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【連載小説】俺たちの朝陽[番外編・哲彌の酔歩記1]鈍色(にびいろ)の雲〈前篇〉

【プロローグ】

 大都会の中心地にあるのにそこだけが置き忘れられた、吹き溜まりのような一角で餃子屋『ヒゲ』に集まり、新宿区の早朝野球チーム『27時』に参加した面々のひとり哲彌は、20代の初めから荒波に揉まれながら歩き出していた。

「兄(あん)ちゃん、仕事あるよ」
 二日酔いのため、新入社員の哲彌は会社での朝礼もそこそこに酔いを覚まそうとして、近くの公園のベンチに座り身体を「く」の字にして両足の間に顔を入れて眠っていたところ、そこに声をかけてきた男がいた。哲彌が目を覚まして、顔をゆっくりとあげると、スーツ姿で捩れたネクタイ姿の哲彌を見た途端、 
「寝てないで、仕事しろよ」と、その男が怒鳴った。 
 どうやら、哲彌を仕事にあぶれた浮浪者と間違えた手配師のようだった。
 前の晩、酔い潰れて路上で眠り込み、朝方慌てて前日着ていた皺だらけのスーツのままで会社に行ってしまったのだった。シャツの襟もヨレていたし髪は寝癖のまま。   
 その手配師が間違えるのも無理はなかった。この頃は手配師の方が、人探しで困っているようだった。
   
 哲彌は、スペインでの放蕩生活のあげく、持ち金を使い果たしたため、飛行機嫌いなどと言っている場合ではなく、スペインに行く前にパリで世話になった川瀬に教えてもらった、パリのうらぶれた路地裏のチケット屋で、格安の航空券を買い、出発地のアムステルダムまで、なんとか行き着いた。一泊した次の日、飛行機内で座席に座っていると、パーサーが何やら哲彌を呼んでいる。
「お前は、ダイレクトで日本に帰りたいか」と言っているらしい。
「ダイレクトで日本」という言葉だけはなんとか解ったが、あとはよく解らないまま頷くと、
「すぐに隣の飛行機に乗れ」と有無を言わさず、追い出された。
「俺のトランクは?バッグは?バガージュは?バゲージュは?」と、思いつくままに通じそうな何種類かの言葉で訴えたが、 
「心配するな、後で送り届けるから」と言うばかり。
 仕方なく言う通りにしてスカンジナビア航空(SAS)機に乗り替えた。 
 最初に乗り込んでいたKLMオランダ航空便はマニラで一泊し、そこで別機に乗り換えて羽田着という行程だった。どうやらパリの安売りチケット屋がダブルブッキングをやらかしたのだ。 
 次の日の昼頃に羽田の飛行場に着いたので、何はともあれ家に電話すると、慌てた母親が、
「すぐに浜渕君に電話しなさい」と言う。 
 なんの事やらわからないが、とりあえず連絡すると、 
「お前、明日卒業試験だぞ。試験範囲を教えるから、すぐ来い」
 哲彌は一年生時に取るべき教養単位の文化人類学だけをわざと落として留年を選び、シベリア鉄道に乗り込みヨーロッパへ向かったのだった。
 その卒業試験日が、選りに選って帰国の翌日なのだ。その単位を取らないと大学六年生になってしまう。流石に授業料を親に無心できない。  
 持つべきは友である。 
 浜渕は、試験範囲を調べていてくれたのだ。それだけではなく、彼は卒業していたが、もし哲彌が帰って来なかったら、身代わりに試験を受けるつもりだったという。哲彌の弟に、
「兄貴がヨーロッパから帰ってこない、卒業試験が迫っている。どうしよう」と打ち明けられていたからだという。情に厚い男である。  
 しかし、替え玉が発覚すれば、哲彌はもちろん退学、浜渕は学位剥奪は免れない。 
「ブチ、ありがとう」と言う間もなく、家に帰り、時差ボケもなんのその、徹夜で文化人類学と格闘した。
 お陰様というべきか、先生のお情けによるものだろう、「優、良、可」の合格3段階の内、ありがたく「可」をいただき無事に卒業できたのだった。
 著名な教授は、この男を一年留年させても何の意味もないと思ったのかも知れない。
 もし、パリのチケット屋がダブルブッキングしなかったら、マニラで一泊し、試験当日の帰国となり、たぶん良くて留年、もしくは哲彌は退学、浜渕は学位剥奪の最悪の場面が訪れていたかと思うと、KLMオランダ航空のパーサーや、何といってもチケット屋に感謝、感謝である。
 何が幸いするか、解らない。諦めていたが、トランクは無事2日後には 戻ってきていた。
  
