虎に翼 8/1
※金兄弟が持っていたであろう思い、ヒャンスク/香子の思い、朝鮮戦争、朝鮮籍について、今週はずっと考えながら観てきたのだけれど、今日の回、入倉の語ったもの・語ることに驚き、しかし今を生きてゆく日本人として大事なことだと思うので、この文章にはこのことについて書いた。
8/1、すごく大事な回だと思った。
入倉、どういう背景の人なのだろうと思っていたけれど、そのまま、現代を生きる多くの日本人も未だ抱えるぼんやりとしたものなのではないか。
(入倉の言う「昔のこと」は関東大震災での朝鮮人虐殺だけれど、私が上記に書いたものは、大日本帝国による植民地支配、関東大震災での虐殺も含む、あらゆる差別。そして、敗戦後の朝鮮人たちへの処遇への無知、などの全てである)
「昔のこと」について、自分自身はどう責任を取ってゆくべきなのか…自分と接続していない自国の加害の歴史について。知れば知るほど申し訳なさは募る。だからこそ、謝罪で終わることはできないし、その歴史に対して自分は何もできないと思わされる。
何もできないから、差別感情へと反転してしまうのではないか。何もできない、という感情を持ち続けるのは不安であるから、人間は何かに帰属させたがるのではないか、、
今週は、
昨日の回の優未の「優しくないよ。困ってる人を助けるのは当たり前」と、
今日法廷で、無罪判決を受けた顕洙の礼への航一の「感謝されることではありません」が、共通の哲学を持ったひとつの答えであるような気がする。
過去に自国がしたことへの自分の責任について、加害者としての感情について、持ち続けるのが「不安」であるその落とし所のない感情について。
加害感情が反転して、被害者への攻撃となること
その逆のベクトルに、被害者となった存在は「かわいそう」という感情もあって、こちらに陥ってしまっても、そこには「平等」なんて生まれない。
優しいわけじゃない、かわいそうだからじゃない、向けられる悪意があまりに醜悪だからじゃない、その人が纏う出生によるカテゴリ故じゃない
その人が困っているから、その時に必要なことを、自分ができる場所にいるだから、当たり前にやる。
これは、おそらく、これからを生きてゆく私たちへのひとつの答えだ。
歴史は清算されない。したことは許されない。謝罪の気持ちを持ち続け、その自分の無力に対して、上記で書いたような意味での「不安」を私たちはずっと持ち続けることになる。
「平等」の理念は、こうした「背景」を時にフラットにしてしまうのだろうということにもやっと気がつく。
だからこそ、全く逆の意味で、それが必要な時があるのだ、ということにも同時に気がつく。
今日の最後、ライトハウスで杉田兄弟と一緒になることの意味。
「奢る/奢られる」的な、力の勾配のついた場での会食でなく
個の食事の空間が同化した場。独立した個が同席する、ひとつの食卓なのであった。
(寅子が入倉に「奢るわ」と言ったのには、この間には勾配があることを示し、入倉においては、この勾配ゆえに寅子に自分の感情を語ることができた、というのがあるのだと思う)
寅子の語る「平等」は、とても理念的で、時に、人々の持つ「背景」(許し難いと思い続けること。暗い感情、不安。)をも、フラットにしてしまう。
太郎の語る「まだ戦後10年、平等の気を使えるのは学があるか余裕がある人間だけ」に込められたものについて、"現代の/(過度に両極化した)SNS空間で物を書く"私たちは、しっかりと見つめる必要があるように思う。
簡単に答えなど出さずに。抱えながら。
と、航一の告白の内容も待たずに勢いでここまで書いてしまった。明日の回を観たらまた修正するかもしれない。