![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/150493847/rectangle_large_type_2_6a6e10af5b09b3249577c96d2c3a748f.jpeg?width=1200)
別冊 記憶のはなし
連還する記憶 ①
ひとの記憶には、次の二つがあります。
生命記憶
生き物という有機体は、数十兆といわれる多くの細胞で、できています。そして、それぞれの細胞が、生類の誕生以来、蓄積継承してきた記憶があります。それを生命の記憶、生命記憶といいます。
生命記憶は、生きるための記憶です。生命体の寿命が尽きるまで、生きるためにのみ蓄積される記憶です。寿命が尽きると、生命記憶は、他の生命体に引き継がれ、生き物すべての共有財産となります。なぜなら、生き物はすべて生の共同体、すなわち生態系に属しているからです。
生態系は生命記憶の集積の上に成り立っています。
存在記憶
新たな生命は、お母さんのおなかの中で、胎盤を通して生命記憶を受け取り、世の中に誕生します。その誕生のときから、新しい生命の、存在の記憶が始まります。
存在記憶は、存在を記録する記憶で、存在したことの証となる記憶です。生命体の寿命が尽きると、存在はなくなりますので、存在の記憶もなくなります。しかし、消滅した生命体が共同体に属していれば、その共同体が、存在記憶を受け継ぎます。
野獣の狩猟技術、鳥類の飛翔技術、生きとし生けるものの生存技術の継承と伝達しかり、ひと類の、きらびやかな文化の創出と継承しかり、存在記憶は、ひと類の存在を立証し、有機的な共同体の文化を生み出す源泉となります。
二つの記憶はコインの裏表
一個の生命体が蓄積継承伝達するこの二つの記憶機能は、切っても切れない関係にあります。生体を構成する細胞の生命記憶は、生体内に張り巡らされた感覚網によって、存在記憶と繋がっています。
たとえば、喫茶店で出された紅茶の香りをかいだ瞬間、むかし体験した出来事をありありと思い出す、といった経験は、みなさんお持ちでしょう。この瞬間を「プルーストの特権的瞬間 - Le moment privilégié de Proust」と名付けた学者もいると聞きます。
ひと類はみな、この特権的瞬間を介して、生命記憶と存在記憶に繋がっています。嗅覚という生命記憶がなければ、紅茶にまつわる存在記憶を再生できないし、紅茶を味わったという存在記憶がなければ、匂いを嗅ぐという生命記憶にもつながりません。
表裏一体とはこのことです。
そして、ある個体が存在するあいだ、唯一無二のおなじ個体であるかぎり、この両者は、おなじ時間軸と空間軸を共有します。コインの表裏は、投げても転がしても、離れることはありません。生命記憶は存在記憶と、存在記憶は生命記憶と、常に、際限なく、有機的に連還しています。
メビウスの輪
この、同一の時空軸でくり返される表裏の際限ない連還は、メビウスの輪で説明されます。ひと類の記憶は、個体の生涯をかけて、ある時は生命記憶に、またある時は存在記憶に寄り添いながら、生命と存在のメビウスの輪の上を、歩き続けているのです。
観念の罠
この有機的な連還を阻害する無機的な存在記憶があります。生命記憶と時空を共有しない軸で造られた記憶、すなわち生体の記憶から遊離した無機質の観念です。
たとえば仏法は、観念の一つですが、生きる意味を問う、という、生体の生きる力と密接にリンクした考えですから、当然、有機的な存在記憶として、メビウスの輪で連還し続けるでしょう。
一方、唯物論に由来する観念は、生体との繋がりはありません。むしろ生命体をモノとして扱うために、生命記憶を全否定したところで成立する、無機質の観念です。
この唯物論で培った存在記憶は、無機質のため、有機質の生命記憶とは連還できません。
したがって、生命体である個体が消滅すると同時に、この存在記憶は消滅し、生命体の有機的共同体に受け継がれることはありません。
また、捏造された存在記憶も、生体記憶から切りはなされた無機質の記憶なので、個体が消滅すると同時に、これも消滅します。メビウスの輪は存在できないのです。
自分の存在記憶が、生命記憶に根差した有機質なのか、そこから解離した無機質なのか、つねに検証する作業が大切になるでしょう。
連還する記憶 ②
初回では、ひとの記憶には二つある、とおはなししました。
生命記憶と存在記憶です。
それでは、それぞれの記憶について、具体的にみていきましょう。
生命記憶
生き物という有機体は、数十兆といわれる多くの細胞で、できています。そして、それぞれの細胞には、生類の誕生以来、蓄積継承してきた記憶があります。
最近の研究で、細胞同士が、独自に情報を交換しあっていることが、わかってきました。細胞の一つ一つは、自分の記憶に刻まれた情報が、伝達媒体をとおして、ほかの細胞に伝えられ、自分たちが支えている生命体が壊れないように、作用しあうようにできています。
たとえば、ものを食べると、血糖値が上がりますが、上がりすぎると、生命体が壊れますので、膵臓からインスリンという物質を分泌し、骨格筋とか、脂肪組織などに、糖分を取り込むように働きかけて、血糖値を低下させるように作用します。
このように、生命体は、自分が壊れないように、また壊れかけても恢復できるように、生き抜くための記憶を、代々、長年にわたって蓄積伝達してきました。
しかし、この生命記憶は、ひと類の認知機能を包含しますが、ひと類が、その実像を認知することはできません。宇宙に包含された地球が、宇宙の実像を、未だ認知できないのと、よく似ています。
では、存在記憶はどうなんでしょうか?
