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【連載小説】俺たちの朝陽[番外編・哲彌の酔歩記1]鈍色(にびいろ)の雲〈後篇〉

【プロローグ】

 大都会の中心地にあるのに、そこだけが置き忘れられた、吹き溜まりのような一角で餃子屋『ヒゲ』に集まり、新宿区の早朝野球チーム『27時』に参加した面々のひとり哲彌は、20代の初めから荒波に揉まれながら歩き出していた。

 最初の会社を辞めた後、様々なアルバイトをこなしてきたが、その中で楽しかったのは、大学の友人に紹介された仕事で、スーパーや大学の生協の店先を借りて、「世界の木の実」と銘打った店頭販売だった。朝、親方の元へ行き30種類ほどの木の実を1種類ずつ1斗缶に詰め込み、各所に出向いていく。1週間ほど間借りして後に次へ移動する。いわば「フーテンの寅次郎」さながらの気分だ。
 干しブドウや松の実、ひまわりやカボチャの種、銀杏やサンザシ、ピスタチオやクルミ、姫リンゴやインゲンマメを甘辛く煮た甘納豆などを店頭に並べ、その前に試食用の竹で組まれた小鉢を置いて客を待った。
 スーパーなどの店頭で待っていると、主婦たちは自分の裁量で少し良い買い物をしたのだからと、自分へのご褒美のおやつとして買っていってくれるのだ。
「世界の木の実」の口上として、親方から言われたのは、 
⚫︎当時珍しかったピスタチオは、中東から直接輸入してきた貴重なナッツで、
⚫︎サンザシは昔から中国では薬用とされて来た果実で血圧正常化に良い、
⚫︎銀杏は信州長野の善光寺から送られるいる有り難い食べ物、などというものだった。
 調べる由もなく、教えられた通りにしたのだが、少々心配だった健康被害を訴えられたこともなかった。

 注文に応じて、100g、200g、300gと小さなスコップで取り分けるのだが、慣れてくると小さな物は1グラム単位ですくうことができた。「ちゃんとグラム通り入れているのか」
 哲彌には、客が疑心暗鬼になっているのが解った。その時使っていた秤は客側にはメモリが見えないからだ。それを見越して干しブドウや松の実、ひまわりやカボチャの種など100gの注文を受けた時では、初めの1すくいで95g程度をポリ袋に入れ、2すくい目に15g程度を足して渡す。そこで客は家に持ち帰り計ってみると、少しおまけになっていること解り、次にまた買いに来てくれるという寸法だ。
 おまけは強い。

 哲彌は、広告営業など目に見えないものは苦手だったが、現物を客と1対1でやり取りするのは好きだった。客が店から出てきた時は、目を合わさず手元の文庫本に目をやり、近づいて来たら、 
「食べてみてください」と声をかけると、試食のカゴに手を伸ばしてくれる。そうするとほとんどの客は買ってくれるのだ。おまけ商法とも相まってなかなか繁盛した。
 哲彌が雇われた親方は、ヤクザの組員という噂だったが、商売はうまかった。
 販売ルートの確保には優れた才を発揮していたので、名だたる有名大学の生協やスーパーに入り込み、15%程度の賃料を払って、びっくりするほどの売り上げを上げていた。
 流石に母校の生協での仕事は、哲彌には少し抵抗があった。その頃は大学側のロックアウトも解け、学生たちも戻っていたが、同級生はほぼ全員卒業していたので友人に会う心配はなかった。しかし、勉学の場に商売に来ている事には違和感を感じないわけにはいかなかった。

