【連載小説】俺たちの朝陽[番外編・哲彌の酔歩記2]カンパリソーダと凍(し)み豆腐〈後篇〉
【プロローグ】
大都会の中心地にあるのにそこだけが置き忘れられた、吹き溜まりのような一角で餃子屋『ヒゲ』に集まり、新宿区の早朝野球チーム『27時』に参加した面々のひとり哲彌は、20代の初めから荒波に揉まれながら歩き出していた。
カンパリソーダと凍(し)み豆腐
哲彌は働く場所を失い、仕方なくブラブラしていると、大学の同級生の友達の亀ちゃんに誘われ、西新宿の置き忘れられたような横丁の一角にある餃子屋『ヒゲ』に入り浸り、そこの草野球チーム『27時』の創部メンバーになり没頭するようになった。
しかし、早朝野球が終わるとやることもなくなり、仕事を探すことのなるのだが、そんな時に、通販会社の親会社の新聞社が、新しく小売店向けの商業新聞を出すということで、そこの広告整理という仕事を通販会社でお世話になった上司の松村が持ってきてくれた。
そこから朝は野球、昼から新聞社への出勤という二重生活が始まった。
その仕事はというと、新聞の下五段分のスペースに広告を載せるのだが、そこにスポンサーが制作した広告の凸版の下に鉛を貼り付け、工場に届けるだけのことだったが、その時代は、鉛で出来た活字の時代で、インクの匂いが工場内に充満していて、とても活気があった。
ただ、たまにとんでもない事件が起こる。クライアントが持ち込んだ鉛板の原稿が、10段のはずが何故か11段分に作られていた。慌てて鉛盤に象嵌を専門にする気難しい職人に、一升瓶を持参し三拝九拝して何箇所も切ってもらい、どうにか10段分に揃えた時には、印刷機に嵌め込む紙型作りのギリギリの時間になっていた。
新聞社同士の決め事があり、ある時間までに輪転機を回さなければならなかったのだ。それをオーバーすると紙面の上の余白に印をつけ、各社にお詫びするのだ。
「抜け駆けは許さん」ということらしい。現在のネット社会には考えられない事だが。現在の記者クラブという悪名高いシステムは、その名残りなのだろう。
しかし、哲彌にはとても興味深い仕事場だった。
哲彌は20代、30種類を超えるアルバイトをしたが、その中でも一番好きな仕事場だった。
編集製作は、ビルの6階にあり、印刷工場はその2階にあった。忙しい時は階段が戦場になる。
しかし、急いでいる時に限って“偉いさん”が来るのだ。エレベーター4台のうち1台が玄関から赤い絨毯が敷かれた“偉いさん専用”になるため、彼が来るまで、そして帰るまで使えず、満員状態になり奪い合いになるため、階段を2段飛ばしで行き来するしかなかった。
そうこうしていると、ひとりの遊軍記者が転職することに。編集整理記者がその代わりとなり、編集整理ひとり分の席が空いたため、哲彌に声が掛かった。
面白そうだと思っていたので、すぐに乗り換えた。
広告整理の仕事の詳細を詳しく箇条書きにして、後釜の年配者に引き継いだ。すごく解りやすいと感謝された。それに比べ中年の編集整理記者が教えてくれた引き継ぎは、
「すぐ覚えろよ」と言わんばかりのものだった。彼も記者になることで頭が一杯だったんだろう。
引き継ぎの日に、新聞社独自の用字用語集と行数を計る割付用の倍尺を渡され、一通りの仕事を工場の中をグルっと回っただけだった。
だが、広告整理の時にそれらの仕事を見ていた事が役に立ち、“門前の小僧なんとやら”で覚えは速かった。次の日にはひとりで任務に着くこととなり、いきなり、新聞一面分の仕切りを任されて緊張もしたが、やりがいもあった。
編集整理の仕事は、まず記者の書いた記事を用字用語集に照らし合わせ、誤りがないかをチェックし、それに短い小見出しを作り、電算室に送ってゲラという器に何段分かの活字の束にしてもらい、校正室に送りチェックを受ける。次に全体のレイアウトを作成。大見出しや、前文の配置を考え、それに見合った写真や図表などを手配し活版にしてもらう。そしてゲラをデスクにチェックしてもらいながら、工場で活字になった大見出し、小見出しを並べ、大組と呼ばれる工場の職人と一緒に一面を仕上げるのだ。
これを一日で覚えるのは至難の業だったが、それこそ一心不乱でやるしかなかった。
だが、ちょうど仕事に慣れかかったある日、組み上がったゲラ刷りをエレベーターの中で見た時は、飛び上がった。
なんと担当する面のトップの大見出しをフォローする前文を抜かして組んでしまったのだ。
編集長が笑いながら、
「工場に行って頭を下げてこい」と言って刷り上がったばかりのゲラ刷りを返してよこした。
