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言葉がゲームのテンポを決める
昔のゲームには「テキスト芸」があった
自分でゲームをやるのと同じぐらい、人のゲームを見るのが好きだ。最近は妻がSwitchでプレイする『真・女神転生』をよく見ているのだけれど、いちばん気になったのはザコ敵から退却した時に出る「・・・・・にげのびた」というテキストだった。
昔のゲームには、記憶に残るテキストがたくさんある。「しんでしまうとは なにごとだ! 」「おれはしょうきにもどった!」」ぬわーーーー」「せいせきはぴょう」「わたしが町長です」「こんどは オラが やる」……実際にゲームをプレイしたことがなくても、ネットでこれらの文字列を目にしたことがある人は多いだろう。容量が8ビット16ビットと少ない時代。テキストはゲームの世界観を表すだいじな武器であり「芸」だった。
「にげのびた」もまた、平成ゲームならではの優れたテキスト表現だ。女神転生は、崩壊した世紀末の世界を高校生が命からがら生き抜いていく物語。ふつうの「にげた」に僅か2文字を加えるだけで、その世界にふさわしい独特の緊張感を作り出す、秀逸な演出だと思った。
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退却時のテキスト芸といえばもう一つ忘れられないものがあって、それは『ラクロアンヒーローズ』の「スタコラ サッサー」である。昔のゲームならではの高エンカウント率をものともしない能天気なフレーズは、この時代のゲームにあったユルさと自由さを象徴していたように思う。
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規定するのは世界観だけじゃない
バンダイのゲームボーイソフト『ラクロアン ヒーローズ』は、当時人気だったSD騎士ガンダムを原作にしたドラクエライクなRPG……なのだが、原作どころか同時期に発売されたファミコン版やスーファミ版すら無視した自由すぎる世界観で、今なおカルト的な人気を誇る名作だ。
ザコ敵がなぜか2ちゃん語風の言葉遣いだったり、黒い三連星やランバラルが関西弁を話してきたり、仲間の僧侶ガンタンクがなぜか「いっぷく もってやるか へっへっへ」と畜生発言をしたり……物語を彩るヘンテコな迷台詞の数々は、子ども心に何かがおかしいと思わざるを得なかった。
改めて驚いたのは、システムメッセージまでもが異常にハイテンションなこと。前述の「スタコラ サッサー」をはじめ、戦闘コマンドにはしれっと「おどす」が置かれているし、メニュー画面でセーブしようとすると「セーブしまーす! よいですか?」「ハーイ!」と謎のやり取り(誰との?)が発生する。極め付けは「きおつけて」「てきは まだこちらに きずいていない」など、大量の誤字まで紛れている。
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他のソフトのように、大事なイベントで記憶に残るセリフがあるならまだわかる。そうではなく、ふだんのテキストまでが全体的に狂っているのはなぜだろう? 思うにラクロアンヒーローズのテキストは、世界観だけでなく、ゲームの「テンポ」を規定するために存在していたのではないか。
それはスピード感のチュートリアル
そう思うに至ったのは、ラクロアンが当時にしては珍しく「デフォルトでダッシュできる」RPGだったからだ。ファイナルファンタジーですらダッシューズをそうびする必要があった時代。Bボタンを押すだけでダッシュできたのは、マリオかケンタウロス形態の騎士ガンダムぐらい。当時の少年たちはダッシュ機能に助けられて、スダ・ドアカワールドをストレスなく冒険し尽くすことができていた。
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ゲーム上グラフィックに変化はない
おそらく本作が目指していたのは、どこでも持ち運べて気軽に遊べるゲームボーイならではの、カジュアルなテンポのRPG。キャラは有り物、ゲームシステムはほぼドラクエ。でも、ほかと大きく違うスピード感こそがオリジナリティだった。そう考えるとBGMが三味線調で疾走感に溢れていることも、宿屋に行かず「きゅうそく」コマンドで全快できることも、冒険の扉で目的地までワープできることも、すべてに合点がいく。
ちなみにドラクエで死体を調べた時に出てくるのは「へんじがない ただの しかばねの ようだ……」という何だか深読みしたくなるテキストだが(そしてその深みこそがドラクエの魅力なのだが)、対してラクロアンヒーローズは「スカ!」の3文字だけ。
なんとも潔い、この軽さとスピード感。ダメだったら深く考えずどんどん次へ行こう! 全滅したらセーブしたとこからガンガンやり直そう! という軽さとスピード感が、このゲームの全編にあふれ出ている「ノリ」なのだ。
ゲームを開始すると、いきなり街に無言で放り出されて→能天気なBGMが流れ出し→とりあえず適当にどこかを調べて「スカ!」と言われる。思えばこの一連の流れも、テキストという名のチュートリアルだった気がしてならない。
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開始30秒で自然にノリを掴むことはできる
世界を味わうために、今日も「にげる」
ところで最近のゲームはテキストによる個性的な演出がめっきり減った。それはほかの演出手段が増えたからでもあるし、現代の美麗なグラフィックに昔風のゆるいテキストが合わなくなったということでもあるだろう。残念に思っていたら『龍が如く7』のラスボス戦で久々にぐっとくるテキスト芸と出会えた。
『如く7』のラスボス戦は同じ相手との二連戦になるのだが、二戦目でラスボスの表記が本名に変わる演出が挟まれる。地位や名誉を脱ぎ捨てて、1人の男と男がぶつかる最終決戦。テキストの変化だけで浮き上がってくるストーリーの、なんとエモいこと。
龍が如くシリーズはゲームという形式をとっているが、主題はヤクザの人間ドラマ。だからそこにはプレイヤーが見てきた物語の記憶を噛み締めるように味わうためのテキストがいる。令和の時代のゲームだけど、これもまた、やりたい「ノリ」がよくわかる演出だった。
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(ネタバレ防止のため画像は『極』と『0』の名台詞)
「言葉が世界をつくる」とは昔からある有名なテーゼだが、もしかするとゲームの世界も同じなのかもしれない。
女神転生の世紀末感を表すには「にげた」じゃなくて「にげのびた」である必要があるし、『超サイヤ伝説』が未知の異星人と遭遇する恐怖を表すには「敵があらわれた」ではなく「テキが あらわれた!」と表記する必要があった。『桃太郎伝説』の桃太郎は敵を会心させているから「こらしめた!」と言うのが正しいし、『ラクロアンヒーローズ』がスーパーテンポのいい「ノリ」を実現するためには、怪しい関西弁や謎のイカれた擬音を駆使しなければいけない。
一見無意味に見えるテキストにも、ゲームを少ない容量で表現するための意味がある。一文字一文字に「らしさ」と美学が込められていた時代の言葉たち。そのおかしさを堪能するために、我々は今日もザコ敵との戦闘で「にげる」を選択してしまうのだ。(了)