【奇譚】赤の連還 15 赤い月
赤の連還 15 赤い月
直接、連絡してきたのは、アリ・アフメドだった。
「決まったぞ」
開口一番、かれはいった。オレはてっきり、トビ職人の措置かとおもった。
「そうか、で、いつに決まった?」
「来年の三月だ」
「来年!? ずいぶん遅いじゃないか」
「いや、そんなもんだよ、軍といっても、所詮はお役所だからね」
「しかし、来年の三月なんて、独立記念日から八か月も後じゃないか、なんでそんなに時間をかけるのかね、それに軍は関係ないだろ、警察の管轄じゃないのか」
「なにいってる、軍の人事に警察は無関係だよ」
「軍の人事?」
「そうだよ、本官のロンドン留学だよ」
そこで初めてオレは、誤解していたことに気づいた。
「あ、そのことか、オレはてっきり、トビ職人恩赦措置のはなしかとおもったのでね、すまん、すまん、そうか、やっと決まったか、よかったじゃないか、とにかく留学決定、おめでとう」
アリはケラケラと笑って謝意をのべると、少し意外な口調でいった。
「キミは、まだ、知らないのか?」
「なにを?」
「恩赦の件だよ」
「え!」
「三日まえに現場主任、あの柔道家宛てに、法務局から報告がいっているはずだ、まだ主任から連絡はないのか?」
「いや、なにも」
「確認したまえよ」
「ああ、もちろん、確認するが、恩赦の中身は?」
「キミたちが期待、というか、計画していたより好条件の結果が出ているよ」
「好条件?」
「起訴、判決、服役なして即追放、というわけだ」
「そりゃすごい、文句なしの結果だね、で、公判の目途は?」
「いずれにしろ略式だ、この九月末には追放処分になるだろう」
「もうすぐだ、急いで準備しなきゃ、しかし、なんでこんな重要なことを、すぐに連絡してくれないんだ、うちの主任は」
「マイノリティのサムライは辛抱、辛抱、頑張ってくれよ」
愚痴をいうオレを皮肉っぽく激励しながら、アリは電話を切った。
なぜ主任は連絡くれない。不機嫌になった。無性に腹が立った。引け際ギリギリだったが、急いで現場に電話し、単刀直入に抗議した。
「こんな重大なこと、どうしてすぐに、連絡してくれなかったんですか?」
しかし主任は、オレに輪をかけて不機嫌だった。
「連絡するもなにも、所長、瀬戸際だぞ」
一方的に不満を吐き出す。
「瀬戸際?」
「そうだ、所長も分かるだろ、おれたち、あのトビを、服役させないで、なんとか国外に脱出させようと、いろいろ計画し、それなりの努力もしてきたんじゃないか」
「そのとおりですよ、だから連隊長を巻きこむ案も生まれたし、結果、有力なコネも得られたんじゃないですか」
「たしかに、トビの特別措置という点では、有力にはたらいてくれたがね、しかし、同時に、だよ、こちらも結構でかいリスクを背負うことになってしまったじゃないか」
「砂漠化防止の揚水ポンプ、ですから、たしかにリスキーですよね、でも、努力の甲斐あって、というか、あと数か月もすれば、トビさんは晴れて国外追放処分、すくなくとも刑務所という地獄に行かずに、そのまま解放、ということになるわけだし、とにかく、砂漠化防止対策の初代プロジェクトでの指名入札、ですからね、これって、やっぱり、すごい戦果じゃないですか」
「それは、トビが生きててのハナシだよ」
「生きてて?…というと?」
「危ないんだよ」
「危ない?…」
オレは、娘のまえでよろよろ倒れ込む老人トビの醜態を、思いだした。
「父娘面会ミッションのときでしたかね、娘に会って気が緩んだのか、よろよろして、相当弱ってるな、て感じ、しましたけど」
「あれからもう二年だぜ、社長が来て面倒みてるからって、なんせ留置所が住処だ、もう限界だよ、幸い連隊長の計らいで、特別、恩情かけてもらってるけど、さ、それにも限度てもんがあるしさ」
「さっき、危ない、て、おっしゃってたけど、なにが?」