連還する記憶 ③
連還する記憶 ②では、生命記憶について、考察しました。
つまり、
生命体は、自分が壊れないように、また壊れかけても恢復できるように、生き抜くための記憶を、代々、長年にわたって蓄積伝達してきました。
また、ひと類が、宇宙の実像を未だ認知できないのとおなじように、ひと類の認知機能は、生命記憶の実像を、未だ認知することができないでいる事実についても、おはなししました。
それでは、二つ目の存在記憶というのは、どのような記憶なんでしょうか?
存在記憶
新たな生命は、お母さんのおなかの中にいる間に、胎盤を通して生命記憶を受け取ります。そして、生まれたときから、新しい生命の、存在の記憶が始まります。
一個の生命体は、生きている間に、自分の血肉に宿る数億年の生命記憶を、生きるために活用し、展開し、開発します。それを進化と呼びます。
そのために培われた記憶が、存在の記憶となります。存在の記憶は、いってみれば、進化の記憶なのです。
ところで、生命記憶をベースに蓄積された進化記憶は、元の生命記憶にフィードバックされるのでしょうか?
次回は、そのことについて、考えてみましょう。
連還する記憶 ④
連還する記憶 ③では、存在記憶について、考察しました。
つまり、
存在記憶
新たな生命は、お母さんのおなかの中にいる間に、胎盤を通して生命記憶を受け取る一方、生まれたときから、存在記憶の記録が始まります。
存在記憶は、血肉に宿る数億年の生命記憶を生きるために活用し、展開し、開発し、進化します。存在の記憶は、進化の記憶なのです。
ところで、生命記憶をベースに蓄積された進化記憶は、元の生命記憶にフィードバックされるのでしょうか?
生命記憶と存在記憶は、切っても切れない関係にあります。生命記憶は、生体内に張り巡らされた感覚網によって、存在記憶と繋がっています。
紅茶の香りをかいだ途端に、むかしの出来事を思い出す、といったことは、よくあることです。存在の記憶が、生命の記憶とリンクする瞬間です。そして、このリンクを可能にするのが感覚です。
ひと類はみな、この感覚を介して、生命記憶と存在記憶に繋がっています。嗅覚という生命記憶がなければ、紅茶にまつわる存在記憶を再生できないし、紅茶を味わったという存在記憶がなければ、匂いを嗅いだという生命記憶にもつながりません。
このように、生命と存在の記憶は、切っても切れない仲なのです。
ところが、最初から、生命記憶とリンクしない、存在記憶があるのです。それは、どういう記憶なのでしょうか。
ずばり、生命記憶とのプロトコールである感覚にアクセス権をもたない記憶が、それです。
この種の記憶は、存在記憶のひとつですが、感覚へのアクセス権がないので、生体の五感、六感、7感…にリンクをはることができません。なので、油断すると、紐の切れたタコのように、どこかへ飛んで行って、なくなってしまいます。
他人の存在記憶を自分のものにしようとしても、できません。自分の生命記憶と繋がっていないからです。
他人の考えを自分のものにしようとしても、できません。自分の生命記憶にアクセス権をもたず、リンクをはれない記憶ですから、自分が進化しても、その進化に同期できません。
ひと類は、常に進化しています。その進化に同期できない記憶は、ひと類と同じ時間を共有していません。
生命体は、常に進化しています。その進化に同期できない記憶は、生命体と同じ空間を共有していません。
生命体と同じ時間と空間を共有しない記憶とは、どういう記憶でしょうか?
もう、おわかりですね、それは観念の記憶、すなわち観念記憶です。
さて、ここまで三つの記憶について紹介しました。すなわち、
生命記憶、存在記憶、そして観念記憶の三つです。
次回は、三つ目の、観念記憶について、みていきましょう。
連還する記憶 ⑤
連還する記憶 ④では、生命記憶と存在記憶の他に、生命体と同じ時間と空間を共有しない記憶、すなわち、観念記憶について触れました。
今回は、その観念記憶について、考察を深めていきましょう。
生命記憶と存在記憶との関連で観念記憶を考察するまえに、観念記憶そのものについて、考えてみましょう。
観念は、もともとギリシャ語のイデアを指す日本語で、ヒトが、生まれながらに備えている知性を働かせる行為、知的行為の結果として得られる考えです。
この、生来の知的行為、いわゆるヒトの知能の働きには、どのようなものがあるのでしょうか? 代表的なものを、いくつか、挙げてみましょう。
まず認識です。ヒトが自分の対象を明確に把握する行為です。その結果として得られる成果は知識で、記憶の集積回路に保存されます。
保存された知識をもとに、事象や情報の評価、整理、取捨選択、決定など、知識の取り扱いと運用を行うのも、知能の働きです。
次に、推理、推論があります。ある事実をもとにして、まだ知られていない事柄をおしはかる行為です。結果として、前提から導き出された事柄、観念などを手にすることができます。
また、ヒトの知能の働きには、言葉の運用という作用があります。話す,聴く,読む,書く,聴いた言葉を繰り返す,などなど、母語の言語知識を駆使することで、日常的な言語活動を行うことができます。
ヒトの知能の究極の仕事としては、創造という成果が挙げられます。創作や発明、あるいは新しい考えの体系化など、それまでなかったものを産み出す働きがあります。
これら知的行為の成果に共通していえることは、明確に把握された未来の出来事や考え方であり、実際に起こったことではなく、記憶の集積回路に保存された観念的な知識の集合体、という事実です。
ただ、自然科学の研究において、知能の働きの一つ、推論によって導き出された仮説が、画期的な大発見につながることが、よくあります。
仮説は、実証されるまでは空論にすぎませんが、実証されると厳正な事実となり、定理となる場合もあります。ただ、実証されても、それを事実と認知せず、それどころか、空論として解釈させる対立概念を導き出すことができてしまうのも、知的行為がもつ能力の一つです。
いまだガリレオを嘘つきといい、ダーウィンの進化論を否定する知的行為も、観念の世界では可能です。このように、もし観念記憶が、自然科学の実証記憶やヒトの血肉と連還する生命記憶と没交渉であるかぎり、閉ざされた集積回路の内側だけで完結する記憶の集合体にすぎなくなってしまいます。
