【手記】昭和21年、北朝鮮からの脱出、 そして生還[第6章]南へ、南へ
[地図なき道を彷徨う]
満州国境のの麓の白岩区の国民学校で、一応落ち着いたようだったが、ラジオのニュースを聞いた人からの情報で、ここで初めて日本の敗戦を知ることとなった。軍にいた兵隊は武装解除を受け、朝鮮の保安隊に軍刀と鉄砲を差し出し、丸腰になるとどこかに連れて行かれた。学校に着いた我々は軍の階級ごとに場所割りが決められ、私たちは赤ん坊がいるとのことで一段と高い教壇を割り当ててもらった。そこで炊き出しが行われ、おにぎりが分配された。おかずは沢庵。ドラム缶でお風呂も沸かされたが、武装解除されたにもかかわらず、これも聯隊長の家族からという“偉い人”順だった。
ここにいつまでも留まるわけにはいかないので、めいめい南に歩くことにした。まだ夏の終わりだったので小川でもあれば、体を洗い、おむつを洗う。木の枝を拾っておむつを結び、旗のようにかざしながら歩いた。そのうちに乾いた。川の水を汲み、野菜や穀物(米、大豆、高粱、そばの実などなんでも)を混ぜて飯盒で煮た。農家にたのんで食べ物を少しずつ分けてもらい食いつないだ。私たち大人はそれでよかったが、赤ん坊の勗君の食べるものに一番苦労した。母乳が十分に出なかったからである。姉はせっぱつまって「羅南から持って来たミルクと角砂糖を開けよう」と提案した。しかし私は「どうしても勗君を日本へ連れて帰りたいから、私がもし一人になった時に勗君をこのミルクで育てる」と姉の提案を拒否した。缶を開けてしまったら保存が難しい。ギリギリまで頑張ろうと思ったからだった。なのに、とうとう父母の待つ、内地・柏崎まで持って来てしまった。
途中に豆腐屋を見つけると豆腐や豆乳を分けて貰い、水飴なども買うことができた。お金で間に合うこともあれば、数少ない衣類や時計や万年筆などを食料と物々交換することもあった。寝るところもないので、川原の石のごつごつしたところで毛布やオーバーにくるまり、星を仰ぎながら寝た。時計がないので何時間歩いたかわからないが、朝、明るくなってから夕方日没まで歩き続けた。夜が明けると歩き出す毎日が何日続いたのか、およそ一ヶ月くらいか……。
山から山へ歩くと村へ出る。その村の入り口には、地方の警官らしいが信用できなかった保安隊がいて、通行する者の荷物検査を強制する。そして、金目のものがあると取り上げられる。もちろん危険物を持っていないか調べるのが役目なのだろうが、めぼしいものがないか目を光らせ、リュックサックのなかを調べる。お金なんか見つかると取られてしまうから、検問所にさしかかる前に急いで服の内側に隠した。腕時計とか指輪、万年筆などは先に取られてすでにない。洋裁をしていた姉が大事にしていた商売道具の裁ち鋏は、洋服の下に隠すのは無理だから、勗君の寝ているハンモックの底に、刃物(野菜などを切ったりする小刀)などとともに忍ばせて無事切りぬけた。この鋏が最後に私たちを助けてくれたのだった。
何日か歩いていると町の匂いがして来た。の主要都市、の東隣の日本海に面した港町で、日本窒素の大きな工場のあったの町だった。九月の末頃だったと思うが、そこには日本窒素の興南工場があり、大きな町で大勢の日本人がまだ残っていた。たくさんの社宅もあり、私たちも長旅の疲れを癒し、汚れを落とすため、社宅に家族ごと収容していただいた。お風呂を沸かしてくださり、着ていたものすべてを熱湯消毒(シラミを殺すため)して貰い、生き返った思いで屋根の下でゆっくり眠ることができた。畳の上で寝られたのもこの時だけだった。
社宅の一部屋を提供してくださったのは、工場長の鎌田さんだった。私たちもいつまでもそのお宅には留まることはできないと思ったが、さりとて、もうすぐ寒くなってくるので、暫く興南の町に滞在することにした。とりあえず日本窒素の体育館みたいなところや単身者の寮などを提供していただいた。しかし、日本窒素の社宅も次々と朝鮮の人たちが住むようになっていた。日本人と朝鮮の人との入れ替わりの時期であった。
我々家族のあるものは、体育館の大屋根の建物のなかを自分たちで仕切って使った。床などない土間だったので茣蓙とか藁とかを敷いて、部屋まがいの居場所を作り、そこで寝起きをした。近くに住む満州や朝鮮の農家の人が、藁を詰め込んだふとんのようなものを売りに来たが、狭いところでは場所をとるので実用にはならなかった。通路は土間なので煉瓦や石でかまどのようなものを作り、少し離れた松林の枯れ枝や松ボックリを拾ってきては燃料とし、飯盒で雑穀や野菜を煮て空腹をしのいだ。火種を大切にするために、そのかまどを代わる代わりに使った。よく地元の朝鮮や満州の人が米や大豆や野菜等を売りに来ていたが、財布と睨めっこでなかなか多くは買えず、まわりでは毎日のように親子のなかでさえ食べ物の喧嘩があった。親子の間といえ生存競争である。子供もお腹が空いて動き回ることもできず、泣いてばかりいた。しかし、だんだんその声も弱くなって毎日毎日子供が亡くなっていった。空腹のうえにシラミの媒介で発疹チフスを発病して、大人子供を問わず亡くなる人が次々と出て、裏の山へ葬られた。しかし、土が凍っているため穴が掘れず、上へ上へと積まれていくばかりだった。あまりにも日常的な死の連続に隣にいた家族の主人が亡くなっても、悲しいという感情も湧かず「ああ、死んだのか」という認識だけだった。
ある晩のこと、皆が寝静まった頃、急に騒がしくなり、真暗な館内に怒号と懐中電灯の光が飛び交った。噂に聞いたソ連兵の婦女狩りだった。たちまち阿鼻叫喚の巷となり、姉が私に窓から早く逃げろと叫んだが、足を掴まれた。しかし、窓の下の壁にうずくまって難を逃れ、それから窓にしがみついて乗り越え外に出た。次に捕まったのが、姉だった。必死になって赤ん坊を抱きしめ、「マイベイビー、マイベイビー」と何度も叫んだ。赤ん坊の勗君もギャアギャアと泣き出したので、兵隊のほうもあきらめたようで、そこを離れ、また暗闇の中へと這い回って行った。私のほか、三、四人は窓から飛び出して裸足で近くのコーリャン畑に必死で逃げた。夜が明けた頃そっと戻っていったが、部屋はメチャメチャになっていた。昨晩(十一月十日)はソ連の革命記念日で、酒を飲んだソ連兵が朝鮮人の手引きで襲撃してきたものだった。何しろこちらは男性といっても老人子供ばかりであり、相手はカービン銃を持った兵隊だ。それからは夜が来るのが恐ろしくて昼間は寝て、夜は起きていようとしたが、昼間は小さな子が寝ようとしないし、そのうえお腹がすいて泣いてばかりいるから、とても寝ていられる状態ではなかった。(つづく)