「はっきりって、いいかげん土台が朽ちかけてるんだよ、根が頑丈に出来てるもんだから、後先構わず極道してきたんだろうけど、いつまでも歳とらなきゃいいけどさ、人間だれしもそうはいかない、いつまでも若いヤツなんて、どこにもいないわけだからさ、だから、積年の無理が祟って、ついにお陀仏、てとこじゃないかな」
「そんな…つまり、生死が危ぶまれるほど悪い状態、ということですか?」
「はっきりいって、死にかけてんだよ」
「そんなに!」
「あと二か月もちゃ、いい方だな」
「そりゃ、ないっすよ、主任、特別措置までは頑張ってもらわなくちゃ、生きて出るのとお骨で出るのとじゃ、月とスッポンどころのハナシじゃない、交渉団の努力は徒労に帰しますよ」
「徒労どころか、返り討ちだよ」
「返り討ち?」
「生きて出られれば交渉団の任務は達成、加えて指名入札の特典も手に入る、逆に、死んじまったらどうなる?」
「お骨になって帰国、てことになりますね」
「交渉団の根幹はなんだった?」
「生還させる、でしたよね」
「つまり、交渉団の存在理由が根底からくずれるんだよ」
「でも、主任、社の将来という点からすれば、地元の有力者との繋がりが生まれ、日本の新規支援プロジェクトで実を結ぶ結果につながったわけですから」
「無駄じゃなかった、といいたいんだろ」
「はい、そのとおりですが、なにか?」
「現場の立場はどうなるんだ?」
「サハラ以南も視野に入れた事業計画も展開できるようになるわけだし、怪我の功名、というか、瓢箪から駒、というか」
「バカいうんじゃないぜ、所長、このおれはどうなるんだ、おれは殺人事件を防げなかった前科事業計画の能なし主任だ、この汚名にはどうにも我慢できない、だから、邦人の本国生還に起死回生を賭けようとおもったんだ、ところがどうだ、このままヤツが死んじまったら、無能どころか、あの縮れ毛の座長に輪をかけた、大ぼら吹きの狂言回しになっちまうじゃないか、これじゃあ、とても現場を任される主任の器、とはいえないね」
「だから、クビになっても仕方がない、瀬戸際なんだと、おっしゃりたいわけですか?」
「そうだ」
主任は確信をもって答えた。かなり自虐めいた妄想だと、オレはおもった。
「それはないですよ、主任、いくら殺人事件といったって、職人同士の痴情沙汰じゃないですか、主任とはなんの関係もありませんよ、かりに、段どりの手違いとか、進行の遅れとか、施工日程の見直しとか、持ち場間のせめぎ合いや責任上の軋轢とか、いろんな問題を采配するにあたって、ですよ、主任に業務上うなずける瑕疵があった、なんてことになれば、なるほどといえなくもないでしょうけど、娼婦を取り合ったあげくの殺人ですよ、主任、それが、あなたに、なんの責任があるっていうんですか」
いいながらオレは、主任の自虐妄想は、自身の救いを求める気持ちの現れに違いない、とおもった。
実際、私生活の箍を外して罪を犯したトビの生死が、技術を職能とする主任のキャリアに、疵をつけるとはおもわない。私情を抑えきれず、人の道を踏みはずした愚か者の性を、主任はおろか、どこのだれが請け負えるというのか。ただただ切なさだけがのこる。だから、殺されたトビのレイラへの想いに寄り添うことで、多少とも気が楽になり、人の心の片鱗でも垣間見ることができるのではと、考えたに違いない。
こうした主任の自虐志向は、当人の倫理観や価値基準が、その根元にあるものとおもわれる。それだけに、よしなにかの不都合が起こると想定しても、他人の援けを借りることなく、当人の心の拠り所と知性の采配によって、ごくあたりまえに、自己完結できるレベルのものだと、オレはおもった。
しかし、国際交流会のフィナーレを、レイラと共に演じきった団長はといえば、殺されたトビのレイラへの想いどころか、殺されたトビへの感謝の心を糧に、苦難に立ち向い果敢に再生していく健気な小女、という、幻想とも歌劇ともいえる思い入れの過ぎたレイラ像に、もっぱらとり憑かれていたようにみえた。