 めでたく卒業し、内定していた主にラジオ局の広告枠の販売を請け負う小さな広告会社に就職した。その春にヨーロッパから帰って来れなかったら、プータローになっていた事は確実だった。
 その会社に与えられた仕事は、広告をもらうべくスポンサーへの飛び込み営業だった。印刷媒体での職種を希望していたが、まず広告というものを勉強させるという意味で、営業部員として鍛える事となっていた。一年前に入った先輩の中には、その会社のクライアントだった漬物店の販売補助という形で、デパートの売り場に派遣されたり、同じく結婚式場のフロント係を仰せつかったりしていた。
 ラジオ広告を打ってくれそうなスポンサーを探すのは、至難の業がいる。まずはデパートに行きスペースを多くとっている製品の会社から始めるが、なかなか見つからない。一日足を棒にしてやっとそれらしき一社を見つけるが、電話をしてみてもなかなか取り次いでもらえない。日報に一日の行動を書かなくてはと焦るが、書ける事が無い。仕方なく
「担当の何々さんは出張していて会えませんでした」と創作していると、
 営業部長に見破られてしまう。
「おう、何々さんの上司は元気だったか」と返されてしまう。部長にはごまかせない。デパートに出展している会社のことを全て頭に入っているみたいだった。
 プロの営業マンの凄さだ。
 その会社では、教育のその一環としては、その頃巨大になりつつあった広告会社の新人教育に倣い、富士山登山もさせられた。今では懐かしい良い思い出になったという。
 しかし何より大変だったのは、飛び込み営業だった。ラジオ番組の内容も解らずにアポイントも取らずに突っ込んでいく軍隊式営業そのものだった。
 
 営業に走り回っている時、ある会社の受付には、 
「押し売りと広告会社はお断り」という張り紙が貼られていた。 
 哲彌は押し売りと同じと思われてるのかあと、意気消沈した。巨大産業の一員たる業界になるとは、その時は考えもつかなかった。 
 また、あるクライアントに電話すると、
「お会いするのは、やぶさかではありません」というので、勇んで行ってみると、それは体のいい断りの常套句だったのだ。
 京都で「ぶぶ漬けでも」と言われたら退散しなければと言う話を聞いたことがあるが、「やぶさかではない」というのは、同じ事でやんわりと断られたのだった。哲彌は、そんなの知らないやと思ったが、勉強にはなった。建前文化を知ってその後、気取ってそのフレーズを言いそうになり、流石に気が引けて胸にしまった。
 慣れない仕事に疲れ果て、毎晩、その憂さを晴らそうと酒に溺れ、昼間公園のベンチで仮眠をとることになったのだった。
 
 会社もそんな営業ばかりではと考えたのか、哲彌に関東の酒造組合の広報誌にスペイン滞在記のエッセイを書かせたり、家具屋のラジオ用の20秒ほどのコピーを書かせたりしていたが、結局は3、4ヶ月後には印刷媒体部を閉鎖してしまった。広告代理店各社は、勢いを増してきたテレビ局の広告獲得に力を入れ始めていたからだ。
 番組を提供するメインスポンサーのCMの後にチョコッと15秒なり30秒のCMを流す事を「ヒッチハイク」などといった自虐的な言葉が飛び交う業界だった。 
 ラジオだろうが、テレビだろうが営業仕事には変わりない。哲彌には全く向いてない仕事だった。
 それでも業務だからとめげずに、後少しで2社契約ができそうになるまでになっていた。 
 しかし、契約の前に会社の方針が変わり、見切りをつけた哲彌は、6ヶ月後に退社する事にしてしまった。 
 その後、哲彌が担当していた2社のCMが決まったということを聞いて、勤めていた6ヶ月の給料分はお返しできたのじゃないかとホッとした。
 喫茶店に入って退職届を書こうとしたら、偶然にも高校の野球部の同僚が来て、
「何を書いているんだ」と聞かれ、少し恥いった。のちに通販会社の仕事を紹介してくれた男だった。 
 何の当てもなく辞めてしまったが、その年の秋にオイルショックが日本を襲い、新聞の求人欄が半分になってしまった。
 仕方なく、その頃職にあぶれた若者を集め、広告制作の一員を養成する会社のコピーライター養成所の講座を受けることにした。
 しかし、そこを卒業したもののすぐに就職先が見つかるべくもなく、哲彌も種々のアルバイトで糊口凌ぐほかはなかった。〈後篇へ〉

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