虎に翼 雑感

虎に翼に関連して教えて頂いた「隣の女」(向田邦子)を読む。
この心の隙間、想像していた以上に、トラつばの「あなたも女だからわかるでしょ」を補完するなぁ、と読み進めていたのだけど、
この物語の根にあるものは、繰り返しモチーフとして現れる「好色五人女」・西鶴によっては「殺された女」・物語における「女」=世間における「女」の、女の真の生命力による語り直しにあるのだろうなぁなどということも思い、そこもまた、トラつば哲学(女/男、という話だけでなく「語り直し」というテーマ)に通ずるのかなぁと思った。

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というようなことをblueskyに書いたのだけれど、「語り直し」について再度考えていた。

いつか。いつか誰かの手によって、優三さんは語り直されるのではないか。
「語り直す」、それは、物語における固定化された役割(キャラクター性)からの解放・生命の奪還である。
自らを「語る」場を、虎に翼の物語において与えられなかった・"聖人君子のような"優三さんとは、その「いつか」を制作者から託された存在である気がしている。

自らの過去や汚さを「語らなかった/語れなかった」優三さんと、自らの罪(として自身が抱えているもの)を告白した航一さんを分つものは、この国の「敗戦」を経たか否かなのではないか。
(そして、それは、優三さんが高等試験を諦めたところから繋がっているのだ。と気がつく。)

あの戦争と、それに巻き込まれたたくさんの生命と、その悲劇。悲劇として、固定された「物語」が一方にあって、その時、そこにあるたくさんの生命は、この国の被害者というひとつの大きな塊に収斂されてしまうようにも感じる。
時代と国家と男性性。それについて、考えなくてはならない。「物語」に固定してしまった男性たちの心は、語り直されなくてはならない。「想像」なんかで補完できない、記号化され得ないその心情を。向田邦子が、記号化された「西鶴の女」からその生を取り戻したように。

戦争責任についてだ、と十八週を観たときに書いたけれど、その責任とは、当時の国民たち(被害者でもあるその人たち)に帰するものと私は考えていたわけではない。太平洋戦争から遠く離れた世代である私のような世代(両親も戦後生まれである)が、今後自国の歴史について考える際に国際社会に対して負うものとして、考えていたことだった。過不足なく、事実としてどう受け止めるか、という。それは、「物語」とはまた異質なものだ。
(と書きながら、「物語」を否定することはしない。戦争反対を私たちに強く内在化させている役割を果たしていると感じるから)

こういうことを私たちが考え始めたときに、優三さんの"聖人君子"じゃない一面は立ち上がってくるのではないか。時代と国家に奪われてしまった、その人の生命について。
あの戦争を、そして敗戦を、その先の時間軸を生きる私たちはどう考えてゆくのか。虎に翼物語が投げかけるたくさんの問題のなかで、これは「空白」として提示され続けているような、そんな気がする。

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