数日後、法務省に会見を求め、直接、担当官から特別措置法の適用により、9月末の公判、判決を経て国外追放処置とする旨の確証を得た。交渉団一行の査証は八月末で切れる。残り二週間ほどあったが、砂漠で無為に過ごす無駄を削るにしくはない。一行はそそくさとアルジェを後にした。
帰国後、砂漠化防止対策事業実施計画団と名を改め、9月中旬に再度アルジェ入りした。前回と同じ団員に加え、国内関連業者から井戸掘削と地質調査担当二名の派遣を受け、計五名の団構成で到着した。
今回も宿泊地はシディ・フレッジ、滞在はホテル・エルマナールに決めた。団長用に、二階西端の家族部屋を確保した。西側の広い窓から、ゼラルダの杜、紺碧の地中海、それらを二つに分けて延びる長大な白い砂浜が一望できる。前回、その幻想的な光景に魅了され、不用心に迷い込んでしまった記念すべき杜だ。あれから一か月も経っていない。覚えていないわけはないだろう。
「や、懐かしい眺めですね、杜も、海も、白浜も、いつみても美しい…」
案の定、鮮明に覚えてはいたものの、前回の失態を恥じるのか、ことさら情景の懐かしさを強調しようとした。しかしオレには、仕事上、釘を刺しておく必要があった。
「では明日、八時半出発、ということで迎えにきます、ただ、朝の散歩も結構ですけど、極力ロスをさけるため、ぜひ植生の群落調査は後日ということで」
「?…や、そういえば、そういうことが、ありましたねぇ、所長、その節は、どうも、ご迷惑、おかけしました、このとおり…」
不快な表情は一切みせなかったが、一矢を報いたかったのか、脱いだカーキのフェルト帽を鷲掴みにしたまま、何度も頭を下げていった。
「でも、今回は大丈夫、ご安心ください、時差対策も十分しましたし、ロープラダーも、しっかりと、用意しましたのでね」
「ロープラダー?」
「はい、クライマーがよく使う綱梯子ですよ、所長、ツナハシゴ」
「なんですか、それ?」
「植生の群落調査には、必須の道具、なんです」
「必須の道具? なにに、使うんですか?」
「巨樹とか巨木とか、高所に調べたいものがあれば、それを使って、登るんですよ」
「登る? どこへ?」
「たとえば、こんな、おーきな木が、あるとしましょうか」
かれは両手をおもいきり広げ、巨木を仰ぎ見る振りをして説明を始めた。
「ほら、マグレブの海側って、いまが新芽時ですよね、でしょう、ですから、でかい木があったりしたら、ですね、木の実の発芽状態や、寄生虫、害虫、捕食禽獣類の爪痕とか巣づくりの跡とか、見てみたい、調べてみたい対象が、こう、山とありましてね…」
やはり団長は、オレにとって、意表をつく人物だった。前回は、偶然街中で見つけたサボテンの赤い花に感動し、別段、恥じる風もなく、後生大事に胸ポケットに入れて持ち歩き、ことあるごとに取りだしては掌にのせ、愛しそうに眺めていた。今度はなにに心を奪われ、どんな振る舞いを見せてくれるのだろうか。
とにかく、この難波生まれのイタリア育ちには、奇矯な気持ちの揺れ幅に、どこか予断を許さないものがある。オペラ歌手でありながら、今後の成績次第では、アフリカ市場も統括する欧州事務所長の任にあるのだ。港で船を割るような真似だけはしてほしくない…理由もなくオレは、一抹の不安を感じていた。
それが、単なる不安ですませられない事態に事が運んでいこうとは、だれが予測できたろうか。
9月に入って早々、とにかく直近の事から片付けようと、まず大使館と連絡をとった。
有罪判決後の恩赦で邦人が国外追放処分ともなれば、出国時点で、国外犯としてどう処遇するか決めなければならない。出国機に乗せるまでは現地警察の所轄だが、問題はその後だ。機内の警備はどうするのか、帰国後は刑事犯として扱われ再度刑事裁判にかけられるのか、一連の費用はどうするのか、いろいろ決めなければならないことがある。
