の字、今度はちゃんとやってくれよ。いいか!俺が『せーの』って言ったら、」

「おっとっと!」

「だからまだだ!」

「だって今『せーの』って言ったじゃないですか。」

「今のは本当の『せーの』じぇねえ。」

「どれが本当の『せーの』かわからないですよ。」

「いいか、落ち着け。棒を持ち上げる時は俺が合図をする。合図は『せーの』。だから早い!」

「ぎゃあ!」

「あーあ、若旦那がかごから落ちちまったじゃねえか。せっかくのお召し物が泥だらけだ。」

「いてて、顔から落ちねえでよかったよ。危うく泥を食うところだった。だがせっかくの雪駄と着物が泥だらけだ。おいおめえたち、わざとやってねえか?」

「とんでもねえ。なにしろこいつが初めてなもんで申し訳ありません。大丈夫ですかい?若旦那、今日はやめにしますかい?」

「なんのこれしき。これくらい汚れている方が女も喜ぶってもんだ。いいかい八さん、男ってのはな、少し崩れたくらいがちょうどいいんだぜ。ちょいとやんちゃなくらいが女心をくすぐるんだ。『あら若旦那、どうしたんだい?着物が泥だらけじゃないさ』『ふん。なんてことない。そこの横丁でチンピラ相手に軽く埃をかぶっちまったのよ。少しばかり汗をかいてきたぜ』『まあ若旦那かっこいい!』なんてね。ふふふ。おい八兵衛、早くやってくれ!」

「そうですかい。じゃあしっかり掴まってておくんなさいよ。おい三助、今度はうまくやってくれよ。俺が合図をしてから同時に棒を持ち上げるんだぞ。さあ棒を肩に乗せろ。」

「合図は『せーの』ですね?」

「そうだ。『せーの』だ。危ねえ!ふう。俺も馬鹿じゃねえ。おめえが棒を上げるんじゃねえかと先を読んでこっちも棒を上げて助かったぜ。若旦那!どうです?見事にかごが上がりましたでしょう?」

「うん。上がったな。」

「おう三の字、今のも本当の『せーの』じゃねえぜ。だけどな、これが息を合わせるってことだ。俺がおめえの息に合わせて棒を上げてやったのよ。」

「さあ八兵衛さん、いいかげん新米の稽古は後回しにして急いどくれ。しかしなんだねえ、このかごはやけに小刻みに揺れやしないかい?」

「お、親方、早く行きましょう。か、かごが重くて、支えきれません。このまま立ってたら体が地面に沈んじまいそうです。」

「非力なやろうだな。そんなんで田楽町までもつかね。行くぜ。俺と息を合わせろよ。」

「あ、あい。」

「じゃあ若旦那、長らくお待たせいたしました。只今より出発いたします。」

「お、親方、は、早く、行きましょう。」

「おう!行くぜ!えっさ。」

「ほ、ほいさ。」

「えっさ。」

「ほ、ほ、ほいさ。」

「えっさ。」

「ほ、ほ、ほ、ほい。」

「三の字!しっかり調子を合わせろ!俺と調子が合えばかごもちったあ軽くなる。」

「なあ八兵衛さん、ようやく前へ進んだのはいいけれど、このかごは小刻みに揺れ過ぎるよ。妙な具合に揺れるものだから、あたしゃあなんだかこう、朝食った味噌汁が喉にこみあげてきたよ。」

「若旦那。もうしばらくがまんしてくだせえ。もう少ししたら相棒も力が乗ってきますから、かごも揺れなくなるはずです。だけど、若旦那。もしもどうしても戻したくなったら、かごの中は止めてください。顔を出して外へお願いします。」

