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【手記】昭和21年、北朝鮮からの脱出、  そして生還[第8章]正月の祝膳 

[五合の御飯を炊いて思い切り食べてみたい]

 店の仕事も順調になった頃、もといた日本窒素の寮で別れたままの友だちの安否が気になって尋ねてみることになった。峠越えなので往復二時間の予定だ。久しぶりの再会で皆喜んでくれたが、発疹チフスがここでも流行して、何人かが罹っていた。積もる話もあるが長居はできなかった。私一人ではなかったからだ。途中、ソ連兵とも行き交うので、勗君を背負って行けば私も安全という思いと、勗君のおりにもなるという理由でオーバーをネンネコのようにかけて着て行ったのだった。川に沿った土手道の途中には煉瓦工場もあったりした。お昼に出かけても日暮れは早い。帰りつくのは夕方になった。

 こんなこともあった。天機里には大きな市場があり、食料品が主だが(のようなもの)とかお好み焼きとか、魚のてんぷらとかをオモニ(女性)があぐらをかいて売っていた。おいしい匂いが一杯で、おなかがグウグウ鳴った。そんなところで一度だけ買い物袋からお財布をすられたことがあった。すぐに盗った男がわかったので「あんたが盗ったでしょ」と詰めよった。しかし、もうその時には、私の財布は仲間の男たちにリレーで手渡されていて現物はなかった。反対に、「とったかどうか、調べてみろ』と居直られ、「このうそつきヤロー」とののしられ、数人の男たちに袋叩きにあった。殴られていて痛いうえに、悔しくて涙がこぼれた。また、なけなしのお金で味噌を買いに行った時も、お椀の周りに上手に盛り付け、真ん中をへこませて薄く味噌をのばしちょっとおまけといって少しの味噌を乗せるのだが、なかは空っぽというごまかしもやられた。

 昭和二十年もそろそろ終わりに近づいたが、私たちには年末もお正月もなかった。でも、思いがけず洋服屋の金さんが、お正月の祝い膳に招待してくれたのだ。高脚付きのお膳に銀の箸、ドブロクの祝い酒や白い瀬戸物の深い丼に山と盛られた白米の御飯。久しぶりに見た私たちにはまぶしく、びっくりするばかりだった。おかずは何だったのか覚えていないが、朝鮮では御馳走は山盛りに盛るのが正式だったので、さぞや壮大なものだったと思う。奥さんが、は縄を燃やしその上で焼くと柔らかくなるんだと教えてくれたことを覚えているから、鮑もあったはずだ。第二夫人の三歳くらいの男の子の名前はチュンソーナーといった。

 お正月の前だったか後だったか、金さんの弟さんが京城へ買い出しに行ったことがあった。当時、三十八度線は既にあり、南はアメリカ、北はソ連が占領していた。しかし、証明書があれば汽車に乗って、京城に行けたらしい。二、三日の旅行だったが、帰ってからが大変だった。当時の警察だった保安隊が家の前後に見張り、家宅捜索が行われ、朝鮮語の激しいやりとりがあった。私たちは息をひそめて早く過ぎ去るのを待った。金さんが後で興奮していたから、なにか没収されたのかもしれない。

 その少し前だが、私たちは鳥目になった。ビタミンが不足しているせいで夕方日暮れ時になると、目がものすごく痛んできて目を開けていられなくなるのである。何とかせねばと市場で、きな粉を買って一所懸命なめた。きな粉が効いたかどうかはわからないが、その後、少しずつよくなってきた。と思ったら、今度は、姉も私もひどい下痢におかされた。凍てつく夜なかに戸外にあったトイレへサンダルを突っかけて何度も通い、寝ることもできない日が続いた。姉はとうとう高熱を出して、寝込んでしまった。金さんの親戚に医者がいるというので紹介してもらった。幸い私は快方に向かっていったので、地図を書いてもらい、勗君をおんぶして、その医者をたずねて薬を貰いに行った。しかもそのうえ、温かい御馳走までいただいた。火鉢の上で焼いたお餅を胡麻油をひいたフライパンで再び焼き、砂糖醤油をまぶしたものだった。そのおいしかったことは、今でも忘れられない。おなかがよっぽど空いていたのだろう。勗君にも赤ん坊用の御馳走を貰った。なかなか立派な医院で台所には朝鮮漬のがずらりと並び、お金持ちそうだった。家族はみな敬けんなクリスチャンで、日曜日に教会にに行くための男の子用のセーラー服の注文を受け、服を届けに行ったこともあった。  

 薬が効いてきて、ひどかった下痢もだんだんよくなり、姉の熱も下がった。母屋の奥さんが作ってくれたお粥を食べられるようになり、元気になって、また店の仕事に精を出した。寒さはますます厳しくなっていった。夕飯のあとにでる、薪を燃やしてできた炭化したオキというもの(火つきがよかった)をコンロにもらって暖をとった。また、底にこびりついたお釜の御飯にお湯をさしたものをもらって飲むと体中が温まり、なかに御飯粒がいっぱい入っている時は嬉しかった。

 よく姉と一度でいいから、五合の御飯を炊いて思い切り食べてみたいね、と話し合っていた。そして実際にやってみるとあっという間に食べられてしまった思い出がある。おかずはなくとも御飯を噛んでいると、口の中に甘味が広がりおいしかった。白い御飯に飢えていて、おかずなどとは思いもよらぬことだった。

 店の練炭を使い鍋で御飯を炊き、毛布にくるんで部屋に持ち帰った。勗君の足元に置き、一つの暖を三人で囲んで夜は寝た。(つづく)

#昭和21年北朝鮮から脱出 #俺たちの朝陽

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