<閉ざされた集積回路内で完結する観念記憶>
人工知能を例にとってみましょう。
人工知能とは、適切で実現可能な手続き(アルゴリズム)と、豊富なデータ(事前情報や知識)を準備することで、これまで人間にしかできなかった知的な行為を、あたかもヒトが知能を働かせているように、機械を働かして成果を得るために開発された、人口の知能体系です。
この機械的な知能体系の核はメモリー、すなわち記憶です。記憶装置を備えた機械に、情報、知識、言語、運用方法などを入力し、記憶させ、それを演算させることにより、機械は、解を引き出し、結果を提示し、成果として記憶の集積回路に記憶を保存し、新たな入力情報としてフィードバックすることができます。
この入力・演算・集積・保存・フィードバックの繰り返しにより、人工知能はより大きく、より緻密に、より速く演算できるように進化しますが、観念記憶の演算集積回路内で完結する電源依存の知能体系にすぎないので、生命体であるヒトからみれば、不安定で脆弱である反面、危険な装置でもあります。なぜなら、身体や心の痛みを記憶することができないからです。
電源をきってしまえば動かなくなるので、根本的に脆弱な体系なのですが、予断をゆるさないのは、その危険性です。
たとえば、閉ざされた集積回路内で完結する観念記憶が、反生命体の観念論で展開されるとしたら、その悲劇的な結末は、想像にかたくないでしょう。まさに、ターミネーターIIが示唆する人類破滅の世界に突き進んでしまう恐れがあるからです。
それは人工知能固有の危険性であって、ヒトの知能にかぎってそのようなことはあり得ない、という考えもあるでしょう。
しかし、ヒトの知能にも、それに勝るとも劣らない脆弱性、潜在的で致命的な危険性が存在しているのです。
<開かれた集積回路で進化する観念記憶>
ヒトの知能は、生命記憶、存在記憶、観念記憶の連還回路で、三つの記憶がたえず疎通しあう、常に開かれ進化する知能体系を形成しています。
ところが、開かれた集積回路で進化するはずの観念記憶が、一瞬のうちに、閉ざされた集積回路内で完結する観念記憶に様変わりすることがあります。生命体と同じ時間と空間を共有しない記憶に変質してしまうのです。
なぜか?
観念記憶の集積回路を開く、閉じる、のどちらかを選択し決定するのは、知能体系を運用する主体である当の生命体、あなた、だからです。
もしあなたが、世の中の悪を正し、公平で正しい社会を招来するため、悪の根源である伝統的な差別社会を破壊するため、あなたの考える革命の遂行を選択し、なにを置いてもその成功に突き進まなければならないと決めた場合、あなたの考えは、生命と存在の記憶と没交渉とならざるをえず、観念記憶の閉鎖回路は、革命成就の観念のみに収束し、完結します。
そして、あなたは、あなたの革命という観念にそぐわないあらゆるひと、もの、すべてを破壊し抹殺することに、なんの疑問も抱かなくなります。なぜなら、生きようとする生命体の叫びも、生命体を護ろうとする存在記憶の警告も、生命体と没交渉のあなたに、聞こえるはずがないからです。こうして、あなたは、なんのためらいもなく、後悔もなく、恐怖もなく、ひとを、ものを、破壊し抹殺してしまうことになります。
観念は諸刃の刃です。ひとを援けると同時に殺しもします。その選択は、観念を造り出すヒト、あなたの知能そのものに、委ねられているのです。
あなたの観念記憶は、あなたの心や体と没交渉の、閉鎖回路でしょうか? それとも、心と体と常にインタラクティヴに連還する開かれた回路でしょうか?
今一度、あなたの観念記憶の集積回路を、見直してみてはいかがでしょう。
連還する記憶 ⑥
連還する記憶⑤では、生命記憶と存在記憶と同じ時間と空間を共有しない観念記憶の脆弱性と危険性について、考察しました。
生命体と時空を共有しない記憶、それは、生命と存在の、たえまなく繰り返される連還の有機的記憶の集積(歴史)へのアクセス権をもたない、閉鎖回路内で自己完結する、無機質の観念記憶です。
生命と存在に有機的に関わる記憶には、生命を否定し存在を脅かすものに抵抗し、排除しようとする免疫があります。
これに反し、生命と存在に有機的に関わらない無機質の観念記憶には、生命を否定し存在を脅かされた歴史(記憶の集積)もなく、実感もないので、生命を否定し存在を脅かすものに、そもそも無関心なわけです。
ですから、それに抵抗し、排除する意識も動機もなく、したがって免疫もありません。その結果、生命を否定し存在を脅かすもの(無機質の観念)は、無敵のまま、閉鎖ループの中で、際限なく増殖し、進化していきます。
このように、無機質の観念記憶とは、平たくいえば、ヒトの血肉や感覚、感情、心情、有機体の持つありとあらゆる特性を度外視し、認知せず、あるいは認知する機能を反知性として排除し、そのように選択した知能(恣意)の成果だけに目的を特化した、空理空論の歴史(観念記憶の集積)の集大成、といえるのではないでしょうか。
では、生命と存在に有機的に係わることのない、生命を否定し存在を脅かす無機質の観念記憶とは、具体的に、どういうもなのでしょうか。
連還する記憶 ⑤で触れたように、観念idéeは、もともとギリシャ語のイデアを指す言葉ですが、その中身としては、ヒトが、生まれながらに備えている知性を働かせる行為、知的行為の結果として得られる考え、例えば理念とか、理想とか、が挙げられます。
この知的行為の結果として得られる観念、たとえば理念を軸に、考察を進めていきましょう。
まず「理念」とは、物事がどうあるべきかの基本的な考えのことで、その考えのもと、ヒトは行動します。たとえば、日本国民は、日本国憲法の理念のもと、国民としてこうあるべきという考えにしたがい、行動します。
ヒトが理念を掲げるには、そのヒトが、まず、ある理想を抱き、それを実現し、実現した暁には、その状態をずっと維持しつづけたい、という欲求をもつことが、その動機となります。
まず理想というものがあり、その後に、理念が生まれるのです。となると、理想とはなにか、どこで、どういう理由で、生まれるのか、という疑問がわいてきます。
理想とは、それが最もよいと考えられる状態のことで、その状態になってほしいと思うものです。
