日記 9.14
古い「言語」で思考することの、危うさというものがあると思う。
「言語」とは、思想であり、その当時の雰囲気や熱情であり、そこに反発してきた歴史であり、「否定」と最先端があり、「否定」の残滓としての情緒やロマンティシズムなどもある。
朝ドラ「虎に翼」は、古き"左翼の言語"を刷新しようとしているのではないかと思う。
この物語が見ているものは、現代の、これからの、普遍的な、人間への、である。ことはわかっている。しかし、それを大前提として、今の私はそう思う。
今週の、学生運動の描写。「悪」を前提してしまう・倒すべき「悪」がある、という言語(ここで潰えたものと、この国のその後)について、物語で語られる意味について考える。
この物語の「家族」観は、一筋縄ではいかない、と思う。これを、既存の何かで考えてはいけないのかもしれない、とも思う。「家制度」を圧倒的に否定し、その上で、「家族」をどう肯定してゆくのか。新しい「左翼」の言語が、必要だ。とてつもなく。この後の50年の時間(私自身がそんなに生きられるかはわからないけれど。しかしこの後の100年へと繋ぐ時間としての)を生きてゆく私たちのために。