「保証はできないよ。あと少しかごが揺れるようならあたしは降りて別のかごを探すよ。」

「三の字!急ぐぜ!若旦那が朝飯を俺たちのかごにぶちまける前に田楽町に着かねえといけねえ。えっさ!」

「ほい。」

「えっさ。」

「ほ、ほ、ほお。ああ、疲れた。」

「なんだか調子が乗らねえなあ。三助!腹に力を入れろ!」

「む、無理です。は、腹に力を入れたら、こっちも何か出ちまいそうです。それも上からだけじゃなく下からも。」

「しょうがねえなあ。」

「おい八兵衛さん!またかごが止まったよ。どうしたんだい?急いでおくれ。」

「わかってますよ。あっしだってね、急ぎてえんだ。そうだ!こうしよう。三助!おめえが俺に掛け声をかけろ。俺がおめえの調子に合わす。行くぞ!肩に棒を担ぎやがれ!」

「へえ。」

「息を整えろ。腹の底から『えっさ』って声を出してみな。前へ進むから。」

「へ、へい。ではいきますよ。」

「大声だ。」

「大声ですね。え、えっさ!」

「そうだ。今度は声を出した時に前へ一歩出てみろ。いいか、大きな声でだぞ。」

「え、え、え、えっさ!ああ!足が自然と前に出た!」

「ほいさ!」

「えっさ!」

「ほいさ!」

「あはは、えっさ!」

「ほいっさ!」

「八兵衛さん、いいじゃないか。どんどん進むねえ。ええ?かごはこれでないといけないよ。若えのもようやくコツを掴んだね。」

「若旦那、声をかけねえでくだせえ。今俺たちはようやく息が合ってきたところなんですから。」

「おうすまない。黙っているよ。それにしても男が本当の男になるのを見るのはいいもんだねえ。気持ちがいいよ。着物の泥なんて気にならなくなるね。」

「えっさ。」

「ほいさ。」

「えっさ。」

「ほい」

「えっさ。」

「ほ、」

「えっさ。」

「ほっ、」

「えっさ。」

「おい三の字。」

「えっさ。なんです?」

「少し調子を落とせ。息が合わなくなってきたぞ。早すぎるんだ。俺が『ほいさ』と言う前に、おめえの『えっさ』が始まってるぜ。この調子でいくと田楽町までおめえの息がもたなくなる。もう少しゆっくりでいい。」

「えっさ。」

「ほいさ。そうだその調子だ。」

「えっさ。」

「ほいさ。」

「、えっさ。」

「ほいさ。」

「、、、えっさ。」

「ほいさ。」

「、、、、、えーさー。」

「遅い!」

「親方が遅くしろって。」

「遅すぎるんだよ。これじゃあかごが止まっちまう。頃合いってもんがあるだろ。ええ、どうもおめえとは息が合わねえぜ。もう少し調子を上げていけ。だけど上げ過ぎるなよ。」

「上げろって言ったり、落とせって言ったり、言うことがちぐはぐでわかりゃあしないよ。」

「なんだ?なんか言ったか?」

「えっさ。」

「ほいさ。」

「えっさ。」

「ほいさ。おう三の字、上り坂だ。気を引き締めて行けよ。」

「親方ぁ、あんな長い坂、あたしに登れますかね?」

「登れねえったって登らなきゃならねえのよ。それがかごかき渡世のつれえとことよ。さあ登るぜ。」

「ああ坂が始まった。えっさっ!」

「ほいっさっ!」

「えっさっ!」

「ほいっさっ!」

「えっさっ!あのう、若旦那、この坂だけでもいいんで降りて、歩いて、もらえませんかね?」

「ほいっさっ。おう三の字、何をぶつくさ言ってる?」

「わ、若旦那に、この坂だけ、降りて、ほしい、と。」

「で、若旦那はなんと?」

「あたしゃあ寝てるよ。」

「はあ。だ、そうです。なんてえこった。」

「三の字、頂上はもうじきだ。頂上を過ぎたらな、楽しい下り坂が待ってるぜ。それまでの辛抱だ。いいか、坂ってのはな、頂上を超えたら次は下りとたいてい相場が決まってるんだ。下り坂のねえ上り坂はねえってな。上りがあったら下りがあるし、逆に下りがあれば必ず上りが出てくる。人の一生と同じだ。古事記にも書いてあるらしいぜ。上りと下りはいわば坂の相棒みてえなものよ。俺とおめえみてえなもんだ。さあ、頂上まであともう少しの辛抱だ。」

「えっさっ!」

「ほいっさっ!」

「えっさっ!ちくしょう!」

「ほいっさっ!あと一歩!」

「えっさっ!頂上だ!」

「ほいっさっ!下りだ!三助!油断するな!気をつけろ!」

「えっさ。ああ!坂を越えた。本当だ!下りは気持ちいいですねえ!何にもしなくたってどんどん進む。えっさ、えっさ、えっさ、あははは、親方、この調子でいきましょう!で、何に気をつけるって?」

