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俺の人生の振り返り(将棋との出会い〜将棋との別れ)そして新たな道の模索



俺は小さい頃から将棋をしていた、ただ将棋をやめることになったまた、俺の5〜9歳の振り返りとしてこの作品を投稿したい。
ではお読みください。


将棋との出会い

5歳の時、富山のお母さんの実家に遊びに行っていた時、コロナの緊急事態宣言があり、3ヶ月ほど家に帰ることが出来ずにいた。そしてたまたま将棋をした時面白いと感じた。このときから俺の将棋人生は始まっていた。最初は凄く面白い遊び一種だと思っていたが、すぐにその奥深さに魅了された。おばあちゃんとお母さんが丁寧に基本を教えてくて、最初はコマの動かし方、種類もわからなかったところをお母さんが紙に、動かし方ガイドを書いてくれたこともあった。そのうち毎日少しずつ上達していく自分は勝つことに喜びを感じていた。

楽しかった詰将棋

詰将棋やピヨ将棋に熱中し挑戦し、自分が強くなっていくことを実感していた。将棋の世界にのめり込んでいく過程で、詰将棋は特に好きな練習方法でお母さんやたまにはお父さんと詰め将棋の力を磨いていった。
この時点では5手詰めを解いていた。
5手詰めハンドブックをやっていた。
毎日その日によって違ったが、ほぼ朝から晩んまでやっていた。母によると、もう付き合えないくらいくらいやっていたようだ。
朝起きてやろうと言い始め、昼食後やろうと言い、寝る前もやって、夕食後は独自の戦法を編み出して紙に書いていたりしたらしい。

ただ飽きた。7手詰めが相当難しくてやる気がなくなった。難しい問題が多くて飽きてしまった。


将棋への一時的な興味の喪失

俺は年長の秋頃にはお母さんと互角に戦えるほど強くなった。しかし、年長の秋になった頃、将棋に飽きてしまい一時的に興味が薄てしばらく将棋をすることはなかった。それでも完全に忘れることはなく、心の片隅に将棋はあった。

将棋の熱の復活と硬い決断

1年生の夏ごろには再び将棋熱が完全復活した。その間俺はカードゲームやSwitchのゲームにハマっていた。カードゲームでは宝石のきらめき、カタン、そのほかにもドミニオンやスリーピングクイーンなどもしていた。Switchのゲームではスーパーマリオブラザーズや星のカービなどをプレイしていた。
しかし一度カードゲームやSwitchのゲームも飽きて再び将棋をするとまたも将棋に魅力され、さらにはプロの将棋棋士を目指すという決断をした、だがこの時は将棋のプロ棋士を舐めていたかも知れない。

卓球と家族の時間

1年生から2年生の間、卓球スクールにも通い、家族と一緒に卓球を楽しむことも多く将棋だけが好きという訳ではなかった。ただ卓球は家族との時間を大切にするためのもので、熱中していたのは将棋だった。

青葉将棋クラブに疲れて通えなかったこと。頑張っていけるようになったこと

将棋クラブに通うのは決して簡単ではなく、途中で疲れて通えなくなった時期もあった。それでも、将棋のプロ棋士になるには頑張っていくしか無いと決断し、1ヶ月に一回〜2週間に一回〜1週間に1回、とだんだん青葉将棋クラブにいく頻度が増えていった。
この頃からだんだん将棋のプロ棋士になる厳しさを実感してきた。

M八段への思い

三軒茶屋の将棋教室に俺は通っていた。
そこのM先生は引退棋士ではあるがやはりプロ棋士は強い。
最初は8枚落ち(相手は歩9枚と金2枚、王だけで戦わなければいけない)で指導が始まった。
M八段は定石などは教えてくれなかったが部分的なヒントを与えてくれて毎日頭を使う日々だった。
またM八段は大のお汁粉好き!なんと夏でも飲んでいることがあるほど。
ジョークも多く言うのですがそれ以上に三軒茶屋に通っているMさん(M八段ではありません)との会話の方が面白く、お互いに喋っていてしかもお互いお互いの喋っていることを聞いています。
M八段に感謝!! 