配属武官によると、搭乗以降の警備については、凶悪犯で逃亡等の恐れがある場合は公安の警備官2名以上を招集する、それ以外は民間の警備員2名の同伴とする、また帰国後は刑事犯として収監されるが、その後の処遇は法務省の判断に付される、とのことだった。
「ということは、また殺人犯として裁判を受ける、ということになりますかね?」
「必ずしもそうなるとは限りませんが、無罪放免とはいかないでしょうね」
「といいますと?」
「本件の場合、凶悪犯でもなさそうだし、特に当該犯の健康が相当重篤と考えられますので、略式起訴でなんらかの罰則が科せられる、ということになるのではないでしょうか」
「どんな罰則ですか?」
「それは分かりません」
「たとえば?」
「武官として、安易な予測は立てられません、警察庁の判断をお待ちください、それより」
「それより?」
「搭乗以降に発生する費用負担のことですが」
「なるほど、国が負担するのか、国外犯側が負担するか、どちらか、とうことですね」
「はい、本件の場合、雇用主がはっきりしてますし」
「もちろん、わが社の負担、ということになります」
オレは、社の確認を得ることなく、即答した。議論の余地はない。トビ職の犯した罪、雇い主がその責を負うのは当然のことだ。これで、国外犯の帰還にどう対処するかの方針は、ほぼ明らかになった。あくまで生還を前提としたものだが、少なくとも、公判日程等を含めた諸変更には、柔軟に対応できる。あとは雑念を払拭し、もっぱら入札交渉に専念するにしくはない。
交渉は、当初から、困難と見込まれていた。もとより支援枠と要請枠の調整が、この種の支援事業実施如何の肝になる。今回の場合、客先の要請次第で相当付加すことになるだろうが、これもみな予測ずみで、相応の覚悟はできているはずだった。
独立運動の最中に爆音で聴覚を失ったアブデルカデル・ベン・ムーハメドは、エルゴレア南部一帯に広がる広大な農園を経営し、いいにつけ悪いにつけ、戦前から民族解放戦線との太い繋がりを保ち、地元の大地主として、また戦後は砂漠化防止旅団総裁として、地域の政財界に君臨する大物だ。その大物の懐に入るきっかけを作ったのが、皮肉なことに、これから裁判を受けようという国外犯のトビ職人だった。
おもえば、人と人の出会いは不思議なものだ。オレがトビと出逢ったのは、七、八年前の、アトラス山系西袖の土漠に、通信基地を建設するプロジェクトの現場だった。コンクリート打設中の管理棟を囲んだ足場の地下足袋作業巡って、現地労務局ともめたことがあった。安全基準を満たしていないというのだ。
そこで地下足袋の安全性を証明すべく、トビ二人が選ばれた。今でもありありと思いだす。それは、突き抜けるような乾期の青空の下の、胸のすく午後のショーだった。赤いラガーと白の乗馬パンツ、それに黒の地下足袋をはいた二人の職人が、見事に作業の安全性を立証してみせたのだ。
そのなかの一人が、まぎれもなく、いま、殺人罪で国外追放されようとしている。屈強な体躯に気迫あふれる精悍な面構えは、もはやどこにもない。あるのはただ、弱り切った惨めで哀れで、実体の希薄な老人の姿だけだった。
その希薄な存在が、アブデルカデル・ベン・ムーハメド一族への人脈を切り開いてくれたのだ。友を殺し、雇用主を裏切り、社を貶めた張本人が、社運を託せる千載一隅のチャンスをもたらしてくれたのだ。
皮肉といえば皮肉な成り行きだ。この先、どう展開していくのか。人と人の関係は、多くの他の人との関係と交叉し、並行し、衝突し、複雑に絡み合い、揉み合っている。どう収束し、どんな結果をもたらすか、だれにも確とした予測はつけられない。
団長の場合も、実は、そうだった。ロープラダーとかという得体のしれない道具を持ちこんで、何をやらかそうというのか。オレは心配になった。だから毎週末木金の夕刻には、必ずホテル・エルマナールに様子見にいくことに決めていた。
