ハルは早春の幻に泳ぐ~Hal swims in the illusion of early spring~④
額になにか冷たいものが触れて目を開けたらベッドの中だった。
母親はハルが起きたのに気付くと静かに声を掛けた。
「ハル、あんた少し熱があるのよ。森で冷えちゃったのかしらね?大丈夫よ、心配しないで寝ていなさい」
そう言いながら布団を優しくポンポンと叩くのがまるで小さな子供になって寝かしつけられているようでなんとなく居心地が悪かったが、ハルは目をつぶると再び寝入ってしまった。
思いのほかすぐ熱は下がらず、森でなにか良くないものに障られたのか心配した母親は街のヒーラーを呼んで来たが、ヒーラーは心配ないと見立てると熱を下げる薬草を出し、容体が悪くなるようならまた呼ぶようにと母親に伝えた。
いつも一緒に遊んでいる友人たちも彼の姿が見えないのを心配して訪ねてきたが、彼らにうつってはいけないと思った母親がハルはきっとすぐ元気になるし、良くなったらすぐに遊べるからと代わりに約束をしてくれたので彼らも仕方なく納得して、わいわいと賑やかにハルに声を掛けながら街へ戻って行った。
ハルは熱が下がるまでうとうとと眠りながら過ごしていたが、具合が良くなり始めるとベッドの中で大人しくしているのも苦い薬草もすっかり嫌になってしまった。
それでも母親に言われてもう一日だけはなんとか我慢していたが、ずっと動かず寝ていた反動か夜になっても中々眠れなかった。
***
さらさらと音がする。
姿は見えないが、ハルの周りを魚たちがゆっくりと泳いでいるのがわかる。
(どうして水から出て来たの?まだ朝じゃないよ。朝になったら僕が川に連れて行ってあげるから)
(もう良いんだよ、ハル。さよならだよ)
(さよなら、ハル。また川においでよ。そしたら一緒に泳ごうね)
魚たちは口々にハルにそう言うと桶の暗い水の中から薄明かりの川へと泳ぎ去ってしまった。
(みんな、待って!)
ハルが魚たちを追って駆け出すと桶の底が抜け、ハルは空へと落っこちて行った。
「わあー!」
自分の声に驚いて目を覚ましたハルは何か温かいものが頬を伝っているのを感じた。
彼はベッドから飛び起きると、寝巻の袖でごしごしと顔を拭いながら裏庭へと出て行った。
時間はよくわからなかったが、早朝の裏庭は夜の冷え込みのためか草や地面はうっすらと白く、ようやく昇ってきた日の光に照らされた靄があたりに漂っているのが見える。
ハルは白い息を吐きながら魚が入れてあった桶を探したが、大きな桶は庭のどこにも見当たらない。
(僕は間に合わなかった?)
魚たちとの約束を果たせなくなってしまったのかもしれないという不安が沸き上がったハルは緊張した面持ちで腕をさすりながら無言で立っていた。
「ハル。どうした?そんなところで」
急に声を掛けられ驚いて振り向くと、木戸から入ってきた父親が桶を下げて立っていた。
「具合は良いのか?冷え込んでいるんだからそんな恰好で居たら駄目じゃないか」
「父さん・・・魚は?」
「ん?ああ、今な、川に逃がしてきたんだよ。おっと!どうした?」
だしぬけに抱きついてきたハルに父親は驚いたが、彼に自分の上着を掛けてやりながら続けた。
「お前の熱のどさくさで時間が経っただろう?魚がやせちまって美味くないかと思って・・・な・・・。ハル?」
「ううん・・・。ごめんね、父さん」
「ん、泣くほどのことじゃないだろ?魚はまた捕まえればいいんだから。さ、中に入ろう。これで熱が出たらまた母さんが心配する」
「うん」
その後、すっかり元気になったハルは再び友人たちと連れ立って街や森に出かけていくようになった。
彼が魚に対して抱いた執心もそれ以降見せることはなく、少し気に掛けていた両親もその出来事を彼の子供時代の思い出の一つに加え、いつしか忘れ去っていった。
季節が進み、森にはあの小川で水しぶきを上げて泳ぎ、葉の生い茂った木々の間を駆けまわる子供たちの楽しげな声と仕事に精を出す職人たちの工具の音が響き渡っている。
鮮やかで暑い夏がミノックへと今年も巡って来たのだった。
END.
最後までお付き合いくださいましてありがとうございます!
物語の解説などは後程掲載したいと思います。