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犬の名前

シベリアンハスキーのような男だ、と第一印象で思った。

仕事で疲れているんですよ。と送ってきた自撮りは、あざといくらい「くたびれていた」。

私が連絡を返さなくなっても、次の日の朝には「おはようございます」と連絡が来た。
中身は挨拶だけでなかった。返さないわけにもいかず、とりあえず返していた。
繰り返しているうちに、毎日やりとりしていることに気がついた。

会うか。
会ってやってみないとわからないことも多い。
それで会った。
始まりは、いわゆるネットの掲示板というやつだった。いろんな性的嗜好の人が集まる、エロとグロの。

当日は相手が一人で暮らす家にお邪魔して、お茶をいただいてお話しして、それで終わるつもりだった。少しだけ、という誘いに、あたしもあざとく乗っかってしまって、もうそこからは打ち合わせもしてないのに「プレイ」は始まる。

ダイニングチェアに腰掛けていたあたしの、足元に正座した男の顎を掴み、上を向かせる。
まだ信頼はできてないはずの女に、ここまで心を開くなんて危ない男だなと思いながら、ビンタをする。左の頬。
手加減して打ったから、髪が乱れた程度。
まだいけるね。いけます。いい子ね。ありがとうございます。
叩かれてお礼を言うのなんて、マゾヒストという生き物くらいではないだろうかと冷静に思いながら、相手の正座した太ももに片足を乗せて、もう一度頬を張る。いまの、いい音だったな。
さすがに力を逃すために、男は反対の方へ顔を向けていた。
逃げちゃだめよ。すみません。もう一度ね。はい。
手を振り上げて、敢えて中空で止める。痛みを待ち目を閉じていた男が、痛みが飛んでこないことを訝しがって目を開ける。その瞬間に打つ。
あっ…と、さすがに声を漏らした。
今のは痛かったねごめんね。と言うけれど、痛い方がいいのだろうか。今のは耐えられた? ここらへんでやめておこうかな。
そんなふうに言えば、相手が名残惜しそうに上目遣いをすることだって、わかった。
なぜだろうね、今日会ったばかりなのに。
あなたの痛みの尺度、興奮の度合いが何となくわかる気がする。

「服を…」言い淀み、あたしが促して彼は続きを答えた。
「服を脱いでも、よろしいでしょうか」
「…犬が服着てちゃ、おかしいものね」
「はい…」
ラフなTシャツに、ジーパンに下着、その上に靴下を、きちんと畳んで男は座り直した。その、きちんとした所作に思わず笑った。
粗相があるのはいけませんから、と男はいたって真面目な顔で返した。

あたしよりずっと若い男。どこで学んだか、従者や犬としてのSMの作法を(それは定義されたものではないが、あたしにはそう感じた)知っていた。

男はもう屹立を勃起させており、それを理由に「はしたない」「情けない」「叩かれただけで興奮したのか」と引き続きあたしに引っ叩かれたが、はい、はい、はい、と申し訳なさそうな、叱られた犬みたいに肩を落として、ただひたすらビンタに耐えた。いい子、とはもう言わなかった。だらしない。情けない。ダメな子。悪い子。駄犬。

叩いては、その反応を見て、言葉で責め、笑い、そしてだらしなく勃ったままのものを足の爪先でこづいた。同じことを何回も繰り返しているうちに、そろそろ相手が力をなくし、あたしの膝に枝垂れかかってくる。

体力がなくなったわけでない。甘えたいのだ。
肩を引き寄せて、髪の毛を掴み、乱暴でこそあれ、そのあとは優しく後頭部を撫でた。
彼の体重を感じる膝先から、彼の安堵が伝わってくる。同時に、どうしようもなく興奮していることも。
「今日はここまで」
抱き寄せ、体温を感じるまで擦り寄り、耳元でそう言った。心底、残念そうな声音で「…はい」と彼は言った。
どこまでも、できれば最後まで、彼はもっと何かを欲しがっていただろう。ただこの関係において「最後」は難しい。
男が射精して終わることが全てではないから。

「痛かったわね、あなた頑張れる子なのね、少しあなたのこと、わかった気がする」と抱き締めると、縋り付くようにあたしの名前を連呼して、彼は下からあたしを抱きしめてきた。
○○さま、と呼ばれるのは好きじゃない。あたしはプロでもないし女王様でもないから。
だけど彼は、それを伝えたけれど、あたしのことを○○さまと呼び、切ない声音で名前を連呼して抱きしめてきた。大柄な男に抱きしめられると、大型犬にじゃれつかれている気持ちになって、少し苦笑した。
やはり、シベリアンハスキーのようだ。
「お話ししてる時は○○さんって、呼んでくれたのにね」
あてこすりを笑いながら言えば、やはり「すみません」と彼は謝った。
ありがとうございます、と、すみません、しか言ってないね。

「あなたにとって躾って何? 調教ってなんだろう」
少し空気が緩やかになって、温まり出した頃に聞いた。
「…厳しさと愛でしょうか」
「ふぅん…」
厳しさと。愛。
愛などというものは一朝一夕で芽生えるものではない。厳しさもまた同じで、相手のことを何も思ってないからこそ叩ける時と、その反対がある。
反対とはつまり「可愛いからこそ壊したい」という一見矛盾した爆発的衝動だ。