一週目と二週目の終末は、もっぱら中庭のカフェテリアが気に入ったらしく、海側のパラソルの一つを陣取り、折りたたみ椅子に寝ころんでは、何本もハイネケンを口呑みしていた。一見して、余暇を楽しむ、なんの変哲もないバカンス客のひとり、といった風体だった。テクネゴ、コマネゴとも、まだまだ詳細を討議する段階にはきていない。仕事上のストレスも、さほど苦にならない毎日だったのだ。
ところが、三週目の週末あたりから、様子が違ってきた。木曜日の夕刻、いつもいるはずのテラスに、団長はいなかった。
オレは、さして驚かなかった。なぜかといえば、九月末に予定されていた公判が、実現しなかったのだ。政治がからんでいるのか、治安上の措置か、はたまた官僚機構の稼働率の問題か、理由のほどは分からない。公判自体が特別措置法に依拠している。相手国の判断に任せる以外にないのだ。はなから持ち札のない勝負を強いられたようなもの、団長の心理や言わずもがなで、だれしも追いつめられた気になってしまうのだ。
部屋に行ってみたが、いなかった。館内をぐるりと巡ってみたが、どこにもいなかった。気晴らしの散歩でもしているのだろうと、シディ・フレッジ港のリゾート施設群を探してみたが、夕日に映える港湾でも、旅行客で賑わうカフェでも、準備中のレストランでも、ブーティックの居並ぶショッピングモールでも、団長を見つけることはできなかった。白州の浜とゼラルダの杜が脳裏を過ったが、あえて気にしないように繕った。
翌金曜日の早朝、やはり気になったので、ホテルに電話を入れたが、団長はいなかった。
「まさか…」
オレは少々、不安になった。
「またゼラルダの杜に迷い込んだのか?…」
オレは食うものも喰わず、とにかく海岸沿いの国道を選んで、ホテルに向かった。
アルジェから国道十一号線に入り、海岸沿いを西に走れば、松の大樹が群生するリゾート地モレッティを経て、そのまま樹林の連なるゼラルダの杜に直行できる。もし団長が迷子になったとしても、樹林を貫通する道路を走っていれば、どこかで出くわす可能性はおおありだ。そうおもっての選択だった。
予測はピタリと当たった。
モレッティのリゾート地は、最大の戦後利得者FNLの特権を象徴する区域だった。独立以前に植民者の富豪が整備した別荘地を軍が撤収し、要人軍属の保養地として運用していた。民生重視のいま、特権階級を狙った破壊活動の的になりやすい施設でもある。治安当局の関心は、もっぱら周辺道路からの不穏分子の侵入を避けるため、重点警備地区として憲兵隊員が常時駐屯し、交通網を厳しく監視していた。
その日も、自動小銃で武装した憲兵隊員が数人、別荘地の樹林の手前数百メートルの国道に通行止めのバリケードを張り、待機していた。長年、アルジェとシディ・フレッジを行ったり来たりしているせいか、隊員のなかには、オレの顔を知るものもいた。みな将来有望な士官学校出の若者だった。通行止めは、一応、事故防止と安全運転のための速度違反取締という名目だが、実質、治安目的の検問だから気を付けろ、と教えてくれたのはかれらだった。
そのうちの一人が、窓越しに声をかけてきたのだ。
「よう、われらが友人ジャポネじゃないか、どうした、クルマ、変えたのか」
「ああ、事情があってね」
「まえはプジョーの405だったな、今度はトヨタのデカいランクルか」
「そうだ、このところ、エルゴレアに行ったり来たりしているものでね、405は疲れるし、アシにいまいち信頼がおけないんだよ」
「ところで、きのうの午後も、あちこち走っていたな」
さすがに監視は行届いている。
「派遣団のアテンドでね、忙しいんですよ」
「ホテルは?」
「エルマナールです、シディフレッジの」
