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【手記】昭和21年、北朝鮮からの脱出、 そして生還[第3章]感動の再会
[極寒の軍隊の町・羅南]
確かに表札に間違いはなかった。恐る恐る「こんにちは」と戸を開けると、なかから二人がころげるように出迎えてくれて、姉と私は抱き合って泣いてしまった。その時の姉は、私がまわした腕が余ってしまうくらい細かった。義兄は一列車前に迎えに行ったものの、私が降りて来なかったので列車が違ったのかなと思って帰って来てしまったのだと言う。私の乗っていた列車が一時間あまり遅れてしまったので、予定時刻ちょうどくらいに着いた列車と間違えたのだということだった。列車のダイヤは現在の日本のように正確ではなく、また遅れたからといって電話などの連絡方法もなかった。とにかく、やれやれめでたしということで朝食。おかずは何であったか覚えてはいないが、温かな御飯と味噌汁で迎えてもらい人心地がついた。一月三日のことだった。
羅南の寒さは予想以上に厳しく零下二十~三十度にもなった。オンドルの部屋と二部屋をはさんだ中央にはペーチカもあったが、押入れのビールはビンごと凍って、凍った泡がビンのを持ち上げて、泡の上に蓋が乗っているありさまだった。下肥を汲み取りに来る満人の百姓が、凍った糞尿を丸太ん棒で突ついて割り、牛車に積んで運ぶくらいだったので、トイレはトンカチで叩いてから用を足さないと、怪我をするれがあると義兄から冗談めかして聞かされた。
こうして私の北鮮でのお手伝い居候生活が始まった。
羅南は軍隊の町だったので、軍隊の購買部(といった)には、種類はあまり多くはなかったが、東京ではお目にかかれない物資がまだまだ嬉しくなるほどたくさんあって、買い物に行くのが楽しかった。当時幻と思われていた羊羹やもあった。蛋白源は主に冷凍の鱈や豆腐や卵で、スケソウダラを煮付けたり、野菜の卵とじなども作った。とり肉を使った温かい鍋料理が多かったが、たまには牛肉の入ったすき焼きもした。東京では口にできないものばかりだった。
官舎は部屋が四室あり、庭は菜園を作ることができる広さがあり、鶏も飼っていた。私が着いたのは、一月の極寒の時で、零下三十度くらいになることもあり、うっかりドアのノブを素手でつかむと皮がむけてしまうと義兄から注意をうけた。夜中に庭で飼っていた鶏のけたたましい悲鳴が聞こえると「またやられた」と義兄がいい、懐中電灯を持って外へ出ると、鳥小屋の下が掘り下げられ、イタチが鶏を襲ったらしく、雪の上に点々と血がしたたっていた。
やっと春の陽射しになり、雪が溶けると菜園の仕事が忙しくなる。馬鈴薯の植え付けやさやえんどうの種まきをしたり、うしろの裏山へわらび取りにも行った。(つづく)