つまり、ヒトが心に描き、理性によって考えることで生まれる、これ以上望みえない最も完全で最善の、まだ実現されていない目標、あるいは、そのような状態を指します。
そして、そのような理想を抱いたヒトが、それを実現するために手段や手順を考え、その理想的な状態を目指し、理想郷が依って立つところの基本的なな考えや規範を、ゆるぎないものとして整えようとします。それが理念となります。
ヒトは、一人では生きていけません。
自分の周りには必ず他人がいて、それと共に助け合って、生きていくように生まれついています。なぜなら、他人との助け合いがなければ、ホモサピエンスは、とっくの昔に絶滅していたでしょう。わたしたちが、たった今生きていること自体が、その証なのです。
ヒトは、生きるために他人を助け、他人の助けをうけるために、互いの合意のもとに寄りそい集まって、集団をつくります。この集団を形成する過程で、自分たちにどのような集団が相応しいか、ということについて、ヒトはいろいろ考え、話し合います。
あなたが、これがいいと提案した理想像に対し、いや、この方がいい、と違った像を提案する他人は必ずいます。十人集まれば十の、百人集まれば百の、千人集まれば千の考え、理想的な集団像が、提案されることになります。
こうして、ヒトは、それらの理想像を一つ一つ突合せ、比較検討し、より広範で包括的な、提案者すべての考えを反映した理想像に統合しようと努め、やがて、みなが理想とする共同体像が出来上がります。そして、それを実現し、維持し、持続するための意志や願望や決まり事、規範などを明確にした理念を構築します。
この理想の誕生と理念の構築プロセスは、ひとえにヒトだけに備わった知性の働きによるものです。
このプロセスによって培われ、保存、蓄積された諸々の観念記憶は、古代ギリシャに端を発し、啓蒙の時代を経て、ドイツ観念論から実存主義、さらに構造主義へとつながる、一貫したヒトの理性の歴史遺産として、現代に生きるわたしたちに至るまで、脈々と受け継がれています。
しかし、問題は、この理想の誕生と理念の構築プロセスに、生命を否定し存在を脅かすものに対してヒトが持つ免疫が係わっているかどうか、ということです。
もし係わっていなければ、無機質の観念として、記憶の閉鎖回路で自己増殖し、生命を否定し存在を脅かし、かつ、ヒトが構築する共同体を否定、攪乱、破壊を目論む観念記憶として、その反生存、反共同体性をいかんなく発揮することになるのではないでしょうか。
わたしたちの生存の記憶の蓄積には、生命を否定し存在を脅かすものに対する免疫が深く係わっていることに、疑いの余地はありません。また、共同体の存立を否定、錯乱、破壊するものに対する免疫も、深く係わっていることも事実です。わたしたちが共同体を形成し、そのなかで存在し、互いに尊重しあい、自由に生きようとする事実自体が、その証となるのです。
ヒトと他人は身の保全のために集団を形成します。
集団の中で、致命的な考えの相違により、生命を否定し存在を脅かす事態が発生しても、集団の理念がこれを検証し、裁定し、統合します。
集団と集団の間で、ヒトの致命的な対立が生じ、生命を否定し存在を脅かし、共同体の存立を否定、錯乱、破壊する事態が発生しても、各集団の理念を突合せ、検証し、すり合わせ、より広く包括的な理念を構築することで、新たな集団として統合・統一されていきます。
こうしてヒトは、長い殺戮と破壊の歴史の中で、生命を否定し存在を脅かし、共同体の存立を否定、錯乱、破壊する事態に直面し、驚き、悩み、考え、腐心し、頭を切り替え、知性を錬磨することにより、それらに対する免疫を獲得し、より広く包括的な統合・統一の理念の構築へと、辿りついていったのです。
それがなぜ可能であったのか。
理由は、明らかです。心、精神、知性、悟性、感覚、感性、有機体のもつありとあらゆる機能が、自由奔放に解放されていたからにほかなりません。自由な頭脳は、どのような事態に遭遇しても、自由に対応できます。なぜなら、知性の軸が無数にあるからです。ヒトは、いかようにでも、考えを変え適応することができる、多軸構造の頭脳に恵まれているのです。
<有機体の多軸構造>
ヒトは本来、多軸の生き物です。ある伝統武術の口訣に、一動百動無有不動、という言説があります。
ヒトの身体は、どこか一つ動けば、それに応じて全身が動き、動かないところは一つもない、ということです。ヒトに六十兆の細胞があるとすれば、六十兆の軸があり、一つの動作に応じて、細胞の一つ一つが六十兆の軸を介して連動し合う、有機的な構造に仕上がっているということです。
ヒトの生存も、まさに多軸構造にできています。二人の殺し合いは二軸ですが、止めに入れば三軸になり、さらになだめ、すかし、怒り、諭し…無数の軸が、殺人行為に介入します。そのおかげで、ヒトは自滅しなくてすんできたのです。
ヒトが形成する共同体も、この有機的な構造に仕上がってさえいれば、多軸構造の自由な知性の働きによって、存続を維持し多種多様な発展を獲得することができるはずなのです。
しかし、です。
近世になって、そうなるとは限らない事態が頻発しています。理想の誕生と理念の構築に、ヒトの心や感情、感覚、感性、有機体のもつありとあらゆる特性の自由なアクセスが、キャンセルされるという事態が、そこここで発生しているのです。
<唯物論の単軸性>
物を精神の上位に置くという考え方は、すでに古代ギリシャから受け継いだ、わたしたちの記憶遺産です。
すべての物は、ヒトの魂も含め、原子により構築されているという考えは、やがて、すべての物は科学で解決できるという考えにつながり、魂と同様に、ヒトの心や感覚、感情、ありとあらゆる有機体の特性も、科学の領域で取り扱えるという考えに辿りつきました。
この、すべての現象の解明に科学的根拠を与えることをよしとする理想は、やがて、物の側からしか現象を観ない、短軸思考による硬直した理念を構築せざるをえなくなっていきます。
限定不変の硬直した理想を実現すべく、限定不変の萎縮した理念のみを軸とするのはよしとしても、短軸で萎縮した回転翼の備えすらない貧相な一輪車で、この自由で広大な、多様な光と色彩に満ちた限りのない知性の宇宙を、いったい、どのようにして駆け巡ろうというのでしょうか?
