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【手記】昭和21年、北朝鮮からの脱出、 そして生還[第10章]母さえ逃げ出す姿で
[海中の三十八度線を越えて…]
港外に出たらしいが、海はひどく荒れ小さい船は波にもまれ続けた。三日三晩くらいかかって何とか三十八度線を越えたと船頭は言ったが、すぐにここで全員船を降りろという。自分たちは闇船だとわかるとたいへんなので、そこはまだ海のなかなのに降ろされ、そして船は全速力で帰っていった。放り出されたのは、というところだった。足は底についたが胸まで浸かる深い海のなかで荷物を頭に載せ、いくらかでも濡らさないようにして岸までたどり着いた。姉は赤ん坊を山歩き用のリュックサックに入れたら、防水されていたらしく浮き袋のようになって掴まることができたという。無事に上陸を果たし、砂浜で荷物を干していたところを米軍に保護され、収容所に連れて行かれた。南朝鮮は米軍が占領していたから、日本人が上陸して来たとの情報を受け、すぐにトラックを差し向け収容所へ収容したのだった。小学校の校舎らしいところで消毒(DDT散布)や検診をすませた後、食事を出された(ほっとしたのか、何が出たのかは覚えてはいない)。
その後、アメリカの貨物船とトラックによってリレー式に日本海沿岸に添って転送され、給食を受けながら釜山についたのは四月も半ばを越えていた。釜山で帰国の順番を待ちながら四、五日が過ぎた。
四月の二十七日の夜、ついに待ちに待った帰国できる日が来たことを知った。それも日の丸のついた駆逐艦が我々を日本に送ってくれる由、夢のように嬉しかった。二十八日夜に釜山港を出港、明日は日本へ帰れるとあって艦の中はにぎやかだった。駆逐艦のなかをいろいろと見せてもらった。さすがに駆逐艦はパワーがあり、翌朝にはもう、なつかしい朝日輝く松並木が目の前にあった。その港は仙崎とのことであった。(四月二十九日は天長節だった。軒先の日の丸がとても印象深かった)
直接接岸はできないから、小船に乗り替えたと思う。ここでも収容施設に入り、問診、診察、DDT消毒の後、帰宅先を申告し、所持金の有無、当座の小遣いと帰宅する鉄道の路線図、それに伴う運賃などを説明され、そこで日本政府から現金を支給された。
下関を経て、山陽線で大阪に出た。はじめてみた大阪駅前は、見渡す限り焼け野原だった。北陸線に乗り換え、父母が東京でB29によって焼け出された後、すぐに疎開していた柏崎に私たちが着いたのは翌日だった。住所は、姉が羅南にいた時に貰った両親からの手紙を、しっかり持っていてわかっていたので、場所を道々聞きながら辿り着いた。柏崎本町の養徳寺というお寺だった。
玄関にたどり着く前に、井戸端で洗い物をしていた母が自分の娘とは知らずにお寺の奥さんに「乞食が来たようだ」と告げたが、私たちが「阿部の娘」だというと髪が真っ白になった父が出て来たのだ。私たちをほんとうに乞食が来たと思ったらしい。それもそのはず、髪の毛はボサボサで黒い顔をしてボロボロのオーバー姿。足にはいていたものは、親指がとび出ている地下足袋。カンカラを下げた手許。それに赤ん坊を背負った姉の思いがけない姿に、腰を抜かさんばかりにびっくりしたのは当然だっただろう。よくぞ生きて帰って来られた。帰って来られてほんとうによかったと、涙、涙、涙。
柏崎にたどり着いて、銭湯で今までの汚れを洗い落とし、母の手料理で体力をつけ、やっと人間らしさを取り戻していった。しかし、ちょうどその頃、父が定年退職(五十五歳)を迎え、一家の生活を考えなければならず、柏崎を引き揚げ新潟の市内へ出た方が良いということになり引っ越すことになった。昭和二十一年の秋のことだった。新潟には母の親戚も二軒ほどあり、父の旧友もいるため、それを頼りに移ったのだった。
それから父は、旧友の営む卸問屋に迎えられて勤めるようになり、姉も京城から引き揚げておられた中山さん(前出、お勤めの朝鮮石油が終戦前に閉鎖になって金沢に引き揚げられ、父と連絡がとれていた)の紹介で、大和百貨店(本店は金沢市)に婦人服のデザイナーとして就職、私も前に勤めていた帝国石油新潟鉱場に就職し、三人の働き先が決まった。母は勗君をおんぶして、大和百貨店へ一日二回授乳のため通うこととなった。私は、帝国石油の郷津鉱場から新潟鉱場に転勤してきた、いまは亡き夫・一彌と知り合い、昭和二十二年十月十七日に職場結婚した。
残るは義兄の帰りを待つだけになった。当時、NHKラジオで朝夕二回引き揚げ者リストを読み上げる時間があり、その時は耳をそばだてて緊張した。私たちの帰還から二年たったある日、義兄の名前が流れ舞鶴に帰還との放送があった。その時の家中の喜びはたとえようもなかった。地元の新聞にも帰還者として氏名が載っており、そのことを確認できた。舞鶴に入港する日時を確かめ、迎えに行く準備が進められ、父と姉は義兄の実家のある長岡まで出迎えることになった。長岡で一泊して翌日新潟へ帰ることになり、母は朝から準備に大わらわだった。新潟駅には私と主人の二人が出迎えた。義兄は見知らぬ人物にびっくりしたことだろう。生きて再び会えることができたのは夢のようだった。
昭和二十三年七月のことだった。皆んなが生きて帰れて、ほんとうにほんとうによかった。
平成十六年六月
(つづく)
#昭和21年北朝鮮から脱出 #俺たちの朝陽