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【手記】昭和21年、北朝鮮からの脱出、  そして生還[第4章]空襲、新型爆弾…

[忍び寄る戦火]

 その頃、父の弟である叔父・阿部の戦死が東京より知らされた。祖父母(父たちの両親)が早く亡くなったので、父は自分の弟の父親代わりだった。日本郵船の外国航路に乗っており、戦争当時は物資の輸送船に乗務していたところ、台湾沖で、アメリカの潜水艦によって撃沈されたという。

 叔父と最後に会ったのは、両親と姉と義兄の結婚式を家で行った日の二日後だった。父と母と新夫婦が義兄の実家のある長岡へ結婚の報告のために行き、私一人が留守番をしていた時、突然訪れたのだった。叔父に緊急命令が下され、南方へ行くこととなり、明日、舞鶴へ向かうことになったという。私はどうしてよいか大変慌てて困ってしまったが、家にあるものをかき集めて夕食を作ったことを覚えている。電話などない時代だから、誰にも相談できず、何とかしなくてはとそれだけを考えていたと思う。別れは前触れもなく訪れるというが、叔父との貴重なひとときだったことは今でも忘れられない。

 叔父の一家は大森に住んでいたが、小さい子供が四人もいたので、信州の方へ疎開していた。この頃、東京では小学生が親元を離れ、子供だけで安全な地方へと学校単位で移って行った。また、十七、八歳以上の若者は家でブラブラしていることは許されず、会社や工場へと働きにかり出されていた。私も帝国石油に勤めていた。戦争が始まってから石油会社は、掘削部門を帝国石油が、精製部門を日本石油が行っていた。

 叔父は、折角うちへ暇(いとま)乞いをしに来たのに皆が留守で、父親代わりだった私の父にも会えず、さぞ残念だったことだろう。翌日に叔母は信州から舞鶴へ見送りに行くとのことだった。あの日が、一司叔父との一生の別れになってしまった。

 遺体が収容されたのは、わずかに叔父とあと一人だったという。外国から帰るといつもお土産をたくさんもらったり、おいしいものを食べに連れて行ってくれたりと、あんなに可愛がってもらった

”司(じい)ちゃん“が台湾沖で無念の戦死との報に、姉と二人で声を上げて泣いた。戦局が南方よりだんだん近くに及んできているらしかった。

 その前に、東京の下町が大空襲により全焼したらしいと聞いた。浅草で呉服商を営んでいた、親戚の田野家(ベルリンのオリンピックに水球の選手として出場した田野耕晴さんの実家)も被災したらしい。四月も終わりの頃、母から、アメリカの空襲により、久が原の家に焼夷弾数発が落ちて全焼してしまったとの知らせが届き、またまた私たち姉妹は呆然としてしまった。とうとう来るものが来たという思いだった。池上本門寺も同じ日に焼失した。

 噂では、アメリカの爆撃機B29がマリアナ諸島への帰途上に、余った焼夷弾を住宅地なのに落としていったといわれていた。父の会社が、新潟県の柏崎に本社を移転するべく疎開準備が進められていて、父も会社と共に引越しする用意をしていた矢先だった。荷物をまとめて発送目前のところへ焼夷弾が落ちて全焼。父がコツコツと集めていた全集ものや母が三人の娘のために買い込んだ反物などが、二、三日燃え続け、くすぶっていたという。

 住んでいた我が家は木造平家のごく一般的な家であったが、お隣の野坂家は当時にしては大変珍しい赤煉瓦の三階建てで、目立っていたので標的にされたのかもしれない。野坂家の次男のひろしさんは、大学在学中にベルリンのオリンピックに器械体操選手として出場していた。

 六月、姉のお産が近づいた。北朝鮮の遅い春も花盛りとなり、時折暑い日もあった。花といっても北朝鮮には、花が咲く高い樹はあまりなく、たんぽぽとかつつじのような潅木に咲く花だったと思う。

 六月二十四日、無事男の子誕生。勗(つとむ)君と命名。命名の由来は父が昌平、義兄が昌治、偶然に昌がつづいたのと、長岡の父が哲之助だったので、日と助を合わせたのだった。新潟出身の漢学者・諸橋哲次の書に『何々を勗(ツトムる)の儀』というものがあり、それにあやかってつけたという。ちなみに勗君の家の息子は暁(さとる)君と晋(すすむ)君である。姉のつわりがたたって、やせた赤ん坊だったが、幸いにも元気で姉ともども肥立ちがわりとよく、毎日忙しかった。

 八月七日。

 昨日、内地の広島に新型爆弾が投下されたと、ラジオと新聞で大きく報道されたが、詳細なことは全然わからなかった。よもや原子爆弾なる恐ろしいものだとは知らず、日本に帰ってから知ったのだった。

 八月十日。

 突然、羅南の夜の空に空襲警報が鳴り響いた。ラジオに耳を傾けると国籍不明の一機が上空に侵入したとのこと。明かりを消して、息をひそめて見守ったがまもなく解除になった。翌晩もサイレンが鳴った。アメリカがこんな奥まで偵察に来るようになったのかといっているうちに、義兄が兵事部より戻ってきて、清津に艦砲射撃があり、ソ連が参戦したらしいとの情報に急に緊迫感がみなぎった。この官舎から避難するようにという勧告が出たのが、その翌日のことだった。次の朝までに荷物をまとめなければと、徹夜で持ち出しの荷造りが始まった。

 姉は真っ先に勗君をどうするのか…を考えた。まだ生まれて五十日では、首も据わっていないのでおんぶするわけにはいかない。思案の末に帯芯で首から吊るすハンモックをミシンで縫い始めた。ミシンは姉が花嫁道具のひとつとして日本から持って来たのだが、外国製の高級品であるシンガーミシンだったので、もしも運搬の途中になくなったらと心配したため、機械部分と脚を分けて運んできたものだった。姉が渡鮮する際に、義兄が頭部の重いのを運び、脚は後で発送した。

 私は押入れや台所から食料品をリュックにつめた。まず、ミルク缶や角砂糖、米、、新聞紙、マッチなどである。おむつと着替えの衣料、防寒用にとセーター、毛布、オーバー(その時は夏だったが、持っていったおかげで、後に非常に役立った)など持ち得るだけのものを用意した。それとオムツを洗うためにブリキ缶に針金を渡したものを作ったのだが、これはあとでバケツとして重宝した。午前中に銀行で貯金の払戻しを受けるため、私は銀行に並び、三千円くらい下ろしたかったのだが、満額は払い出せなかった。いくらだったかは覚えていないが、一人分の制限があり、すぐに銀行は閉店となった。

(つづく)

#昭和21年北朝鮮から脱出 #俺たちの朝陽

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