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【連載小説】俺たちの朝陽[番外編・哲彌の酔歩記2]カンパリソーダと凍(し)み豆腐〈前篇〉

【プロローグ】

 大都会の中心地にあるのにそこだけが置き忘れられた、吹き溜まりのような一角で餃子屋『ヒゲ』に集まり、新宿区の早朝野球チーム『27時』に参加した面々のひとり哲彌は、20代の初めから荒波に揉まれながら歩き出していた。

カンパリソーダと凍(し)み豆腐

 哲彌は、最初に勤めていた広告会社を辞めてから、一年ほど経ったろうか、やっとコピーライター養成所からの紹介で、広告制作会社に就職が決まった。  
 そこは、日本宣伝美術会(日宣美)で特選を獲った著名なグラフィックデザイナーが社長をやっている会社だ。
 デザイナー、イラストレーター、コピーライターが数名在籍し、仕事に応じてスタイリスト、メーキャップアーティスト、カンプライター、カメラマンなどを外注して宣伝物を創りあげる、小さいながらもプロ集団だった。
 哲彌には初めて見る制作現場で何もかもが珍しかっtが、若者の特権で怖いもの知らずだった。
 メインのクライアントには、掃除用品の販売・レンタルなどハウスクリーニングを手掛けたり、ドーナッツの店舗販売を、当時珍しかったフランチャイズ制なるものを導入し全国展開していた会社があった。そこのコピーライターとして雇われたのだった。

 ある時、有名なファッション誌に載せるバッグの広告を撮ることに同行したことがあった。
 その時現場に来た、小生意気な外人モデルの数時間のギャラが哲彌の月給と一緒だった時には、ビックリした。
 この頃は、パリコレクションなどで世界的に脚光を浴びていた、日本初のスーパーモデル山口小夜子が話題になっていた時だった。広告制作が注目され、まさに時代を先取りしていた感があったが、またバブルの始まりでもあった。
 そんな華やかな世界の渦中で、伝説の著名なCMディレクターが、
「リッチでもないのにリッチな世界などわかりません。ハッピーでもないのにハッピーな世界など描けません。夢がないのに 夢を売ることなどは…とても…嘘をついてもばれるものです」と遺書に残し自死する。日本中がオイルショックに衝撃を受けていた最中で起きた痛ましい事件だった。

 そんな時代の中、その制作会社のクライアントが推し進めるフランチャイズ制というものを哲彌に学ばせるため、本社の勉強会に行かされた時、企業が行う統率の取れた朝礼という儀式を初めて体験し面食らった。社訓を皆で復唱する様は、何か軍隊の出陣式を思わせるものだった。 
 また、そのフランチャイズ制という仕組みがよく解らず、図式で説明されるが頭に入ってこない。フランチャイジー(加盟店)はフランチャイザー(運営企業)にロイヤリティを支払うという構造なのだが、アメリカから来た新しい商売形態ぐらいとしか理解ができなかった。
 後で調べてみると、
「加盟店は運営企業の持つサービスや商品・運営ノウハウなどを利用して営業ができる」とある。
 運営企業の知名度をそのまま利用した経営を始められ、手っ取り早いため応募する人は多かった。いかにも効率を重視するアメリカの企業が考えそうな仕組みだった。
 日本式の自分の子ひとりだけに技術の奥義(おうぎ)を伝える「一子相伝」とは真逆の仕組みだ。

 消費者(好きな言葉ではないが)の利になるコピーを書きたいと思っていた若かりしの哲彌にとっては、加盟店に対しての案内や儲かる仕組みなどを伝えるだけで、ほぼクライアントの主張をそのまま書き連ねるだけに思えて、4ヶ月ほどで退社し、またプータローに戻ってしまった。

 また無職になってしまった哲彌は、コンクリートの型枠作業や上野駅の深夜貨物整理などの肉体労働や、百科事典の訪問販売、調査会社のアンケート収集、「赤ペン先生」から出される問題集の解答の添削、スーパーの主にチラシに載せるキャッチコピーの制作など、様々なアルバイトをしたが、どれも長く続けることはなかった。

 

初めてのアパートでの一人暮らし。

 無職になった哲彌は、高速道路近くの四畳一間に文机と布団、裸電球とゼンマイ仕掛けの置き時計しかない生活に疲れ果てていた。もちろん家風呂などなく、便所は部屋の外にある。
 部屋には少々の味噌と米があるだけで、味噌おにぎりを作って食べていたところ、何故握る手間をかけているのか解らなくなり、二つ目を作ろうとして、茶碗飯にそのまま味噌を放り込んだ。
 部屋の真ん中でゴキブリが仰向けになって死んでいることもあった。食い物がないとでも訴えているように思えて、慌てて窓の外に放り投げた。
 そんな時、帰ってみると部屋の前に一升瓶がポツンと置いてある。手紙は無かったが、後で草野球仲間になる亀ちゃんだと、すぐに解った。そんなことをしてくれるのは彼しかいないと思った。