「おい三の字、おめえおかしいと思わねえのか?」

「全然。いたって快調。なんにもおかしいことなんてありやしません。だいたい親方は文句を言い過ぎますよ。なにかってえと、三の字!息を合わせろ!だの、三の字!腹に力をいれやがれ!だのとうるさく言うけれど、あたしだってね、一生懸命やってるんですよ。せっかくの下り坂くらい楽させてくれたっていいんだ。気持ちよくかごを担いでる時ぐらい黙ってくれてたらいいんだよ。ああ、風が気持ちいい。えっさえっさえっさ。」

「おい三の字。」

「もう!なんです!」

「ちょいと横を向いてみろ。」

「横に何があるんです?なんにもないじゃありませんか。」

「そっちじゃねえ。こっちだ。」

「こっち?あら親方、こんにちは。」

「はい、こんにちは、じゃねえ!どうしておめえが俺の真横にいるんだ!下り坂でおめえ、速さを抑えられてねえんだ。だから気をつけろって俺は言ったんだよ。駆けるな!歩け!地面を踏みつけろ!足を踏ん張れ!」

「踏ん張れったってね。こう坂がきついとどうにも踏ん張りがききませんよ。勝手に足が動いて落っこちていくんだから。親方!大変だ!足が止まりません!どうしましょう?」

「とにかく踏ん張れ!絶対に転ぶなよ!おめえが転んでみろ、俺たちは全員坂の下まで真っ逆さまに転げ落ちるぜ。そうなると命はねえ。三助!頼むから転ばねえでくれ!それにしても長え坂だ。ここはこんなに長かったかな。全然坂の終わりが見えねえじゃねえか。」

「ああ!どんどん速くなっていきますよ!」

「踏ん張れ!少しでもいいから調子を落とせ。」

「無理です!足が勝手に動くんです。坂が終わらないと止まりそうもありません!えっさえっさえっさ!」

「八兵衛さん、やけにかごが速くないかい?確かにあたしは早くしろって言ったよ。だけどどうにもこれは速すぎるよ。やや!これはいったいどうしたことか!あたしはいったいどっちを向いているんだい!このかごはどっちに進んでいるんだい!」

「若旦那!しっかり紐を掴んでいてくださいよ。振り落とされたら命はありませんぜ。」

「は、八兵衛!説明しておくれ!」

「お客様、当かごは只今横向きに前へ進み、暴走しております。」

「親方!」

「何でえ三の字!」

「前に大きな水たまりがあります!」

「おう!見えているぜ。」

「どうします?」

「飛び越えるしかあるめえ。三助!ここが俺たちの息の合わせどころよ。同時に飛ぶぜ。いいか。同時だぜ。わずかでもずれたら若旦那もろとも木っ端みじんよ。」

「よーし。やってやりますよ!」

「若旦那!しっかり捕まってておくんなさい。」

「ひいいい。もういい、もういいからここで降ろしておくれ。」

「そいつはできねえ相談だ。もう手遅れだぜ。行くぜ三助!」

「あいよ!」

「三、二、一!飛べ!」

「えいやっ!」

「うわあ。やけに高く飛んだなあ。勢いつけて飛んだせいだ。こりゃあしばらくは着地できそうにねえぞ。だいぶ長く空中にいることになりそうだ。おい三の字、見てみろよ。火の見櫓があんな下の方にあらあ。」

「親方。そんなことよりこっちも見てください。ほら。雲があたしたちの横をのんびりと漂っていますよ。ずいぶん高く飛びましたねえ。あたしは雲を真横に見たのは生れて初めてですよ。」

「俺だってよ。若旦那!若旦那も御覧なさい。手を伸ばせば届く所に雲がありますよ。こんなこたあ滅多にねえんだ。若旦那!見てみなさい。若、駄目だ。泡吹いて白目剥いてやがる。」

「親方!だんだん地面が近づいて気ました!」

「おう!こっからが本番だ。なんてたって離陸よりも着地の方が難しいてっな。着地よければすべてよし。しっかり踏ん張れよ!かごを放り投げるなよ!」

「えっさ!」

「ほいっさ!」

「えっさああ!」

「ほいっさあああ!」

「うわあああ!」

 ズサアアア!

