読書日記 「怖い俳句」(倉阪鬼一郎)
昨日ちょうど詩歌に想いを馳せていた。今日は、いつもインスタにアップしている読書記録アカウントに、先日読み終わったこちらの本について書いていたので、なんとなくnoteにも転載しておくことにする。
↓以下、読書記録からの転載です。
幽霊、妖怪、異世界、血、殺人、死の匂い、あるはずの無いもの、あるはずの無い時間、未知なるもの、非日常のもの、「現在」を侵犯するもの、得体の知れない何か…
「怖い」とは、何というか、その文化が育むものの裏面でもあるなぁと再認識。何を怖いと感じるのか、使う言葉は勿論のこと、生活する場所・育った場所で変わるであろうな。
コロナ禍で購入して途中で読みさしになってしまっていた本書。
途中でやめてしまっていたのは、描かれる「怖さ」に食傷気味になったせいかもしれないのだけど、
以下の句のような、
外側に在る「怖いもの」よりも、自分の内側に在る/自分が到達してしてしまった異界が、私にはとてつもなく恐ろしく感じるなと読了して再認識した。
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・草二本だけ生えてゐる 時間 (富澤赤黄男)
「世界を極限に至るまで純化させ、その本質に迫れば、このようなわずかに二本だけの草が見える光景になってしまうのかもしれません。そんな根源的な怖さのある、究極の一句と言えるでしょう。」
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・半円もかきおそろしくなりぬ (阿部青鞋)
「見えているのは、「かかれた半円」だけです。その半円をかき終えたとき、作者はいまだかかれざる、本質的にかくことのできない半円の存在に気づいて戦慄するのです。」
「この空白ー人知の及ばぬ、言語化できない恐ろしい空虚」
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筆者の言う「原形質のぶよぶよとしたもの」を浮かび上がらせること、「無い」を書くこと。俳句という詩形だからこそ創出することのできる世界である気がする…究極の「宙吊り」
追記。
芭蕉から現代の作品まで、たくさんの俳人の句が時代順に括られて編集されているので、なんとなく俳句の流れがわかり、勉強にもなる。
詩の歴史は、新しい言語獲得の歴史でもあり、時代と思想の歴史でもある。(この本ではそこまで突っ込まれないけれど)
正岡子規の
・唐辛子日に日に秋の恐ろしき
・化物も淋しかるらん小夜しぐれ
・朧夜やまぼろし通ふ衣紋坂
なんて句を鑑賞していると、「客観写生」というのは簡単な問題ではないのだなと思わされる。
渡邊白泉
・戦争が廊下の奥に立ってゐた
という句が持つエネルギー(大きすぎる絶望と怒りと諦めと)については、「怖い」なんて感情を超えているだろう。「わかりやすさ」や「普遍」の真逆にある17文字が、私たちに伝えてくる、その感情そのものの質感のようなもの。