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【連載小説】俺たちの朝陽[番外編・哲彌の酔歩記3] 昭和の学生時代」〈前篇〉
【プロローグ】
大都会の中心地にあるのに、そこだけが置き忘れられた、吹き溜まりのような一角にあった餃子屋『ヒゲ』に集まり、新宿区の早朝野球チーム『27時』に参加した面々のひとり哲彌は、学生時代から荒波に揉まれながら歩き出していた。
アルバイトは数十種類。
哲彌の学生時代、大学に通えど母校はロックアウト状態で、教室に入れないことをいい事に、様々なアルバイトに精を出していた。
哲彌の通っていた大学は貧乏学生が多いと思い込んでいたが、存外、地方から来た同級生たちは裕福の出が多く、哲彌は彼らと付き合うためにアルバイトを数々こなさねばならなかった。
考えてみれば地方から出てくるにはそれ相応の資産がなければならない。入学金、授業料、下宿代、食費、教科書代、遊興費など諸々の金がいるのだ。それを補うには親の経済力がものをいう。奨学金をもらって進学する割合は少なく、地方の所謂裕福な子女が多かった。。
哲彌が学生時代、最初にアルバイトをしたのは、今では若者たちの憧れの街にあるフルーツパーラー。開店して間もない、今とは違ってあまり周りに店舗もなく落ち着いた、写真で見たフランスのパリにどこか似た雰囲気の並木道通り沿いの店でボーイとして雇われていた。
時給に惹かれたのだ。新宿歌舞伎町の有名な喫茶店が時給75円のところ、倍の150円だったのだ。
入り口の前の4、5段ほどの階段を上がると、店頭のケースに収められている新鮮な果物の香りが哲彌を覆ってきた。
店内には有名なアナウンサーや、女優、ロカビリー歌手など華やかな人々が訪れていた。
また、近くのある地方のお嬢さん方が住む女子会館の女子大生たちで賑わっている。
しかしながら客の注文にはいささか納得ができなかった。それというのも彼ら、彼女らが頼んでくるのが、洒落たフルーツパフェやプリン・ア・ラ・モードやミートパイなどだが、いずれもひとつ300円もする。哲彌の2時間分の給料と同じなのだ。
2時間働いてやっとフルーツパフェひとつにありつけるのかと思うとやるせない。
その数十年後にフルーツパーラーの本店で仇のようにフルーツパフェを注文してみたら、なんとそれが現在の平均時給の約2倍の2000円近くだったのにはビックリ(現在は2.5倍という)、物価変動相場制の見事な実証を目の当たりにしていると、メロンはどうか、その頃は5,000円位だったが、メニューをみると最高級の「富士」は22,000円ということで4倍以上になっているのだが。
他にもメニューにはフラッペというものがあり、最初は何のことやら分からなかったが、それは楕円形状のガラス皿の上に乗ったかき氷のことで、勿論メロンやパインアップルやアイスクリームなどで彩られ、洒落てフランス語でフラッペ(frappé)という代物に仕上げていた。
その頃は記憶力も良く15人分位の注文を受けても、暗記してから素早く書き留め、カウンターの中にいる年配の職人に渡すことができた。
ドイツから直輸入したという機械から絞り出される、コーンやカップのソフトクリームも人気だった。ドライアイスの入った箱に持っていけば、土産物にもってこいの品物だ。
休憩と称し少し離れたアイスクリーム工場に行き、年少の頃に初めて食べた、あの柔らかな感触と香りをたっぷりと味わっていた。よくテレビなどで、
「人生最後の食事は」という、他愛のない質問がなされているが、哲彌は、
「絶対ソフトクリーム三昧」と思っている。
またメロンなど贈り物としての需要も多く。近くの豪華なマンションに住む、会社役員や有名俳優の愛人への届け物を命じられることもあった。そのマンションには豪華なカーペーとが敷かれ、足首に達するかと思えるほどの毛足に深みがありつまずきそうになった。
