ハルは早春の幻に泳ぐ~Hal swims in the illusion of early spring~③
翌朝。
母親がハルを起こしにやってきた。
「ハル、起きなさい。今日はめずらしく遅いのねぇ、夜まで寝ていることにしたの?」
「母さん、魚はどうしてる?もう食べることにしちゃった?」
「ん、魚?あは、なんだか随分気にしてるのねぇ。お気に入りになったの?桶は昨日のままよ。魚もまだ生きていると思うけど、気になるなら見てらっしゃいよ」
母親の「まだ生きている」という言葉にハルの心臓がドクンと脈打った。
「う、うん・・・」
「さ、まずは着替えてご飯にして、魚はそれからね。ほらほら、早くしないと魚を見る前に夜になっちゃうわよ」
午後。
裏庭にハルの姿があった。
ハルが昨日のように遠巻きに蓋越しに桶の中を窺うと、はっきりとは見えないが人の気配に気づいた魚が泳いだのか水面が揺れ、翻った鰭が水を打つ音が小さく聞こえた。
その音を聞いたハルは魚が生きていることを知り、安心してほっと息を吐いた。
本心を言えば魚を逃がしてしまいたかったのだが、多分叱られないとしても捕まえた人ではなく彼が勝手にそうするのは違うと思ったし、自分たちのために父親が獲ってきてくれたことがふいになるのも嫌だったのだ。
家を出たハルの足は自然に森へと向かったが、街なかで友人たちと出会うと裏庭の魚の話はせずにひとしきり彼らと遊び、ようやくあの小川へ向かうことができたのは夕方遅くなってからだった。
明るい昼間以外に一人で森に行くのは固く止められていたけれど、魚たちのいた場所がどうなっているのかどうしても確かめたかったハルは、魚の群れを見つけた辺りの少し前から足音を忍ばせて用心深く近づいた。
小川は昨日とさほど変わっていない様子だったが人が行き来した踏み跡があり、水の中にも魚たちの姿はなく、薄暗くなった人気のない森の中は何だかよそよそしくしんと静まり返っていた。
ハルは自分が話したことで魚たちが散り散りに逃げなければならず、彼らの居心地の良い場所を荒らす羽目になってしまったことに落胆した。
そして自分の周りに今誰もいないことをたまらなく不安に感じると足早に森を出てとぼとぼと家へと帰って行った。
家に戻ると、帰りが遅いうえに顔色が良くない彼の様子を見た両親はどうしたのか尋ね、ハルは一人で森に行ったことを話した。
母親は何事もなかったことに安堵はしたが、薄暗い森の中で一人で危険なことに遭ったらどうなるのかとハルを厳しく叱り、夕食の後、部屋で反省するように言いつけた。
父親は母親の言葉を黙って聞いていたが、息子を部屋へ送りながら
「俺はお前がもう小さな子供じゃないと思っているから母さんほど心配はしてないがな。用心していても危険な目に遭うことがないわけじゃないからその時どうするか、お前もそろそろ自分で考えてみる頃合いなのかもな。
じゃあ、おやすみ」
父親はそう言うとハルの肩を軽く叩き部屋から出ていった。
***
ちゃぷちゃぷと水音がする。
そこは薄暗い水の中だった。
ハルはじっと目をつぶって魚たちがひそひそと話しているのを聞いていた。
(ここはあんまり明るくならないねぇ。静かだけどつまんないな)
(ここのお水は美味しい味がしないからお腹が空くね)
(みんなはどうしてるだろう?ねえ、これから僕たちどうなるのかなあ?)
(今日は元気がないんだね?・・・どうしたの、ハル?)
名前を呼ばれて目を開けるとハルは裏庭の桶の前に立っていた。
(みんなが捕まえられたのは僕のせいなんだ。ごめんね)
ハルはそっと桶の蓋をあけて中を覗き込み小さな声で話しかけたが、さっきまで仲間のように話してくれていた魚たちは人の姿が怖いのか桶の暗い片隅に集まり、彼の言葉に素知らぬふりをしている。
(朝になったら必ず川に返しに行くから・・・みんな待ってて)
④へ続く