プロ棋士への決意とマインクラフトの断念

3年生の頃、俺はゲームをしていたそしてゲームをやめることを決意した。なぜかというとゲームをしていてもプロ棋士になれるほどこの世界は甘くないと思った、そして決断に至った。本当にこの決断は辛かった。それだけ俺はゲームも好きだった。

母が重い病気になってしまい、一人で頑張って将棋会館に行ったこと。

母はなんと重い病気と診断された。そのとき、まず一番に受けた感想はショックだった。その後プロ棋士になるには母の付き添いがなくても将棋会館に行かなければと思い、シッターと将棋会館に通った。その中で出会ったHさんは、電車での会話を通じて将棋会館後のリラックスタイムとなった、そして何より面白く親切な人だった。なんとたい焼きや大学芋をくれたこともあった。本当に感謝しかない。またこの経験を通して後に将棋会館に1人で行けるようになった。そういえば将棋会館にいった最後の日まで電車が発車する音が俺を励ましている言葉に聞こえた。
また母はいまは健康です。

段位を上げるためにした多くの挫折と工夫

昔は同じ場所で無いとなかなか実力を出せなかったり、もともと長考派だったので時計があるとなかなか考えることが出来ず最後の最後まで課題だった。でも経験を重ねるごとに少しずつ実力を発揮できるようになってきた。また大会の昼食の時にサンドイッチを食べていたのだが緊張しすぎて嘔吐してしまったこともある。

その他にも、勝ちたかった一心で一手に時間をかけすぎる癖があり、対局数が少なくなる問題も抱えていた。それを改善するためストップウォッチのようなものを買って使っていて対局数が増えた。またAIを使っているのではないか疑われたこともあった。誤解はどうかおやめください!!


厳しい修行と三段昇段

2年間厳しいことだらけだった、ゲームとの別れ、母の重い病気、長考傾向の改善。だが3年生でついに三段に昇段。多くの時間と努力、そしていろんなことを捨てたその結果が、この昇段で実を結んだ。

プロになりたい気持ちと、将棋に集中できない気持ちの揺れ動き

プロ棋士を目指したいという気持ちはあったが、将棋だけに集中し続けるのは難しかった。疲れや集中力の問題で、思うように将棋に熱中できない自分との葛藤が続いた。
また俺は将棋に飽きつつあったかも知れない。
将棋の内容の興味を失いつつあった。
なぜかというと単純に飽きたそれだけ。

プロ棋士への道の葛藤

藤井聡太や伊藤匠のような超一流棋士を目指していたが、俺にそんな強くなれるのかが心配だった。俺は努力できるか、才能があるか、現在の実力があるか、全て不安要素だった。それでも諦めきれない思いが自分を支えていたが、同時に現実の厳しさも感じていた。

最後の挑戦と奨励会試験

4年生の時、奨励会の試験を最後の挑戦と決め、「これに合格できなければ将棋をやめる」と自分に誓った。だが試験に向けて努力することはできなかった。将棋の内容の興味や体力の限界など俺には努力するほどの力はなかった。そしてついに試験が1ヶ月半に迫る。

将棋との別れ

残り1ヶ月半に迫った時、「もう俺は興味も体力も無いよって努力できない」。そう思い奨励会試験に受けるのはやめここでやめようと思いさっぱりと将棋との別れを決断。将棋の日々からは多くのことを学んだが、新しい道を見つけるために将棋をやめることを選んだ。

新しい目標を探して

将棋をやめた後、ゲームプログラマーやプロゲーマー、研究者など、さまざまな選択肢を考え始めた。新しい目標を見つけて、次の戦いの場を模索している。

最後に

最後まで文章を読んでいただき誠に光栄です。

感想ですが書いて大変すぎでした。父が何度も書き直せというのですが、父のアドバイスは終わらない!!「きつすぎ!!」

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コメントもぜひお気軽に♪
他の作品もぜひ読んでほしいのでよろしくお願いします。
最後にアンケートですが俺の将来の職種で「こういう職種がいいんじゃないかな?」と思った人もお気軽にコメントまでお伝えください。


考案者 父、チャットGPT
作者 俺
アドバイザー 俺、母


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