連還する記憶 ⑦
観念を造り出す知性の働きから、理想の誕生と理念の構築という、認識能力を備えたヒトとして、象徴的な収穫物を得られることを確認しました。
<記憶の共有>
ヒトと他人は身の保全のために集団を形成します。集団の中で、致命的な考えの相違により、生命を否定し存在を脅かす事態が発生しても、集団の理念がこれを検証し、裁定し、統合します。
集団と集団の間で、ヒトの致命的な対立が生じ、生命を否定し存在を脅かし、共同体の存立を否定、錯乱、破壊する事態が発生しても、各集団の理念を突合せ、検証し、すり合わせ、より広く包括的な理念を構築することで、新たな集団として統合・統一されていきます。
こうしてヒトは、長い殺戮と破壊の歴史の中で、生命を否定し存在を脅かし、共同体の存立を否定、錯乱、破壊する事態に直面し、驚き、悩み、考え、腐心し、頭を切り替え、知性を錬磨することにより、それらに対する免疫を獲得し、より広く包括的な統合・統一の理念の構築へと、辿りついていったのです。
それがなぜ可能であったのか。
二つの可能性が考えられます。
<自由奔放な有機体の働き>
理由は、明らかです。心、精神、知性、悟性、感覚、感性、有機体のもつありとあらゆる機能が、自由奔放に解放されていたからにほかなりません。自由な頭脳は、どのような事態に遭遇しても、自由に対応できます。なぜなら、知性の軸が無数にあるからです。ヒトは、いかようにでも、考えを変え適応することができる、多軸構造の頭脳に恵まれているのです。
観念を造り出す知性の働きから、理想の誕生と理念の構築という、認識能力を備えたヒトとして、象徴的な収穫物を得られることを確認しました。
本来的に生き物であるヒトやヒトの集団は、自分が生存するに足る理想を造り出し、それを守り抜くべく理念を構築し、実践します。その過程で、ヒトは、生きるために実践するあらゆる行為を、生体に結びつく有機的な観念記憶として、自らの認知体系に保存し、生命記憶と存在記憶と常に連還させながら、さらに生きのびるために、記憶体系に蓄積し継承していきます。ホモサビエンスの七百万年は、こうして担保されてきました。
一方、自分だけが生存するに足る理想を造り出し、それを守り抜く理念を構築し、他を顧みない独善的な生を実践するヒトやヒトの集団が、同時に存在します。その実践課程で、自分以外のヒトや集団を生かさないよう行使する術策は、無機質で排他的な観念として、一旦は記憶体系に保存されますが、有機体である生命体と交渉を持てない無機質の行為ゆえに、生命記憶と存在記憶と連還するゲートウェイをもつことができず、いずれ分散し、消滅していきます。ヒトは、程度の差こそあれ、常時、この種の無機質の弊害に悩まされてきましたが、もとより有機体とは連還する窓口もなく、他者との接触すらままならない排他性に染め上げられているため、実体を伴う危害を与えるまでには至っておらず、ホモサビエンスの七百万年は、常に担保されてきました。
しかし、いま、この無機質集団の脅威は、徐々に増大しつつあります。生き続けようとする有機質集団を、徐々に浸食し、変質させようとしています。
自分だけが生存するに足る理想を造り出し、それを守り抜く理念を構築し、他を顧みず実践するヒトやヒトの集団は、なにを拠り所としているのでしょうか?