「やったあ!やったぜ!親方!」

「おうよ!見事な着地だ!さあ目指す田楽町はもう目と鼻の先だ。」

「えっさ。」

「ほいさ。」

「えっさ。」

「ほいさ。」

「えっさ。」

「ほいさ。」

「止まれい。ここでいい。若旦那、着きましたぜ。若旦那?駄目だ。座ったまま気を失ってやがる。おい三助、そっちからつついてみな。」

「あい。若旦那、起きてくださいよ。あらら、つついたらそのまま倒れちまった。」

「あーあ、泥の中に顔から突っ込んぢまったよ。おお、若旦那、気付きましたか?いやどうもすいません。後半だいぶ盛り返しましたがね、少しばかり遅くなっちまったでしょうかな?まあお召し物も、それにお顔の方もずいぶん泥だらけになっちまいました。若旦那、若旦那、聞こえていますか?」

「あ、ああ。ここはどこだい?」

「田楽町ですよ。」

「田楽町?あたしはなんだって田楽町なんかにいるんだろうねえ?」

「駄目だ。完全に夢見心地だ。若旦那、思い出してください。この町内に良い人がいるんでしょう?恐ろしくいい女が。」

「いい女?なんだかもうどうでもよくなっちまったよ。おお!お前は八兵衛じゃないか。どうした?久しぶりだねえ。元気かい?あたしはいったいこんなところで何をしているんだろうねえ。雲にでも乗っているような気分だよ。ふわふわ、ふわふわ。実にいい気分だ。」

「若旦那?ああ、行っちまいやがった。若旦那!お代はあとで店の方へいただきにあがります。三助、あれ?あいつどこへ行った?三助、三助。」

「親方、あたしはここにいますよ。」

「おうおうどこにいるかと思ったら、地面で大の字になって寝てるじゃねえか。」

「もう駄目です。動けません。」

「まあ初めてにしちゃあいい仕事だったな。今日はこれで店じまいにしよう。だいぶ疲れたろ。俺も一服させてもらうぜ。よっこらしょと、ああ、久しぶり座ると尻が喜ぶね。膝も大笑いしてらあ。ふう。煙草がうまい。この煙を見ているさ、さっきの雲を思い出すじゃねえか。なあ三助、また飛んでみてもいいな。おい、三助、駄目だ、寝てやがる。」


「あのう。」

「ふう。」

「あのう、すいません。」

「申し訳ありません。今日はもう店じまいなんです。相棒もこの通りくたばっておりますので、どうか別を当たってください。」

「別と言われましても、この辺りにかご屋さんは見当たりませぬ。どうしても急いで瓢箪町まで行かねばならないのです。大切な恩人が倒れたと聞き、いち早く駆け付けなければ日頃の恩を返せません。」

「そうは言いましてもね、お嬢さん、こっちにも事情が、はっ!」

「どうしました?かご屋さん、どうしてわたくしの顔を口を開けてじっと見ているのです?わたくしの顔に何か付いておりますか?」

「…。」

「かご屋さん。」

「はい!お嬢さんには、お嬢さんの顔には、どうやら目と鼻と口が付いております。あと耳も。」

「それがなんだというのです?」

「それが、それが、それがまた大変に、お美しい。」

「まあ。では乗せて行っていただけますか?」

「起きろ三助!」

「あ痛!なんだってあたしの尻を蹴とばすんですか?」

「いつまでも寝てるんじゃねえ。仕事だ。」

「だって今日はもう店じまいだって。」

「親方の俺が仕事と言えば仕事なんだよ。瓢箪町までひとっ走りするぜ。さっきよりも心持ち飛ばすからな。そのつもりでいろよ。いいか三助、耳を貸せ。そうだ。それでいい。お嬢さんには聞かれたくねえんだ。ふふ。」

