お返事

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お手紙ありがとうございます!!すごく嬉しくて、何度も何度も読みました。(ちなみに私は手紙を頂くのが一番すきです。花よりもお金よりも)

杉浦日向子さん、「百日紅」しか読んだことがなかったので「百物語」も読んでみます!ご紹介頂いた帯の文面、まさに「神様」の世界ですねぇ。

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「物語/脱・物語」、どうして私はこう思ったのだろうか。と考えたときに、「江戸の想像力」(田中優子著)という本で読んだ、中国の小説(それに影響を受けてきた日本の江戸までの物語たち)/西欧の小説の差、というテーマによるものだ思い至り、それについて追記しようとしていたところでした。

南宋の盛り場で説話師によって語られた「小説」と、その「白話小説」を元に日本の「読本」の世界へ作り上げた秋成の「雨月物語」に言及してゆくという流れなのですが
中国の「白話小説」は、語り口を変え変化し続け、完成ということがない。中国の小説には数多くの異本や版本が存在し、そこには「全体の構造の建築学が確立していない」と言うのです。
これは、「作品世界の最終完結性」を絶対的に持つ西欧の小説と全く違う構造を持っている。中国の白話小説・日本の物語(これは「書かれた」形式のものだけでなく、語られる・演じられるという文脈の、能や義太夫の物語にもつながるようです)は、元の物語、から無数に枝分かれをしてゆくことを良しとしてきた。
宇治拾遺物語についての、教訓的な話の合間に挟まる雑談のような話、という言及に、このテーマが繋がりました。「最終完結性」を持たぬ物語。物語の一貫性や秩序やメッセージ、みたいなものから遠く自由な、「思いついたまま、愚痴を言ったり、笑いを取ったり」(笑い、という要素!)これはまさにだな、と思いました。

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虎と翼という物語の「怒り」は、「やりきれなさごと受け入れ、そこにこそ語るべきを観る」(素晴らしい表現!)という古来からの日本の「物語」の文脈から大きく離れ

同時に、作者が用意したひとつの結論へ向かおうとする西欧の「物語」(=近代日本の小説が辿ってきたもの)の力からも、その怒りが大き過ぎるあまり・その救いたい対象が多過ぎるあまり、逃れてゆこうとするエネルギーを感じます。力から逃れようとするエネルギーとは、変な表現だとわかってはいるのですが。

虎と翼の「物語」は、ナレーション(=この「物語」を語る人)がキーだと思うのですが、
なるほど、語り手が常に「怒り」を持っていることで、「物語」が今までのそれと同じようなスムーズさを持っていないのかもしれない…そんなこともふと思いました。

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ブルースカイの返信欄に書こうと思いながら、iPhoneのメモに入力し始めたらこんな長さになってしまいました。今日は週末なのに暇でして、晩酌は桃のような風味の美味しいワインでした。
きっと世の中には色んな週末があるから、(あるのに、とも言えるのか?)こうして少しだけ重なる瞬間が愛おしいです。

こちらこそ、また来週からもよろしくお願い致します。

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