生命記憶と連還する存在記憶には、生命記憶と有機的に連還するものと、連還する振りをして生命記憶に潜入するが最終的に受容されない無機質機質の観念記憶が含まれています。この、一見生命記憶と連還できるように見えるが決して連還することのない無機質の観念記憶が、その拠り所であることにほかなりません。
<自由奔放な微生物の働き>
ヒトの体には百兆個を超える微生物(主に細菌)が存在するといわれています。人体を構成する細胞の数が約三十七兆個ですから、それより多くの微生物と生活していることになります。
それらの大半はヒトと共生関係にあり、通常、体に害を及ぼすことはありません。このような微生物を常在菌と呼びます。
常在菌は、膚や歯の表面、歯と歯ぐきの間、鼻や鼻腔、腸、腟の内側を覆う粘膜など、体外と通じている器官に存在し、病原菌の侵入を防いだり、消化を助けるなど人体にとって大事な役を担っています。
他方、健康な人の脳、心臓、腎臓などの臓器には微生物は入り込めないようになっていて、もちろん常在菌も存在しません。私たちの体は、微生物と共存する所と微生物の存在自体許さない所とがはっきり分けて管理されているのです。
常在菌はいつ、どこから人体にやってくるのでしょうか。
母親の子宮内は無菌状態であり、胎児もまた無菌です。従って、人と微生物との関係は出生時がスタートラインになります。
子供はまず産道で母親の常在菌と、続いて空気や食べ物(乳)、周囲の人との接触などを通じて多くの微生物と接していきます。それら微生物と人体が、戦ったり譲ったりの駆け引きを経て、定着した一部の微生物が常在菌になるのです。
常在菌の数や構成する種類は成長につれて安定していき、人と微生物が共に生きる一つの生物集合体ができあがります。それがヒトの体です。
大半の細菌は嫌気性菌です。生育に酸素を必要とせず、通常、病気を引き起こしません。腸内の消化を助けるなど、多くは有益な働きをします。
しかし、粘膜に損傷があるような場合、嫌気性細菌が病気を引き起こすことがあります。普段、細菌が入り込めない組織では、防御機構が備わっていないため、細菌が侵入します。その場合、細菌は近くの組織(副鼻腔、中耳、肺、脳、腹部、骨盤、皮膚など)に感染したり、血流に入って全身に広がったりします。時には、重篤な被害を及ぼすことがあります。
連還する記憶 ⑧
<人を宿主とする微生物>
このような働きをする微生物から、ヒトの体を見たとき、生息する糧を供給し、働く場所を提供してくれます、いわば宿主、と捉えることができるでしょう。ヒトは微生物の宿主になっています。
またべつの言い方をすれば、ヒトは微生物により生かされている、ということもできます。微生物には、ヒトを殺すのではなく、ヒトに生命を保持し運用させる働きがあるのです。その働きによって、ヒトを生かすと同時に、自分を生かす場所を担保しているのです。
また微生物は、自分が寄宿する宿主が属する共同体と連還しています。共同体に寄宿する微生物は、その共同体に固有の分布特性をもち、共同体の生成する文化の特性と時間に対応しながら、互いに連還しあっています。
たとえば、納豆文化に寄宿する微生物とチーズ文化に寄宿する微生物は、それぞれに異なる分布特性をもっていますが、双方の文化が交わることにより、時間がたてば、べつの新たな特性分布で連還しあい、べつの文化生成に貢献することになります。
子供が母親の産道で受け継ぐ常在菌は、母親の属する共同体の分布特性をもつ菌で、共同体と連還しています。この常在菌は、母親の生命記憶を子供に移転すると同時に、共同体で子供を生かすため、共同体の生命記憶と連還しながら、子供自らの生命記憶を育ませていきます。
こうして、母親の生命記憶と共同体の分布特性をもつ常在菌は、引き続き、空気や食べ物(乳)、周囲の人との接触などを通じて、他の多様な多くの微生物と接していくなかで、微生物と人体が戦ったり譲ったりの駆け引きを通じ、さらに一部の微生物を常在菌として定着させつつ、ヒトの生命記憶と連還していきます。
こうして、常在菌の数や構成する種類は成長につれ多様化しつつ安定していき、ヒトと微生物が共に生きる一つの生物集合体がヒトの体として出来上がります。そして、ヒトの体が存在記憶を蓄積していく過程で、ヒトは、その生命記憶と存在記憶と連還する常在菌との集合体として、ありつづけることになります。
こうして、母から子に、子から孫へと受け継がれる常在菌の寄宿する宿主であるヒトという種は、永続するのか、中断するのか、繁栄するのか、絶滅するのか、他に待ち受ける宿命があるのか、等々、いわゆる種の怪について明快にしていくことが、実は本文の肝なのです。
次回は、記憶のはなし本文の肝である種の怪について、ヒトの体の常在菌の分布特性の解析により解明する糸口が見つけられるのではないか、という可能性について考察してみたいとおもいます。
連還する記憶 ⑨
<種の怪>
生命誕生40億年、人類誕生700万年、以来、現在にいたるまで、どれだけの種が生成され絶滅してきたか、数多くの研究がなされています。とりわけ昨今、環境保護の観点から、絶滅危惧種のレッドリストを媒体に、ヒトによる環境破壊を主な原因とする言説が多く語られています。
絶滅に至らずとも、生成に不利な条件はいくつもあります。気候変動、捕食、生息環境の変容、地球温暖化、近親交配、外来種、等々、恣意的にCO2を戦犯扱いにする言説を除き、おおむね、ヒトがいくら泣こうが騒ごうが、人智のおよばない現象が介入することは否めません。
ところが、この種の環境問題の場合、ヒトの生存活動を主な原因とする傾向が強い。理由をいくつか挙げてみましょう。
ヒトによる収集やペット売買のための違法取引、ヒトによる森林破壊、密漁、繁殖地の開発、乱獲、水質汚染、生息地の開発・破壊、海洋開発・汚染、狩猟、森林開発、食肉用の捕獲、動物園利用、交通事故、農薬農薬、農業による餌減少、レジャー活動による妨害、大規模駆除、等々…。
せっかく生まれた種が、なぜ絶滅しなければならないのか? この種の生成と絶滅の奇々怪々の現象を、種の怪、と呼ぶことにします。なぜ怪なのか? なぜなら、多くの研究がなされているにもかかわらず、いまだ解明への確たるロードマップは提示されていないからです。
ここで、連還する記憶 ②で述べた生命記憶について復讐してみましょう。
生き物という有機体は、数十兆といわれる多くの細胞で、できています。そして、それぞれの細胞には、生類の誕生以来、蓄積継承してきた記憶があります。これを生命記憶と呼びます。