飴と鞭。

飴に対して鞭は少々やり過ぎではないだろうか。
鞭に耐えたから飴しかもらえないのは、いささか可哀想だ。
だけど、マゾヒストという生き物は、あたしにとって「可哀想であればあるほど、愛おしい」。

「これで終わるつもりだったけれど、そこに立って」
「…? はい」
訝しみながらもあたしの言葉に全く疑問も持たず、抵抗もしない従順な男を、あたしの前に立たせる。
相変わらずあたしは、椅子に座ったままだ。
「そこから動いたら、罰としてカウントダウンをやめないからね」
あたしが立ち上がり、手を振りかざした時に、彼はきっと今から何が行われるかを瞬時に理解したことだろう。

彼はいろんな場面でいろんな道を歩いてきたに違いないから、きっとこんなふうな懲罰も(そもそも罰ではないが)今までに受けてきたと思う。

あたしは、自分の手のひらが分厚く、そして強く生まれてきたことを、神様と親に感謝した。

100のカウントダウンをしながら、男の尻を叩く。たまに優しく、たまにとても強く叩く。急いで叩いたり、ゆっくり叩いたり、そして焦らして叩いたり、する。
最初の方はまだ大丈夫。余力があるのも知っている。痛いだの喘いだり呻いたりしても、それが少しばかり演技なのも知っている。
まだいけるよね、だってまだ60回ある。耐えます。そろそろ、歯を食いしばりなさいね。はい。ああッ。

相手の皮膚が熱を持ち始めるのがわかる。
不思議だ。この火照り、赤くなる皮膚が可愛いと思える。あたしの力の限りを受け止めてくれたと思ってしまう。おまえは本当に可愛いね。そこまで全てを享受するなんて。皮膚に語りかけたくなる。

男が少しずつ、その場に立っていられなくなる。
彼の名前を呼び、髪の毛を掴んで立たせる。
いま動いたね。すみません。謝らなくていい。すみませ。
最後の「ん」は、あたしの手のひらが相手の尻の肉にぶつかる音と、相手の口から吐き出された表現できない潰れた音で聞こえなかった。

「30.29.28.28.28.28.28…」

罰としてカウントダウンを止める。
それだけ多く、男はまた理不尽に尻を叩かれる。
熱を持って、じんじんとして、とっても痛そう。
あたしはそれを見ると恍惚とする。
こういう時に自分の中の加虐性にようやく気がつく。受け入れてくれているという喜びとともに。

「28.28.27.27.27.27…」

カウントダウンなんてもはや、意味をなさない。
こうなることもきっと、わかっていて、目の前の男は椅子に手をついた。もう、体勢の維持が困難なのだろう。
また動いたことを責めてもいいが、これ以上はきっと、明日になったらあたしも相手も後悔しそう。そこまで考えて、あっさりとカウントダウンを進めた。
よく耐えました。ありがとうございます。痛かった? 痛かったです…でもどうしようもなく興奮もしました。知ってる。

見ればわかる。
わかりやすく汁を滴り落とす陰茎は隠しようがない。いわば、犬の尻尾。そこがおまえの、興奮と感情の表現。

あたしが帰ったら、1人で情けなく射精なさいね。

微笑んで少し抱きしめる。やることはやったから、飴も少しは与えたい。金平糖一粒の程度で。
上着を羽織って、それでは今日はどうもありがとう、と家を出ようとする。男は慌てて服を着てあたしを送ろうとしたが、いいよタクシーすぐ拾うから、と手で制止した。

男は裸のまま、その場に座り、そして上目遣いであたしを見上げた。その目は熱に上気したまま、濡れている。漆黒の輝きを湛えていて、それでいて蠱惑的な蕩けた飴細工のようであった。

「あの…名前をください、ぼくに。犬の名前です。その名前で、可愛がってください」

ちゃんとおねだりもできるのね。じゃあ、あなたは今日から「ハチ」。忠犬におなり。
駅前でずっと待ってて。あたしが死んじゃっても。

男はとても嬉しそうに、深く深く土下座をして、どうぞよろしくお願いします。ご主人様。と泣き声にも似た声で言った。その声は俯いていて、くぐもっていたが、男が嬉しそうにしていることは何故かわかった。
シベリアンハスキーに「ハチ」は似合わないかな。秋田犬とか柴犬の方が似合う。そんな、どうでもいいことを考え、全裸のまま床に座る男を背にした。

あたしたちは共生している。
凹凸のように合致している。
欠落した何かを補完し合っている。
痛みを与えるのが好きな人間と、痛みを受けるのが好きな人間。支配する側と支配される側。
主人と、従属。
あらかじめ決められていたように、立場が違う。うまくできている。そして求めあっている。
だから「共生」だと思う。

SMも犬と主人と関係も、1人ではできないのだ。




この物語に続きがあると思うか?
それは、内緒。


*この物語はフィクションです。

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