【手記】昭和21年、北朝鮮からの脱出、そして生還[第5章]姉の手記〈阿部玲子記〉
[生後五十日の赤ん坊を連れて逃走]
八月十三日正午頃、隣組の伝言で「陸軍官舎の家族は一時、山の中へ避難するために、当座の入用品を持って羅南駅に集合するように」とあり、大急ぎでリュックサックに赤ん坊の衣類、ミルク(新生児用に配給になったもの)と、山の中は寒いといけないと思って、毛布やオーバーも入れた。
妹は雨具や赤ん坊のおむつを洗うためのブリキのかん(バケツ代わり)に当座の食料品などをつめ、その他の身の回り品を登山用の大きなリュック(カーキ色の生地が密で防水にもなっていた)につめた。
赤ん坊はまだ背負えないので、首からぶら下げるハンモックのようなものを、帯の芯地を使ってミシンで作り、その上に寝かせるようにした。そして白いベビー服を着せ、日よけのベビー帽をかぶせ、まるでお人形みたいな赤ん坊を首からぶら下げていくことにした。
八月十三日の朝、主人はソ連の予期せぬ参戦で急に慌ただしい戦時体制になった兵事部へ、いつもより早く出勤していった。軍服姿で挙手の礼をし、それから生まれたての赤ん坊の頬を軽く突ついてから「皆んな気をつけて行くように」といいつつ、当番兵が連れて来た馬に乗って出て行った。どこの官舎でもは軍隊へ行き、留守家族だけが残されたのだった。後に軍隊は満州の国境からシベリアの方へ送られたようだった。そして残された家族は汽車で山の奥に運ばれた。その時から家族は離ればなれになってしまった。
隣家の高崎中尉の家族は、五歳と三歳の女の子と奥さんの四人家族で、加えて奥さんは妊婦だったので「とても私たちは皆さんと一緒には行けないから、どうか先に行ってください。もし駄目な時は、主人の刀で自害をします」と悲壮な話だった。
夕方、薄暗くなった時、三々五々、家族は羅南の駅前広場に集まった。
何時になっても乗る汽車はなかなか来なかった。暗くなった夜空に遠く、ソ連の艦砲射撃の火が見えた(隣の清津の港からだった)。
やっと来た汽車は満州から岩塩を運んでいた貨車で、岩塩がこびりついて暑さでべとべととなっていた。
ぎゅうぎゅう詰めに人を詰め込んだ貨車は、大変な熱気のなかをのろのろ走る。貨車がトンネルに入ると大人でさえ息苦しくなる。油煙にむせて大変だった。小さな赤ん坊を抱いて、むせる煙りに赤ん坊が死ぬのではないかと一所懸命にタオルで風を送った。
やっと着いたところは、満州国境に近く、山のなかのというところだった。
白岩には営林署があり小さな国民学校(当時の小学校)もあったので、そこに一応全員が落ち着いた。誰かがラジオを聞いて日本が負けたようだと言っていた。最初は、皆は本気にしなかったが、だんだんそれが本当だとわかった。それから皆が南下したいと口々にいっていたが、地図もなく、汽車が出るらしいことを聞いて南へ行けると思って乗ったが、反対の奥地の鎮で汽車は止まってしまった。そこは終点で先には行けなかった。が見下ろせる北の果てで小さな町だったが、現地は日本敗戦という情報で大混乱だった。今まで官舎の家族を引率していた軍人は、自分の身が危ないと逃げ、女と子供だけが残された。
さあどうしたものかと思案したが、なんとか自分たちの足で少しでも南下せねばと、二十人か三十人の人のかたまりができ、私たちも入れて貰うことにした。そのなかには羅南の町で歯科医をしており、なんとか朝鮮語が解る家族がいた。奥さんと十七歳くらいの息子さんと長男(兵役に行っていた)のお嫁さん(妊婦さん)の四人だったが、後日、避難中に御主人は死亡し、お嫁さんは出産したが、赤ちゃんはすぐに亡くなった。
山のなかに道はあったが、人家など一軒もなく時々にせの保安隊(日本の警察に代るもの)にだまされ、わずかな貴重品(腕時計と万年筆)もはぎとられたり、道を尋ねるとわざと反対の方に教えられたりと、くやしい思いをしたが、度重なるとだんだんくやしいとか悲しいとか怒る元気もなくなり、信じるのは自分だけと来る日も来る日も歩き続けた。
片田舎の農家で食べ物を少し貰うこともあったが、所詮、避難民なので家には入れず、軒先で野宿するよりなかった。トイレも肥溜めに二本の棒が渡してあるだけ。紙などは全くなく草や木の葉で代用し、大抵は畑や林のなかで用を足した。川があると赤ん坊のおむつを洗い、木の枝を拾っておむつをひっかけ、それを持って歩きながら乾かした。
隊の人たちに遅れないように一所懸命歩き、途中かくし持っていた腕時計も、仕方なく朝鮮人に頼んで“コッチジャン”(朝鮮味噌)と替えたり、なけなしの衣類を(雑穀)と替えたりした。(つづく)