見出し画像

【手記】昭和21年、北朝鮮からの脱出、 そして生還[第7章]洋服店に住み込み

[興南の町へ]

 十一月半ば頃、が降ることが多くなり、飢えと発疹チフスで次々と亡くなる人が増え、このままでは我々も同じ運命になるのでは……と、じっとしてはいられない焦りがでてきた。ちょうどその頃、日本人が大勢いた関係で、日本人の世話をするためにできた自営団体の『日本人世話会』で人手を募集していることを知った。わずかな賃金だったが体力に自信があったから、すぐに応募した。仕事は、二人一組でモッコかつぎによる広場の整地作業だった。軍手だけの支給で泥をかつぐのは想像以上に大変だった。ヘトヘトで長くはとてもできなかった。同じ時期、姉も日本人世話会に行き、ちょうど来ていた朝鮮人の人が、洋服が縫える人なら自分の店が隣町の興南の街なかにあるので働いてみないかといわれ、話をすぐに決めてきた。翌日、日本窒素の社宅でお世話になった方や、山歩きで一緒に歩いてきた方たち(十五、六人から二十人くらいだったと思う)にお礼の挨拶とお別れを言い、峠越えして興南の町へでた。一時間ぐらい歩いたと思う。勗君は鎌田さんから貰った絹の敷布団で昆布巻のようにして運んだ。

 姉の洋裁技術のおかげで、興南の目ぬき通り、地区のにぎやかな商店街にあった洋服店に働き口が見つかった。お店は通りにあったが、自宅は100mくらい坂を登ったところで、門があってなかなか大きな家だった。母屋の裏手にある東向きの四畳半、押入れ付きの部屋を貰らい、姉と子と私との三人でその日から住み込みで働くこととなった。部屋もだったうえに布団も貸して貰い、久しぶりの畳の上で三人だけの生活なんて、思いもしなかっただけに嬉しかった。炊事場はないが、半間の戸の外には井戸端があり洗いものができたが、トイレは野外で寒い時はたいへんだった。

 洋服店の主人、金さんは以前浅草の洋服店に奉公していたとのことで日本語も、日本の様子のこともよく知っていて助かった。奥さんには男の子が一人いて、店主の第二夫人だった。いろいろ私たちに親切にしてくれたが、気の強そうな人で、第一夫人が来ている時は、いらだった様子で少し恐かった。こちらでは朝鮮漬をつけ込む時期とあって、近所の女の人が数人がかりで白菜の漬け込みを始めていた。まず白菜を下漬けして、水が上がったところで一度ざるに上げ、それから葉と葉の間へ大根、人参、唐辛子、果物、アミの塩辛などいろいろなものをはさんで大きな瓶に漬け込んでゆく。冬季の大事な食料なのだ。これが各家庭の自慢の味づくりになる。

 姉の洋服店での仕事は、だんだんにソ連の兵隊のものが増え、その中に将校からの注文もあった。将校になると家族持ちも多く、将校夫人が、いなくなった日本人の家から着物を持って来て、それを洋服に作り直してくれといってくる。立派な毛皮の外套を着ているが、下は夏物のワンピース一枚。そのワンピースにと頼みに来るのだ。採寸して型紙を作るのだが、いざ反物に鋏を入れる時はなかなか決心がいった。着物を切りさき洋服として仕立て上げるのだ。私たちが羅南に残して来た着物も、このように変わっているのかもしれないと思った。私も多少の基礎知識があったから、教えて貰いながら縫っていく。その頃、日本人は、洋服に慣れないため、ゆったりとした服を好んだのに対し、ロシア人はゆるみのない身体にぴったりとした服を注文するので、彼女たちの体型に合わせるのに苦労した。約束の日が来ると将校夫人が取りに来て、ハンガーに掛かっているのをみて「マダム、ハラショー(素晴らしい)」と喜んだ。時には姉と勗君と一緒に自分たちの部屋へ招待してくれた。赤ん坊が痩せているといって、ミルクだの、ビスケットなどのお土産をくれた。だんだん注文も増え、忙しくなって夜遅くまで仕事が続くこともあった。

 ソ連兵が街の灯に誘われて出て来て、時にはヒヤリとする恐いこともあった。裏の下水溝の窓に、ある晩ソ連兵の顔が映った。ハッと息がとまるほどびっくりしたが、向こうのソ連兵がニコニコして、ジェスチャーで大丈夫、大丈夫といっている。店主も自宅に帰っていていないので、唯一人いた同じ住み込み店員に出てもらったら、ポケットからハーモニカを出して一緒に歌おうという。兵隊ではなく将校だった。日本の少尉か中尉位の人で悪い人には見えなかった。

 お互い言葉が解らないので『オーソレミーヨ』『登山電車』などを歌ってコミュニケーションをとった。それからたびたび来てはポケットからおいしいもの(何だったか憶えていない)をお土産に持って来てくれた。でも前記のことがあるから油断はできなかった。しかし、こちらも我々より少し前に住み込み店員になっていた二十五、六歳の九州人の男の人と、私くらいの年格好の妹と称する人たち二人と我々の計四人だったから、多少の安心はあった。九州の男の人は軍隊の被服関係の仕事をしていたらしい。ハッキリとはいわないが軍から離脱した人で男物の仕立てをしていたが、二人はもしかして夫婦だったのかもしれない。また、ソ連の将校も故郷を遠く離れて、友だちが欲しかったのかもしれなかった。それから数度訪れて来たが、任務が変わったのかそれっきりであとのことはわからなくなった。

 その住み込みの仕立て職人が、練炭コンロを毎朝用意してくれた。赤ん坊の勗君はとても可愛いかったので、一軒先の時計屋の、日本人の奥さんが昼間は自分のお店のほうへ連れて行ってくれ、時にはおむつまで洗ってくれてありがたかった。時計屋の夫婦には、まだ結婚前で姉より一~二才年上の娘さんが一人おり、よくおしゃべりに来ていて仲良くしていた。(つづく)

#昭和21年北朝鮮から脱出 #俺たちの朝陽

いいなと思ったら応援しよう!