 そんな暮らしぶりを知ってか、最初の会社への退職願いを喫茶店で書いていた時に偶然現れた、高校の野球部時代の友人が哲彌に仕事を持ってきてくれた。
 それは、新聞社が始めた通信販売の仕事だった。そこで上司にあたる松村のもとで働くこととなった。彼は今は亡き京都の新聞社で記者をやっていた。
 その職場は東京でも有数の繁華街の近くにあり、そこでの缶詰め状態で仕事に追われることになった。  
 仕事はというと、嘱託の営業部員が持って来る様々な商品を載せて購買を募る仕掛け作りだ。

 その際の新聞の五段分のスペースに載せたキャッチフレーズは、
「味噌から飛行機まで」だった。
 パンフレットを新聞紙の間に織り込んで配布した。
 新聞社というブランドがあるせいか、反響はだいぶ良かった。
 より購買数を伸ばそうとしたため、ページ数を増やし、その製作要員として新米コピーライターの哲彌が雇われたのだ。
 退職後、コピーライターの養成講座に通い、そこを一年で終了したばかりの哲彌は、熟練の営業マンが集めてくる多岐にわたる商品群にはてこずった。

 しかも、商品カードを営業マンがその特徴を書き込むことになっていたが、何せ彼らは、自分たちの頭の中では充分に解っていても、それを文章にできない。商品名だけが記された商品カードを手にして哲彌の格闘が始まる。
 販売先に電話してカードにサイズや内容、その特徴を喚起させるキャッチフレーズなどで埋めていくのだが、哲彌には何せ商品自体の知識がない。また買う人が何を求めているのかも想像もできない。
 いつぞやも、商品のことを突き詰めようとするあまり、海苔販売業者に、「海苔の1帖って何センチかける何センチですか」と聞いたところ、
「1帖は、1帖だ」と、怒鳴られてしまった。 
 哲彌としては物を手に出来ないのだから少しでも正確に伝えようとしただけなのに、と納得はできなかった。豆腐一丁といったって色々な大きさがあるじゃないか、畳だって江戸間や京間がある、と言いたかったが、胸に収めるしかなかった。

 それにしてもその頃はメディアに対する信用が厚かったと思うと隔世の感がある。
「ラジオのパーソナリティが紹介するだけで、高価な毛皮が売れた」という話を聞いて、どれだけの信頼がされているのかと驚いた。ラジオを聞いているだけで、見もしない高額商品を買っていく様は、それこそバブルの始まりだったのだろう。
 あまりの反響の凄まじさに電話注文を受けるアルバイトの女性たちは、電話の集中する時間には、受話器と本体の間に消しゴムを挟み、通話中にしてしまうほどだった。そんな彼女たちのご機嫌を取るためか、松村は、いつも甘いお菓子を用意していた。

 膨大な量の商品群のカードを目の前にして、締切に間に合わせるため、仕事部屋の椅子を並べてベッドを作り、そこで仮眠をとり商品コピーを書きまくった。 
 最盛期の睡眠時間は、1週間で10時間程という殺人的なスケジュールだった。どうやってそんなことが出来たのか不思議なのだが、若さが、仕事をさせたのかもしれない。 
 松村は、京都の新聞社で記者や編集整理をやっていたため、記事を書いたり割り付けを担当していたが、何せ哲彌とふたりだけの作業で、締め切りに間に合わせるために印刷会社の営業マンに助けてもらった。 
 その頃の印刷会社の営業マンは印刷の知識は勿論のこと、レイアウトの知識もしっかりと教育されていて哲彌は感心した。

 哲彌もそれらの仕事のおかげで、それまでは知る由もなかった、青海波、亀甲、波千鳥、麻の葉、市松紋様などの和模様の名前や、ガーネット、アメジスト、アクアマリンなどの誕生石名を覚えることができたし、二段ベッドや子供机のサイズや材質、またそれらがどこから輸入されているのかなども頭に入れることができた。

 その売れ行きにに気を良くした上層部は通販部門として独立させ、冊子のページ数も大幅に増やして宣伝を打ち、勝負に出た。
 松村はその製作部門の仕切りをひとりで負わされていた。なかなか商品が集まらず、印刷の締め切りに間に合いそうになくなると、優美そうと思われている京都弁だが、営業部門を叱咤する時は、ドスが効いていて迫力があった。 
 最初のうちは予想外の反響で、営業部員たちも気が大きくなり銀座での豪遊を始めたりしていた。
 哲彌たちは締め切りに追われ、それどころではなかった。松村と哲彌はせいぜい仕事終わりの夜遅くまでやっている酔っ払い相手の寿司屋で、軽く酒を呑むくらいだった。松村はほとんど寿司には手を付けず、つまみの白身魚を二、三切れ口に運ぶだけだった。痩せぎすの身体がますます細っていくのが、哲彌には心配だった。
 哲彌も朝方まで原稿と格闘していたため、空も漸く明るくなった時にタクシーを呼んだところ、いつまで経っても来ないのでタクシー会社に問い合わせたら、なんと哲彌の家に行ってしまったのだという。その時間には会社から家に帰るのではなく、家からの出勤だと思ったらしい。代わりのタクシーで帰ったところ、家の近くに最初に頼んだ1台が所在なげに佇んでいた。気の毒になって、2台目の運転手に聞いたら、そういうことのために互助制度があるから心配ありませんと言われ、ホッとした。