最近の研究で、細胞同士が、独自に情報を交換しあっていることが、わかってきました。細胞の一つ一つは、自分の記憶に刻まれた情報が、伝達媒体をとおして、ほかの細胞に伝えられ、自分たちが支えている生命体が壊れないように、作用しあうようにできています。
たとえば、ものを食べると、血糖値が上がりますが、上がりすぎると、生命体が壊れますので、膵臓からインスリンという物質を分泌し、骨格筋とか、脂肪組織などに、糖分を取り込むように働きかけて、血糖値を低下させるように作用します。
さて、ここで注目したいのは、細胞の一つ一つが、自分の記憶に刻まれた情報を、伝達媒体をとおして、ほかの細胞に伝えている、という最近の研究結果です。
この伝達媒体とはなんでしょうか? それがほかでもなく、微生物自身である、と仮説するのが本文の肝なのです。
<常在菌は情報伝達媒体>
たとえば、ものを食べると、血糖値が上がりますが、上がりすぎると、生命体が壊れますので、膵臓からインスリンという物質を分泌し、骨格筋とか、脂肪組織などに、糖分を取り込むように働きかけて、血糖値を低下させるように作用します。
このとき、血糖値の上昇を危機ととらえた常在菌は、膵臓にインスリンの分泌が必要である旨の情報を伝達し、骨格筋や脂肪組織に糖分をとりこめるように働きかけ、結果、血糖値を正常なレベルに戻すことができるのです。
こうしてヒトに寄宿する常在菌は、常在菌の宿主たるヒト、すなわち生命体が壊れないように、壊れても元に戻れるように、互いに情報を交換し伝達しあって、あらゆる生体機能の尋常な働きを助けているのです。
これはヒトに限ったことではないでしょう。あらゆる生物に寄宿する微生物は、この情報伝達媒体の役割を担い、生体機能の尋常なバランスを保つ働きをしています。なぜなら、自分が寄宿する宿主の生体には、つにね尋常な生命活動をづづけてもらわなければならないからです。
微生物自身がそれを望むかぎりにおいて。
連還する記憶 ⑩
<常在菌が働きつづける条件>
前回の考察で、ヒトに寄宿する常在菌は、自身がそれを望むかぎりにおいて、自分の宿主たるヒト、すなわち生命体が壊れないように、壊れても元に戻れるように、互いに情報を交換し伝達しあって、あらゆる生体機能の尋常な働きを助けている旨、説明しました。
ここで重要なのは、常在菌がそれを望むかぎりにおいて、という留保条件が設けらていることです。なぜでしょうか?
それは、つまり、逆も真なり、という論証が成立するか否かの試みです。
試みに、この留保条件が満たされなかった場合、つまり、常在菌が自分が寄宿する宿主であるヒトの生命体がこわれないように、壊れても元にもどれるように、互いに情報を交換し伝達することなく、あらゆる生体機能の尋常な働きを助けなくなる、ということになります。
試みの論証は成立することになります。常在菌の情報交換と伝達の働きがなければ宿主の生命体は維持できないことは、明白な事実だからです。とすれば、どのような状況であれば、常在菌が寄宿者としての働きを止めてしまうのでしょうか?
まず、宿主が宿主としての能力を果たせなくなった、という状況が考えられます。たとえば細胞の老化による組織の機能不全です。 これは、しかし、常在菌の情報伝達が細胞に伝わらなくなったためで、常在菌が働きを止めたのはなく働き続けているのです。
つぎに、宿主の抵抗力が減退し免疫力が低下した結果、寄宿する常在菌が血管や骨などの隔離されの領域に侵入し、宿主を化膿性脊椎炎などの疾病に罹患させてしまった状況が考えられます。 これも、疾病による細胞や組織の機能不全が、宿主が宿主としての能力をはたせなくなったためで、常在菌が働きを止めたわけではなく、つねに働き続けているのです。
では、常在菌が自ら働きを止めてしまう、宿主にとって致命的な状況とは、どのようなものなのでしょうか?
<環境とホルモン>
環境とホルモンの関係が久しく議論されています。ヒトの精神の健康、ひいてはその尋常な生存に深く関わってると考えられているからです。
一般に流布されている言説によれば、生活環境由来のストレスがヒトの精神健康に影響を及ぼし、心身ともに不調に陥いらせてしまう現象と説きます。そして環境を加害者、ヒトを被害者として、一方向の捉え方をします。
ヒトと環境は、この種の一方向の関係ではありません。ヒトは生命体として環境の一部を構成しており、環境に取り巻かれていると同時に、環境を取り巻いているからです。事実、良くも悪くもヒトは、その生成活動を通して、自然環境に影響を及ぼしているのです。
生態系全体からみれば、ヒトに限らず、あらゆる生命体と環境は相互に関与し、互いに依存し、継続して影響しあっているということができます。生命体も環境も、双方向の力、ストレス、が及ぼす影響の下に、共存しているのです。この相互影響の実態に深くかかわっているのがホルモンです。
<ホルモンの役割>
ホルモンは、体内にある特定の器官で合成・分泌され、血液など体液を通して体内を循環し、標的となる細胞で効果を発揮する生理活性物質です。
ホルモンが伝える情報は生体中の機能を発現させ、恒常性を維持するなど、生物の正常な状態を支え、都合よい状態にする重要な役割があるとされています。
生命体、特にヒトにつながる脊椎動物を例にとってみると、体外から体内に入る情報の中で、神経系に入る情報からは視床下部・下垂体・副腎髄質で、細胞の状態から入る情報からは性腺・副腎皮質・甲状腺濾胞細胞・心臓などで、また栄養に関わる情報からは消化管・膵臓・甲状腺濾胞傍細胞・副甲状腺などで、ホルモンが生成されます。
こうして体内に分泌されたホルモンは、体液を通じて適材適所に輸送されます。ホルモンが作用を発揮するには、その発揮場所ある標的器官(target organ)、実際に作用を発揮する標的細胞(target cell)があります。ここには、ホルモン分子に特異的に結合する蛋白質であるホルモン受容体(ホルモン・レセプター)が存在します。
この受容体がホルモンと結合することで、その器官でホルモンの作用が発揮されることになります。こうしてホルモンが伝える情報は、生体中の機能を発現させ、恒常性を維持するなど、生物の正常な状態を支え、都合よい状態にするための作用を発揮するのです。
<ホルモンと常在菌>
上述で確認されたように、ホルモンは、体内に入る情報を受けた分泌器官により生成され、その情報を標的器官と標的細胞に伝達し、生命体の尋常な状態を維持するように働きます。ホルモンは、生命体内を駆け巡る情報伝達物質なのです。
では、そもそも、ホルモン分泌器官に情報を伝達するものは何なのでしょうか?