「あはは、あたしの耳そばで笑わないでくださいよ。息がかかってくすぐったい。」

「黙って聞け。俺にもついに運が巡ってきたぜ。こんな美人と巡り会えるなんてよ。これまでの人生で一度もなかったし、これからも一生ねえに決まってる。この方を俺たちのかごに乗せてな、無事瓢箪町までお届けすりゃあ、『すごく助かったわ。あなたお名前なんて言うの?八兵衛さんと言うの。そう、では八兵衛さん、次からもまたお願いするわね』とこうくるわけだ。そうやって乗せていったらいつか俺たちは良い仲になるって算段だ。わかったか?わかったら立て。すぐに出発だ。お嬢さん!お待たせいたしました。今こいつが立ち上がりますので、立ち上がり次第すぐ瓢箪町へ向け出発いたします。おう、立ったな。ではお嬢さん、わたくしどものかごにお乗りください。あ!ちょっとお待ちなさい。いけねえいけねえ、つい今しがたまでこのかごには泥だらけの小汚ねえ野郎が乗ってやがったんですよ。少し待ってください。今掃除しますから。きれいなお召し物に、泥でも付いたら大変だ。さあ、きれいになった。よし!三助!棒を肩に担げ!そうだ。様になってきたじゃねえか。行くぜ!せーの!決まった。一発で持ち上がったな。やればできるじゃねえか。ええ?あ、もしかしたらおめえもこのお嬢さんを狙ってるんじゃねえだろうな。いいかげんにしろよ。どっちが本物のかごかきで、どっちが本物の男か、これから瓢箪町へ行く間にお嬢さんに見てもらおうじゃねえか。なあ。こうしちゃいらんねえ。お嬢さん、出発いたします。」

「でも親方。」

「黙れ三助、話は後だ。えっさ。」

「あのう親方。」

「えっさ!」

「困ったなあ。ほいっさ。」

「話は後で聞いてやる。黙って担げ。えっさ。」

「後じゃ遅いんだけどな。ほいっさ。」

「ガタガタいうな。えっさ。」

「ほいっさ。」

「えっさ。」

「ほいさ。」

「えっさ。」

「ほいさ。」

「うん。順調順調。さっきの仕事がきつかったからな。今度は楽だろ。いい調子だ。仕事を覚えるにゃあきつい仕事をやるのが一番手っ取り早えんだ。おかげでおめえもほんの少しだけ成長したな。今度は息もまあ合ってるじゃねえか。ええ?どうだい?かごが軽いだろ?息が合うとかごが軽くなるんだ。忘れるなよ、三の字、かごかきで一番大事なのはな、一にも二にも息を合わすことだ。」

「だけど親方。」

「お嬢さん、どうです?乗り心地はいかがです?お池でお舟に乗っているような具合でしょう。穏やかな乗り心地ってやつでさあ。これが一流のかごかきが担ぐかごってやつなんですよ。申し遅れました。あっしは名を八兵衛と申します。以後お見知りおきを。かあーごーをぉーもつう手えーをーひだりーにぃーかえーりゃあ、ああこりゃこりゃ、あなーたーの、すぅがたーがぁよぉーくみぃぃえーる、とくりゃあ。なあ三助、唄も飛び出る雨上がりってやつよ。」

「あの、親方。」

「えっさ!」

「参ったな。ほいっさ。」

「えっさあ!」

「ほいさ。」

「えっさ。」

「ほいさ。」

「えっさ。」

「ほいさ。」

「止まれい!さあ、お嬢さん、こちらがお望みの瓢箪町にございます。残念ながらご到着です。お名残り惜しいですが仕方ありません。着いてしまったのですから。少しばかり早かったでしょうかな?なに、楽しい時というのはあっという間と申しますからな。おや!こいつはいってえどうしたことだ!お嬢さんがいねえ!しまったあ。どこか途中で落としちまったか。やい三助!てめえ、途中でお嬢さんがかごから落っこちたのをなんで言いやがらねえ?『あれー』とかなんとか言ってお嬢さんが落ちたのをおめえ黙って見ていたのか?なんてえ薄情な野郎だ。」

「親方、お嬢さんはかごから落ちちゃいませんよ。」

「なんだと?するってえと、ははん、わかったぞ。こいつは聞いたことがある。なるほどそういうことか。おい三の字、てめえは実に運のいい野郎だ。かごかき初日からいい勉強をしたぜ。いいか、あの女は幽霊だったんだ。よくあるんだよ。まあ俺も幽霊を乗せるのは初めてだがな、かごかきにはよくある話だ。真夜中、橋の上に一人で立っている女を乗せる。この場合女はたいてい髪が長く顔も青白いと相場がきまっている。嫌だなと思いながらかごに乗せると、女は小さな声でどこどこへ行ってくれと言う。それ以外は何を聞いても何も言わない。そこで仕方なくどこどこへ行くんだが、三助、ここからが山だ。目的の場所に着くとな、女はかごから消えていなくなっているんだ。ハッとしてかごを見ると中はびしょ濡れだ。つまり女は橋から飛び降りて水死した幽霊だったって話よ。今回もその類いだな。いや、やけにきれいな女だと思ったんだよ。幽霊ってのはどうしたってきれいな女がなるもんなんだねえ。」