 ある時、ある大学の生協で哲彌ひとりで販売していたとき、1日の売り上げが20万円ほどあった。その大学には東南アジアからの留学生が多く、松の実やひまわりやカボチャの種がよく売れた。哲彌のアルバイト料は、3000円。さすがに不服そうにしていると、親方は、 
「お前の言いたいことは解っている」といって、哲彌に寿司を振る舞ってくれたが、値上げには応じてくれなかった。
 そんな香具師ともテキ屋ともいうべき仕事はそれなりに愉しかったが、コピーライター仲間たちがそれぞれ就職が決まっていくのをみて焦りを覚えた。 
 なんとか気分を変えようと、パリでも世話になった川瀬のいる京都に行こうと思い立った。
 初めての京都は、見るもの全てが新鮮だった。
 がしかし、哲彌の頭の中には、「ぶぶ漬け」のイメージが強く残っていて、その言い回しや考え方を思って少し緊張していた。

 その事を痛感したのは、街を歩いていたらラーメン屋の入り口の貼り紙を見つけた時だ。
「一見さんお断り」とあり、正直驚いた。

 ラーメン屋なんだよね。なんという商売の仕方なんだろう。しばし立ち止まってそれを眺めていた。高級な代物なのだろうか。のれんや店構えはさほどのものとも思われなかったし、ラーメン屋でそんな高飛車な商売は聞いたことがない。

 京都を単なる歴史ある観光都市と思われる事に抵抗がある人たちがいる、という事かもしれないと思ったが、よく解らない。

 川瀬に案内されて鴨川ベリを散策したり、イノダコーヒ本店でゆったりコーヒーを味わったり、ジャズバーに行ったり、流行りの絨毯バーで寛いだりしていると、すぐに時間が過ぎていった。

 いよいよ持ち金が尽きて、気がついたら1000円ほどしか残っていなかった。これでは東京に帰れない。
 慌てて考えついたのは、京都競馬場に行くことだった。というのも、学生時代に東京競馬場に仲間と行った時、友人たちが全員ハズしてオケラになっていたが、哲彌がなけなしの持ち金を叩いて買った穴馬券が見事的中。帰りの電車賃や全員の居酒屋での飲み食い代を払ってもお釣りが来るぐらいの配当があったのを思い出したのだ。

 忘れもしない。府中特別というメインレースで、インターニホン、メジロカズサの1、2着を見事的中させたのだった。

 競馬場の入場料を払うと馬券の200円券3枚分の金が残っているだけだった。
 ただ1回の勝負だ。念入りにパドックで勝負馬を探した。1レースから見ていくが1回きりの勝負だと思うと踏ん切りがつかない。とうとうメインレースになってしまった。
 そこに哲彌に幸運の女神が降りて来た。1頭のトモの張りが素晴らしく見える馬に目がいった。
 メス馬の、その名もジムモンロー。

 名前が良い。そして彼女は結構人気がない。この馬から1番人気を外して、2番人気、3番人気、4番人気の3頭に流して勝負しよう。
 文字通り祈る気持ちで馬券を買った。

 そしてファンファーレが鳴り、一斉にスタート。ジムモンローはやや中団あたりの好位置にいる。そして最後の直線に入り、哲彌は周りを憚らず大声でその名を連呼し続けた。
 3番人気の馬が1着だったが、ジムモンローは2着に飛び込んできてくれた。彼女は思ったよりずっと人気薄だったので、帰りの新幹線代を充分に賄えるほどの配当金を得る事ができた。

  居候していた川瀬に礼を言って、ようやく東京に帰還する事ができた。
 久しぶりに帰ってみると一通の手紙が。京都に行く前に履歴書を出していた広告制作会社からだった。開いてみると、連絡が欲しいとのこと。慌てて電話してみると、
「残念ですが、ご連絡がなかったので他の方に決めました」
 なんと東京にいて京都に行っていなければ、哲彌を採用していたとのこと。競馬場で運を使い果たしていたんじゃないか。さすがに落ち込んだ。

 ポケットから出てきた残りのハズレ馬券を握りしめたまま、公衆電話の受話器を力無く置いていた。
 曇った空を見上げた時、アーケードに備えられていた有線放送からグループサウンズの軽やかなメロディが流れてきた。(哲彌の酔歩記1 鈍色の雲〈前後篇完〉[哲彌の酔歩記2へつづく]

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