 しかし、ライバルの通販会社の追い上げもあったり、宣伝費と売り上げとの効果が釣り合わなくなったりして、売り上げは徐々に下降線を辿り、追い詰められた営業部員の中には質屋に商品を探しに行ったりする者が出るほどだった。
 そして、最後には倒産状態に。
 あおりを受け哲彌の仕事も無くなくなり、またプータローに戻ってしまった。

「ご指名は、ゆかりさん、ですね」
 黒服の男は、跪いたまま口を耳に寄せながら、確かめるように囁いた。
 松村は、その男の眼を見ずに微かに頷いた。
 そして、その場にあまりマッチしない日本酒の温燗を注文した。

 彼は何度かそこを訪れているようだった。
 都心から私鉄電車で30分ほどの駅の、大通りから少し外れたところにあるキャバレーに、仕事が無くなり暇を弄んでいる哲彌を、その日初めて松村が連れて行ってくれた。
 そこはダンス音楽が絶えず鳴り響いていて、顔を寄せるようにしなければ相手の声がなかなか聞き取れない。それは女と客の間を近くする営業戦略でもあるように思えた。
 この店のフロアの片隅に置かれた、背の部分が擦れて薄くなったソファの前にある、申し訳程度に置かれているテーブルの上に、黒服の男が置いていった樹脂製のポットとコップが少し揺れているように見えた。
 暫くしてゆかりがやって来て、松村と哲彌の間に滑り込むように入ってきた。 
 ゆかりは、松村の膝の上に手を置きながら、ボーイにカンパリソーダを頼んだ。

 そのカクテルには、哲彌は苦い思い出がある。学生の頃、繁華街から少し外れた歯医者の入り口の前に立っていた呼び込みのおネエちゃんに、
「寄って行かない?」と声をかけられ、年下の友人と軽くいなそうとしたら、
「コラ、そこの貧乏人」と罵られながら、向かいのおでん屋に入り、しこたま酒を飲んだ後、酔った勢いのまま少し離れた地下にある怪しげなバーに行った時の事。
 派手な衣装の女たちふたりが頼んだのが、カンパリソーダだった。リキュールをベースにした真っ赤なカクテルだ。

 その頃、哲彌が呑むアルコールといえば、いかにも翌朝頭が痛くなるような安い日本酒や焼酎だったので、そんな洒落た飲み物は知らなかった。
 暫く他愛のない話を続けていたが、ふと見ると女たちが置いたそのグラスの中身が赤い液体ではなく、煌めいた氷が浮かんでいるだけで、グラスの向こうに女の派手な色のドレスが透けて見えていた。
 天井から差し込まれる真紅のライトの輪からグラスが外れていたのだ。これは酔っ払った眼にも明らかだった。

「マズい」
 友に目配せして、急いで勘定を済ませようと薄暗い会計コーナーへと急いだ。 
 が、学生の身としては、法外な請求書を突きつけられた。咄嗟に逃げようとしたが、そこは地下で上に登る急な階段が待ち受けていた。背後からは屈強な男が立ち塞がっていて、観念した。その日ふたりで稼いだバイト代は結構良いものだったが、紙袋に入ったおでん屋で支払った残りの有り金全てを差し出し、ふたりは急いで階段をふたつ跳びして表に飛び出した。 
 ビール2本と2杯のカンパリソーダ分の金を払うと電車賃さえ残っていなかった。

 ゆかりは、そのカンパリソーダには口もつけないまま、すぐにボーイに促されて、
「すぐ戻ってくるね」と言って、フロアの真ん中に陣取っているいかにも金を持っていそうな男たちのところに駆け寄って行った。

 哲彌は松村に、
「よく来るんですか」と尋ねると、
「ああ、たまにね」
「いつも、あの娘を呼んでいるんですか」
「一度決めたら、次に変えると面倒を起こすことになるからな」
「でも、あの娘、すぐ行っちゃったじゃないですか」
「あいつは、ここではナンバーワンなんだ」
「好きなんですね」と言うと、
「いや、すぐ居なくなるからいいんだ」
「え、」
「こういう騒がしい中で、ひとりでいるために来ているんだから」
 少しヤツれた顔がいっそう鋭くなったまなじりをこちらに向けながら、呟いた。
 ゆかりは心得たものかどうかは解らないが、なかなか戻っては来なかった。〈後篇へ〉

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