工場に行き、平身低頭して、組み直してもらった。
後から考えると、組んでいる最中に職人にはわかっていたと思うのだが、敢えて教育のため注意しなかったのだ。
何故かというと、彼らは哲彌とは組版の反対側にいるのにも関わらず、裏返しになった活字をも読むことができ、長くなった文章を短く切ってくれたりもする。前文を抜かして組んだことぐらいお見通しなのだ。どこでも職人技というものには感服する。
また違うある日、一面が組み上がった直後、哲彌の隣で作業をしていたチームが、なんらかの拍子に見出しの凸版や写真版は勿論、組み上がった版共々床に落とし、バラバラ状態になってしまった。時間に追われていたチームを見て、工場中の職人たちが集まり、文字を電算機ではなく一字一句を、ゲラ刷りを見ながら活字箱から手拾いで組んで行き、アッという間に一面を作り上げていった。その場に居合わせた彼らは、組み上げた後、刷り上がったゲラ刷りを見ることもなく、各々の持ち場に何事もなく戻っていった。
「チームなんだ」
それを聞いて松村は、
「新聞の長い歴史の中で、一度も白紙で出たためしはないんだ」と笑った。
哲彌は、その鮮やかな場面を忘れることはないと思った。
その数週間後の暮れに近い日、また工場はてんやわんやの大騒ぎになった。ある超有名俳優が猟銃自殺を図ったというニュースが舞い込んで来たのだった。
本当に自殺なのか、自殺だったらその理由はと、色々な情報が溢れかえり、怒号が飛び交っていた。その新聞社では子会社である系列の夕刊紙も発行していたので、夕刊紙班と朝刊紙班と商業新聞班が工場内で入り乱れ戦争状態になり、とても活気に溢れていた。
哲彌が携わった商業新聞の記事内容はというと、主に小売店向けの業界の情報だったが、徐々にその勢力を増しつつあったコンビニエンスストア(CVS)を記事にすることが多かったが、いかんせん情報網が少なく苦戦していた。社員が集めてきた数種類のスーパーマーケットのチラシを載せ、地域密着をアピールしたが、限られた場所に留まり、そのアナログ戦術は討ち死にしてしまった。
ある日、編集長が昼時に、
「ラーメンでも食べに行こう」と初めて誘われた。
これは、悪い知らせだと直感した。
案の定、新聞の廃刊だった。
「本社への推薦をしてあげてもいいが、正社員になるためには時間がかかる」
そう言って30代半ばの社員の名前をあげて、
「彼でもまだ嘱託のままなんだ」と、言いにくそうに言った。
その頃、新聞社では“偉いさん”が、
「記事は広告のためにある」と言っていたという話が伝わり、記者たちの憤慨と失望を買っていた。
しかも給料的にも残酷物語だということも漏れ聞いていたので、編集長には、
「お気遣いありがとうございます。私は自分で探しますから大丈夫です」と言うと、ホッとした顔を見せた。彼だって自分の身がどうなるのか解らないのだから当然のことだ。
松村に報告したが、哲彌はまたプータローに戻ることになり不安が募った。
また、夢中になってやっていた早朝野球を楽しむほかにやることもなく、暫くはコピーライターの友人と新宿歌舞伎町にあったジャズ喫茶に入り浸る日々が続いた。
そこは、哲彌の好きなジャズボーカルをよくかけてくれるところで、ニーナ・シモン、カーメン・マックレーや、ゴスペルの女王・マへリア・ジャクソンなどに酔い痴れていた。
その頃ジャズは静かに聴くもので、友人と行っても話すことは憚れる雰囲気だった。しかも難解なジャズほど喜ばれ、うっかり知らない客がハービーマンのようなフュージョン系やポップス系、ボサノバなどの曲をリクエストしようものなら、他の多くの客が帰ってしまうようなことが有名なジャズ喫茶では起きたという。また、ボーカルをじっくり聴かせてくれるところは少なかった。
なので歌舞伎町にあったそのジャズバーはボーカルがたっぷり聴けたので、哲彌には居心地が良かった。
ジャズが好きだった自動車メーカーのコピーライターになっていた友人と彼の上司やその妹さんとも一緒にコンサートに出かけたりもしていた。
そんなある日、友人の上司の妹さんから彼女の勤める出版社の宣伝部に空きができたので、紹介するという願ったりの話が舞い込んできた。
哲彌は、その時ほど嬉しかったことはなかった。すでに30歳は過ぎていたから尚更だった。ようやく、また正社員としての仕事にありつける。正社員としては3度目の就職口になるので、少し浮き足だった。