当時メロンは1個5000円から6000円もする。哲彌には約1日半ぶっ続けで働いて、やっとありつける高価な果物である。
なので味わってみたくなり、手が滑ったと言って落とす同僚も出てきて、あくまで過失と言い張って、少しヒビの入ったメロンを、皆で分けて食べたこともある。罪悪感からか美味かったどうかは覚えていないと言う。
そこのオーナーはグループの中では傍系の人という噂で、それ故に頑張ったらしく、グループ全店の内、売り上げがトップクラスになっていた。
そのためかとても金銭に対しては厳しく、ある日、短くなった鉛筆を長持ちさせるためのキャップ10本分の代金(1本10円)を渡されを買いに行かせられたが、ちょうど10円のものがなく1本15円のキャップを買って戻ってきたら、
「返して来い」と言われ泣く泣く返しにいったという。彼のケチぶりに哀しくも笑い話でもあるが。
フルーツパーラーの後にいくつものアルバイトをこなしたが、何の技術もない学生のアルバイトには肉体労働しかなく、始めたのが倉庫の積み下ろし作業。
早朝、仕事を差配する手配師が集まる五反田駅近くに行き、用意された小型バスに何人もの男たちと一緒に乗せられ品川から晴海方面に向かい、港に近い倉庫に連れて行かれた。
当時、真夏の車内には冷房装置などなく、むさ苦しい男たちの汗の臭いに塗れながら巨大な建物に着いた。
そこはいくもの倉庫が並ぶ内の一つで、およそ人気のない殺風景な団地のようだった。
5、6人がバスから落とされ、工場の責任者らしき男に連れられ、向かった先には巨大な空間が待ち受けていた。
そこは各地から送られてきたあらゆる魚介類を冷凍保管している流通拠点だった。
いきなり倉庫に放り込まれ、魚介類の入った膨大なダンボール箱と格闘させられる事になった。
マイナス30度に管理された窓もない空間に1時間あまり閉じ込まれた後、30分の休みの時間が与えられるという労働環境に置かれた。
閉じ込められた極寒の冷凍倉庫から出た途端、突き刺すような太陽の熱線を浴び、急いで水道の蛇口に口をつけ喉を潤すや否や、両腕の毛穴から水玉が一斉に吹き出してきた。
夏の陽射しが鋭く皮膚を突き刺す外気を浴びながら、中に入ると極寒の冷凍用倉庫。その仕事は結構な重労働だった。
背より高く積まれた段ボール箱に入った各地から運ばれて来たマグロやタイなどの鮮魚や、タコやイカなどの軟体生物の入った箱の量に圧倒された。床にいくつか崩れた箱からタコやイカが恨めしそうにこちらを見ているようで、もの哀しい。
1時間おきに訪れる休憩時間に外に出ると始まるのがバイト同士のオイチョカブで、倉庫内はマイナス30度、外に出てからは摂氏30度という過酷な中での心理戦は辛い。
極寒の真冬状態で1時間勤務した後、真冬から真夏へ、そして30分後にまた真夏から真冬へ、それを繰り返す地獄のような労働をしていた時に、思い出した事がある。
いつか何かで知った一番過酷な懲役は、穴を掘ることを強制させられ、ある程度の深さになったら、その穴を今度は埋める、そしてま埋めた場所にまた穴を掘らされ、そして埋める。それを1日中何回も繰り返すというもので、これをさせられると、大概は精神に異常をきたすらしい。
そのことを思い出させられ、同じようなものだと頭の隅で感じながら、真夏の太陽に頭の中を掻き回され、何を賭けているのかも解らなくなった。安い掛け金だが、ここで少しでも負けてはアルバイトをする意味がないと踏ん張って、何とかトントンにするのが精一杯だった。
漸く日が暮れる時間にお役御免になり生き返った。
その後も調査会社からのアンケートを収集する作業、赤ペン先生から出された問題を生徒達が解答したものの添削、北海道から空輸されてくる焼き&茹でトウモロコシのソニービル玄関口での販売、上野駅での深夜から朝方までの貨物の荷下ろし作業、住宅のコンクリートの型枠作業、1セットも売ることができなかった百科事典の訪問販売など、手当たり次第にこなしていった。〈後篇へ〉