前述のインスリンの分泌について想い起してください。食後に上昇する血糖値を抑え正常にもどすために膵臓からインスリンが分泌される生理作用ですが、ここで血糖値が上がる現象を監視し、その情報をホルモン分泌器官に伝達する伝達者こそ、微生物の常在菌なのです。
<常在菌と種の保存>
ヒトにつながる脊椎動物のヤマウサギを例にとってみましょう。
ヤマウサギは、多産動物なので、放っておくと、どんどん増えていきます。
もしヤマウサギが、限りなく増えていけば、どうなるでしょうか?
自然とは不思議なもので、やがて天敵となるヤマネコが現れます。構造的に診れば、生態系のバランスの維持、とでもいうのでしょうか。しかし、顕微鏡のようにミクロの視点で考察してみると、生態系を構築している数多くの種が、どのように生態系を維持しているのか、という別の切り口が明確になってきます。
ヤマウサギが増えます。限りなく増えようとします。すると、いつのまにかヤマネコが登場してきます。そして、ヤマウサギを捕食するヤマネコも増えてきます。
こうして両方とも、どんどん増え、限りなく増殖しようとしますが、ある極限に達すると、ヤマウサギの数が、少しずつ減少していきます。子供を二十匹生んでいたメスが、出産の数を減らし、三匹しか生まないようになります。激減です。
この状態が続くと、ヤマウサギは絶滅します。絶滅種です。ところが、ある程度減ったところで、今度はヤマネコの数が減少しはじめます。こうして、非捕食者が増えすぎると、捕食者が現れて、お互いに人口増加になると、お互いに、自制することを選びます。
種の怪の保存編です。
この現象が、環境ストレスとホルモンの影響によるものであることが、最近、分かりかけてきました。環境から来るストレスが、生命体のホルモン分泌に圧力をかけ、母親の胎盤を通じて、生まれてくる胎児に人口を減らせ、という信号を送りこむのです。
すると、生まれてきた子は、オスでもメスでも、子供を生まないようになります。こうして、種は、それぞれに、自身の種を保存していくのです。
しかし、この現象は、捕食者と非捕食者間で発生するストレスによるもので、ヒトには当てはまらないのではないでしょうか?
そうではありません。ヒトの種でもおなじなのです。
ヒトは、より貪欲に強くなろうとし、ヒトの集団を支配しようとします。しかし、強くなりすぎると、いくら奴隷に子を生ませても、自身の種自体が、生き残れなくなってきます。共食いです。
すると、強い集団に、人口を減らせ、というストレスが働き、胎盤を通じて子孫に不妊するようホルモン調節がなされることになります。その結果、強い集団は縮小し、弱い集団の規模が増大していくことになるのです。
こうして常在菌は、種の保存のため、寄宿者として宿主が尋常にその生成活動を継続できるように働きつづけるのです。ここまでは。
<常在菌と種の絶滅>
ヒト類のなかで、強い集団が増えすぎると、その人口を減らせというストレスが働き、常在菌の働きでホルモンが生成され、それが胎盤を通じて子孫に不妊の信号を送ります。その結果、強い集団は縮小し、弱い集団の規模が増大し、こうして、ヒト類は存続しつづけることができるのです。
ところが、ある集団の生成力が、その常在菌の分布特性が対応しきれなくなるほど勢いづき、ほかの集団の生成をはなはだしく阻害するような事態になると、常在菌の挙動は一気に変貌します。
自分以外の集団を喰い尽くすほど勢いのある最強集団に寄宿する常在菌は、ヒト類全体の種を保存するため、その人口を減らすホルモンの生成を促し、胎盤を通じて子孫に不妊するよう信号が送られます。
この際、最強集団に寄宿する常在菌は、ヒト類全体の種を保存するために、かつ、自らの存続を期してほかの宿主にのりかえるべく、現在の宿主たる最強集団から離脱しはじめます。
その結果は明らかです。最強集団は子孫を残すことなく絶滅し、危機を乗り越えたヒト類の他の種は、絶滅を逃れ存続しつづけることになります。
種の怪の絶滅編です。
ヒト類誕生700万年、どれだけのヒト種が絶滅していったでしょうか。考古学、地質学、自然人類学、等々、様々な分野で種の怪に掛かる専門研究がなされています。
いまだ多くの謎に包まれていますが、われわれヒト類の数多くある種のなかで、常在菌離脱による絶滅という運命を余儀なくされる種の集団が、今後、出てこないとも限りません。
その不幸な当事者とならないように、生きとし生けるものすべての生態系に、持続的かつ柔軟な関心を持ち続けること、それが、生態系の一部を構成するわたしたちヒトにとって、とても大切なことではないでしょうか。
別冊 記憶のはなし 完