そして、もうすぐ廃刊が決まるという時に編集整理部に電話がかかってきて、哲彌がとると、
「そちらに居る方の事で少しお話が聞きたいのですが」と言う。
直感的に哲彌は自分のことだと思った。
すぐ下の階にあるロビーで待つようにと電話の主に言い、編集部のデスクに席を離れる許しを得て、急いで向かった。
案の定、男は興信所の社員だった。
哲彌のことで聞きたいと言うので、
「それは、私です」というと、その男は真にビックリしてマジマジと哲彌の顔を凝視した。
出版社からの依頼で、身元やら勤め先での評判を調べに来たのだ。
哲彌は、ここは落ち着かなくてはとゆっくり、
「よろしくお願いしますよ」と言い、念を押すように彼の目を見つめた。
別に悪い評判があるはずはないと思いながらも、これで大丈夫と胸を撫で下ろした。何せ30歳を超えているのだから、慎重にしなくては。
調査員の男だって、自分のミスを上司に伝えられてはマズいと考えたと思う。あろうことか直接本人に調査を仕掛けてしまったのだから。
無事に調査は何事もなく終わった。
次に二次募集で集められた学生と一緒に試験を受けた。一般常識と簡単な校正問題だった。これは編集整理の仕事で鍛えられていたので難なく通過した。
そして新入社員の一団と一緒に、社長との最終面接に臨んだ。
その際、社長から、
「君のお父さんは」と言いながら履歴書に目をやると自分の歳に近いことに気がつき、哲彌が30歳を超えていることが判ったのだったが。
少しの間が空いてから、
「よろしく頼むよ」と、何事もなかったかのように握手を求めてきたので、心底ホッとした。最終関門を通過したのだった。
それから入社して3ヶ月ほど経ったろうか、松村が哲彌を訪ねてきた。もうすぐ一年の終わりという日。近くの飲み屋街の一角にある小料理屋で久しぶりに再会した。
「元気そうだな」
松村は少し白髪が増えたように見えた。
北関東地方にある味噌、醤油、木綿&絹豆腐や凍み豆腐、油揚げなどを製造販売する会社に厄介になっていると言った。最近の世間話もそこそこに松村が口を開いた。
「早速だが、いま会社で扱っている豆腐などの商品のカタログを作ろうという話になっていて、手伝ってくれないか」
その頃、哲彌は出版社の宣伝部の部長から、
「広告制作する時は、絵と文字が同時に頭の中に浮かんでこなければならない」と言われ、コピーライターとして雇われたはずなのに、デザイナーとしても働けということになり、忙しい日々を送っていた。
新聞社での割り付けによるレイアウトはできたが、新聞広告やポスターなどのデザイン仕事は、全く違う世界だ。
しかもその頃は活字など鉛の世界ではなくなり、写真植字、写植による製版の時代になっていたから、余計に面食らった。
時代の変換期に出合い、イノベーション(技術革新)は恐ろしいと、その時痛感した。
その頃は、新聞社でも鉛の活版印刷からコンピュータによるCTS(電算植字システム)と呼ばれる電子的に組版を作る体制に移行している時だった。優秀な職人はそれまで通り作業を続けさせられ、その職人が野球に例えると一軍とするなら、二軍の人材がCTS作業の訓練に回された。
そしてある日、一斉に活字の作業からコンピュータ作業に切り替わると、今まで第一線で工場で働いていた優秀な職人たちの働き場が突然なくなってしまったのだ。彼らは見事に梯子を外されたのだった。
職を失った彼らは、まだ活字で印刷をしている中小の印刷会社に転職を余儀なくされていった。
哲彌は幸運にも活字から写植の移行期に乗り換えることができたのだが。
またそれから10数年経つと写植からパソコンによる組版デザインが可能な時代になり、写植を扱う職人たちが駆逐されていったのだった。
哲彌は写植による制作技術を覚え、広告制作の仕事に明け暮れていたが面白さに惹かれていた。
松村には散々お世話になっていたので、誘いを断るのはとても心苦しかった。
少しの沈黙の後に、
「今給料はいくらなんだ」と聞いてきたので、答えるのに躊躇ったが、新聞社での契約料の約倍の額を口にしてしまった。
実際、まだその時は見習い社員の契約内での金額だったが、その頃の出版社は景気が良かった。
松村は、少しの時間目を伏せていたが、
「女将さん、お勘定」と言って財布を取り出した。
「ありがとう」と、彼女に松村は礼を言って勘定を支払った。
テーブルの上にはふたりとも手をつけずにいた、少し水気が飛んでしまった凍み豆腐が入ったお新香の小皿が残されていた。(哲彌の酔歩記2 カンパリソーダと凍(し)み豆腐〈前後篇完〉