「だけど親方、あたしたちの客は昼の日なたに往来のど真ん中にいましたよ。それに髪も立派な日本髪、肌だっって青白いどころか艶々していたじゃありませんか。だいたい見てください。かごはカラッカラに乾いています。水滴ひとつ付いてやしない。」

「なるほど。こいつは実に不思議だ。つまり昼の日なたに一人の美しい女が忽然と姿を消したってわけか。ふむ、事件の匂いがするな。やい三助!てめえ何をニヤニヤ笑ってやがる?てめえも一緒に考えろ。大事なお客様が一人いなくなっちまったんだぞ。」

「親方は一つ大事なことを見落としていますよ。」

「この俺がか?なんだ?言ってみろ。」

「ええ。この事件には一人だけ、目撃者がいます。すべてを見ていた人間がね。」

「だ、誰だ?」

「あたしさ。親方はずっと前を向いていたので何も見ちゃあいねえんです。だけどね。あたしは一部始終を全部見ていました。一切合切をね。」

「で、おめえは何を見た?女は今どこにいる?」

「女が今どこにいるのか、あたしは知りません。だってかごに乗せなかったんだから。田楽町に置き去りにしてきたんですよ。親方は女がかごに乗る前に走り出しちまったんだ。」

「なんだと!てめえそれを見て俺を止めなかったのか?」

「止めようとしました。まだお客を乗せていませんよって何度も言おうとしました。だけど親方はあたしの言うことなんて聞きゃあしません。片方の耳だって向けようとはしてくれなかったじゃありませんか。」

「ふん。まあ、そうかもしれねえな。まあ誰にでも間違いってのはある。今回は俺が珍しくしくじったということだな。だけど気に食わねえのはな、三助、てめえが俺を見てニヤニヤしていることだ。人がしくじったのがそんなに楽しいか?」

「親方、覚えておりますか?かごかきにとって一番大切なことは何かって親方があたしに聞いたこと。それに対してあたしが答えたことを?」

「さあな。」

「あたしは『客を乗せることです』って答えたんですよ。かごかきで一番大切なことはお客を乗せて運ぶことだってあたしは答えたんだ。お客を乗せなきゃかごは始まらないですからね。商売のイの一番はなんてったってお客様です。だけど親方は違うと言いました。客を乗せるなんてどうでもいいって怒鳴りました。どうです?空のかごを運んでみて。それでもまだお客を乗せるのはかごかきにとって一番大事なことだとは思いませんか?」

「お前はいやに根に持つ性質だね。いや、今日は良い勉強をしたよ。まったくだ。実に充実した一日だった。おうおう、勘違いするなよ。勉強したのは俺じゃねえぜ。てめえの方だ。三の字、おめえは今日一日でたくさんのことを学んだよ。初日にしちゃあ上出来だ。立派な親方に恵まれたことに心から感謝しろよ。親方が俺じゃなかったらこんなにたくさん勉強はできなかったからな。いいか、もう一度だけ教えてやる。耳の穴かっぽじってよく聞きな。かごかきで一番大事なのはな、どうしたって息を合わすことだ。それしかねえ。とにかく息を合わすこと。それだけだ。息が合わねえとかごは前へ進まねえんだから話にならねえ。客を乗せるなんてのは二の次よ。」

「だけど親方、客を乗せねえと商売にならないじゃないか。」

「あーあ、三助おめえはどこまでもわかっちゃいねえんだな。可哀そうに、まったくもってなんにも知らねえ気の毒な野郎だよ。お前は、あの女がどうして俺たちのかごに乗らなかったのか、さっぱりわかってねえんだ。」

「それは親方が置き去りにしたから。」

「そうじゃねえ。いいか、あの女と俺はな、息が合わなかったのよ。」

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