ゲーム的リアリズムの誕生、感想

東浩紀のゲーム的リアリズムの誕生の感想

本書の構成

まずキャラクター小説の文体についての議論があり、次にキャラクターのメタ物語性、ゲーム的リアリズムに議論が移る

そしてゲーム的リアリズムの作品の環境分析的読解が行われる

本書では、かつての小説を自然主義的リアリズム、ポストモダンのキャラクター小説をまんが・アニメ的リアリズムとする議論を踏まえている

自然主義的リアリズムの小説は、写生する対象が現実の、我々が住む世界だった

それは純文学に限らず、SFやファンタジー小説でもそうだという

それらはあくまでの現実の世界にその想像力を拡張したものと考えるからだ

対してまんが・アニメ的リアリズムの小説が写生する対象は、現実世界ではなく、まんがやアニメの中の世界だという

このタイプの小説は文体のレベルで、かつての小説とは違っている

キャラクター小説においては、表現が稚拙だとかいう批判が的外れであるのだ

しかしキャラクター小説は、現実を写生するようにまんが・アニメ的世界を写生するのでその文体は、本来荒唐無稽であって良いものをまるで荒唐無稽でないかのように表現するものらしい

そこでは手塚治虫のまんがの例が出されている

そのまんがでは、キャラクターが血を流すのだと

本来まんが世界におけるキャラクターは私たちと同じ身体を持たない

ゆえに血を流したり、まして死んだりしない

しかし手塚治虫はまんがのキャラクターの死を描いてしまった(死が描ける)のだと

キャラクター小説の文体の特殊性の議論は実は筆者の主張ではない

筆者はこの議論に対してキャラクター小説の特徴は、文体以外にもあるという

それがキャラクターのメタ物語性だ

キャラクターとは、ある登場人物の行動パターンの束なのだという

例えばツンデレの場合、照れた時、怒った時、悲しんだ時、チョコをあげる時、出会い頭にぶつかった時、など容易にその反応が想像できる

あるシチュエーションに対するアクションのパターンの集合、それがキャラクターなのだ

よって、キャラクターは描かれる物語とは別の物語における行動も想像できてしまう

描かれなかった物語の可能性が消えないのだ

キャラクターが物語より優先されるのは制作面においても顕著だ

ある作品を作る上で、「では、最近ツンデレが流行ってるのでヒロインはツンデレでいきましょう」という流れはよくあるらしい 確かに想像できる

つまり物語が交換可能になっている、キャラクターはどんな物語にも登場できるのだ

だから、あるキャラクターが死ぬ物語を描いたとしても、死なない物語を想像することを止めることはできない

物語の作者は唯一の物語を描けない

これがゲーム的リアリズムの作品の特徴なのだ

そしてこれに対して、人の死を描けない(死が希薄になる)のだと批判がでる

これに対する応答が本書のメインだ

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近年の情報環境の変化によって、消費されるコンテンツも変化が訪れた

(グーテンベルクの銀河系?的な話なのかな 全然知らんけど)

昔・・・ 新聞とかテレビとかマスメディアが存在 能動的な発信者と受動的な受信者が別れていた 単方向 唯一の物語を提供できた

今・・・ ネットやゲームが存在 発信者と受信者に分けられない 双方向 様々な物語が無数に生まれてしまう

本書では前者をコンテンツ志向メディア、後者をコミュニケーション志向メディアと呼ぶ

コミュニケーションメディアは、コンテンツ、物語を供給しない

代わりに場、プラットフォームを提供する 物語はユーザーが勝手に作る担っている

MMORPGや、TRPG、電車男などの例を考えるとわかりやすい

一方面白い例としてロードス島戦記があげられる

これはもともとTRPGの実況を一つの物語として小説化したものらしい

TRPGはあらゆる物語の可能性を持っている

でるサイコロの目によっていくらでも物語が発生する以上これはコミュニケーション志向メディアだ

そこで起こる一つの可能性を切り出しコンテンツ志向メディアとして作られた作品

ここで奈須きのこのエピソードを思い出した

奈須きのこはシナリオライターとして活躍する以前は、TRPGのゲームマスターとして友人の間でその実力を認められていたらしい

様々な物語を内包する世界の構築のうまさは、コミュニケーション志向メディアの時代においてまさに求められる能力で、二次創作含め巨大に膨れ上がっていく型月世界は、これによって生み出されたのだ

話を戻すと、ある作品を公表してもそれは別の物語への想像を止めることはできない

であれば死は描けないのか

その問いの応答が以降の作品読解において語られる

一つ目の作品はAll You Need Is Kill

死は希薄になった しかし主人公をゲームプレイヤーと重ねることで、選択肢が存在すること、他の世界が想像できることが、同時に一つの選択を選ぶしかないこと、他の世界を切り捨てなければいけないことを描く

これによってプレイヤーレベルでの死を描くことに成功している


今は多様化した時代だ

物語は一つではない

しかし選べる物語は一つしかない

選べない無数の物語を選べないことに苦しむのが今の時代なのだ

ゲーム的リアリズムの物語はそのことの残酷さを描ける


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