いつもありがとう。「誰か」さん。
人生は「誰か」によって劇的な変化を遂げる。独りじゃ何もできなかった、何も変わらなかった、そんな日々に色彩をくれる人の話。
・救いの手は突然に
・独りでは生きていけない生き物
・自分も誰かの「誰か」になる
救いの手は突然に
今の自分がここにあるのは紛れもなく「誰か」のおかげだ。
そして、その「誰か」は彗星のごとく突然僕の前に現れるもの。何時何分に合流とかじゃなくて、予定もなく突然に。
で、ふと気付いたら既に自分の中で大切なものをいくつもくれた、そんな存在になっている。
「誰か」っていうのはわかりやすく言えばのちの「親族」「友達」「先輩」「後輩」「上司「部下」「恋人」というカテゴリーに属する人の総称とも言える。
たかが30少しの人生だけど、各カテゴリーに数人の「自分的偉人」がいて、その人から学んだことは数多い。そして、何度も救ってもらってきた。
人生最初の彼女にフラれた時、ホントに目の前が真っ暗で「絶望ってこのことを言うのかな・・」なんて思って過ごした数日。その闇は、「親族」の女子たちがゲラゲラつまらない話題で盛り上がっているのを見た直後に晴れた。
落ち込んでいても何も変わらない。だったら切り替えていこうって気持ちになれたのは、別に誰かにそういわれたわけじゃなくて「そう思えるような空気」を吸えたから。
つまり、その空気をつくってくれた人と出会えたことがすべてだということ。
独りでは生きていけない生き物
振り返れば、人生の中で誰かに救われてきた瞬間っていうのはかなり多いと思う。
昨夜、後輩が自分の半生について話してくれた。軽くは知っていたけど、ひとつの番組が出来るくらいの壮絶な十代を過ごしてきたことを告白。
家族関係、親戚関係、親の喧嘩、兄弟の別れ。小さなカラダと小さな頭ではどうすることも出来なかったけど、その状況に対して味方になってくれた、話を聞いてくれた、理解してくれた友達は今も財産だと言っていた。
「死ぬ勇気はなかったけど、生きていたくはないと思ってた」
って言葉には僕が知ることのできないほどの葛藤があったことと思う。その中で出会えた「友達」の大切さ。
いま、後輩が元気よく暮らしていて、人懐っこさで人の信用を得ているストーリーを歩けているのは紛れもなく「誰か」のおかげ。人はやはり独りでは生きていけない残酷な生き物。
自分も誰かの「誰か」になる
自分は誰かの「誰か」になったことがあるのだろうか。
人生の通知表はどのくらい僕に対して点数をくれているのだろうか。
以前、こんなnoteを書いた。誰かのための「誰か」になることはこの上ない喜びであり、これ以上の幸せはないんじゃないかなって昨夜思った。
だって、大袈裟かもだけど、その子の人生に自分という存在が響くんだよ?好きな歌手の歌が人生に響くように。
より多くの人のために自分が役に立てるのであれば、出来るだけ力を使いたい。こんなちっぽけで大した力もないけれど、少しだったら背負っても平気。それで歩けるようになるのなら。
「先輩といる時間は一分一秒も無駄にしたくない」
って言われて、何かありえないくらい嬉しかった。自分の存在を肯定してくれた後輩は僕にとっての「誰か」だった。こんな貴重な仲間、なかなか出来ないから大切にしていこう。うん、そうしよう。
そして、もっとつくっていこう。うん。そうしよう。
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