母は結婚して親孝行した
母の母:祖母が亡くなった時、母はまだ40歳だった
私が小学6年のときで、ちょうど卒業アルバムの集合写真の撮影日にお葬式だった
10月のその日欠席すると、一人だけ別日に撮影した写真を集合写真の右上の枠内に並べられる
それがどうしても嫌だ!と母に訴えて、祖母のお葬式に行かなかった
弟は行ったんだろうか?全く覚えがなくて、もしかして父親も行かなかったのかも知れない
母にしたら悲しみの最中私を説得する元気がなかったんだろう 軽々と承諾された
担任の先生にはよく学校に来れたな、とだいぶ怒られた
その少し前に、祖母に会いに行った時、叔父の車から降りてきた祖母が、母の顔を見て、「どなたはんどしたかな?」と聞いたのを鮮明に覚えてる
母は、「私やで、きみこやで お母ちゃん、お母ちゃん」とボロボロ泣いていたのには、私も衝撃を受けて母を慰める言葉が浮かばなかった
認知症のまま祖母は亡くなった
母はだいぶ経ったとき、
祖母は「甘えることができない人だったから、呆けて良かったかもしれない」と言ってた
母は祖母が亡くなって生きる気力を失ったらしい
私はじきに中学に入学して楽しく過ごしてたが、
半年したら別の都会の中学に転校したので、自分なりに色々大変で母の辛い気持ちに全く気づかずにいた
私が高校生になった位にやっと、母から「あの時は自分も後を追おうと思うくらい辛かったけど、あんた達がいるから踏みとどまった」と言われた
今想像すると、うまくいってない結婚生活から逃げる場所を失った気がしただろうし、
喪失感を聞いてもらえる相手もなかっただろう
母は亡くなる直前、
お母ちゃんが亡くなって一年位辛かったと思い出してた
母になんかやりたいことない?と聞いたら、「親孝行」と言ってたし、
家のことでやっておいて欲しいことない?と聞いた時も、
仏さんに水をあげといて、と言われただけだった
母が入院して初めて知ったが、
母は、1階の紫檀の仏壇とは別に、2階にある低めのタンスの上に置いた日本人形のケース(中に芸者さん風の人形がある)を、父に内緒でこっそり仏壇に見立てて、
母の母と父の写真それぞれと母の兄姉で行った旅行写真を飾り、"宝酒造"と書いてるおちょこに毎日水をお供えして手元供養していた
入院してる時、(死んだら)お母ちゃんと会えるかな、とも言ってた
辛くてその時は答えられなかったが、なにがあってもあの世で、祖母には母きみちゃんを見つけて欲しい
いや見つけてくれてると信じてる
母は田舎では珍しく遅めの結婚で、「選り好みしてる」と近所で陰口を叩かれた挙句、26歳で結婚している
6人兄姉の末っ子だったので、祖母が一人っきりで寂しくなるのが嫌だったのと、毎度お見合い相手にピンと来なかったからだ
ある日働いてる母を見に来た父の父:祖父が気に入って、父に勧めたと聞いている
母も父を見て誠実そう、と思ったらしい
本当に見る目がないが
ただ、父親のいない娘を嫁にもらってやったという父の家からの傲慢な態度が露骨だったそうだ
この間、母の嫁入りの日の写真を実家で見つけた
田舎の家の玄関前に集まる親戚の後ろのほうで、文金高島田に髪を結い上げた母と祖母の誇らしげな笑顔
二人のあんな笑顔、、私は見たことがない
この日が母にとって人生最高に誇らしい日だったのでは
当時の母の気持ちが私の胸に飛び込んできた
これでやっと私も親に心配かけなくて済む!
親孝行がやっと出来た!と
この時、親孝行したんだ!と
新婚旅行の行き先は永平寺と東尋坊
日本海の風が吹き荒ぶ海岸がすごく寒かったと母は何度も私に言っていたが、
当時なら普通宮崎へ行くでしょうよ
父と母の結婚生活を象徴してる
この先のことは、また別の時に
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