そのとき、樹林の奥の方から、だれかの歌う声が聞こえてきた。朝の霞んだ静謐を、浜辺のさざ波が乱すように、それは伝わってくる。どこかで耳にした響きだった。
「あれは、オペラの一節じゃないのかな?」
「そうらしいね」
若い隊員が肩をしゃくった。
「らしいって?」
「ヘンなヤツでね、今朝がた、歌いながら樹林をうろついている奇妙なヤツがいたので、検問所に連行して尋問してるんだが、どうも人畜無害の旅行者らしいし、危険人物でもなさそうだから、放免することになるとおもうが、ね、しかし、奇妙なことに、尋問中でも、ああやって、しょっちゅう歌いだすんだよ」
「なに人なんですか?」
「ジャポネらしい」
「らしいって?」
「パスポート不所持でね、これが、また」
「きっとホテルに忘れてきたんでしょうね」
「本官もそうおもって、いまホテルに問い合わせているところだ」
「ひょっとして、それ、エルマナールでは?」
「そのとおりだが」
これで奇妙なヤツがだれかが分かった。
「そのひと、商用で来た、といってたでしょう」
「そう、サバク関連の重要な商談とか、いってたね」
「それ、そのジャポネ、わが社の社員です」
「会社員? 本人はオペラ歌手だといってるがね、砂漠になんの用があるのかね」
「エルゴレア一帯の砂漠化防止事業計画の入札交渉に来てるんです、かれは派遣団の団長なんですよ」
「ほー、きみの会社は、そんな重要な商談をオペラ歌手に任せるのかね?」
真顔で皮肉ったつもりが、目が笑っていた。実際、小銃を背後に背負い、警戒は解いたままだった。
「こっちに来いよ」
もう一人の、やはり若い細面の隊員が、首で合図をよこした。駐屯所に連れてってやるからついてこい、ということらしい。退屈しのぎにジャポネでも相手にするか、そう考えてのことだろう、きっと。
オレは路肩に車を止め、かれらに従った。
駐屯所は樹林の懐深いところにあった。さらに奥に、宮殿まがいの立派な建物がみえる。遠いはずの海から、白州に打ち寄せる波のざわめきが、伝わってくる。その音が、一層、樹林を静かに感じさせていた。団長の歌う歌劇の一節も、その静けさのなかで幾倍にも膨らみ、樹林全体に響き渡っていた。交流会のフィナーレで、レイラを見つめ心を込めて披露した、あの抒情豊かな旋律だった。
駐屯所の脇に警備隊員が出入りする詰め所があった。十坪ほどの敷地に設けられた木造の掘っ立て小屋で、みるからに仮設の建物然としている。板張りの外壁に小さな開口部があり、無造作に開けた観音開きの雨戸の隙間から、カヴァレリア・ルスティカーナの熱唱が漏れ聞こえてきた。
詰め所に入ったオレを見るなり、団長は歌うのを止め、大手を広げて喜んだ。
「や、所長、来てくれたんですね、よかった、よかった、一時は、どうなることかとおもいましたよ、こんな憲兵隊員に囲まれて、ねぇ、恐ろしくて、恐ろしくて…」
本気でいっているのか?
「そうですかぁ、そのわりには、オペラなど披露して、余裕じゃないですか、その実、ホントは、すごく楽しんでたんでしょ、団長」
「いや、いや、とんでもない、旅券おいてきちゃたから、自分がわるいので、仕方ないとしても、いくら日本人だっていっても、信用してくれないし、出張の目的を説明しても、言葉が通じなくて、お手上げだし、最終的に、オマエはなにものだ、なんて問い詰められたら、こっちだって、居直る以外ないじゃないですか、だから、オペラ歌手だ、て言ってやったんです、そしたら、これも信用してもらえなくて、ほんとにそうなら歌ってみろ、ていうもんで、それで、歌ったというわけなんですよ、所長、ほら、みなにいってやってください、わたしが日本人で、大事な商談に来てるんだって」
団長も、からかい半分で遊ばれていることを、よく分かっているようだ。
実際、世の中それほど危険ではなかった。自主独立と、揺るぎない主権国家建設のための窮乏政策であれば、大義は成り立つ。国民の大半は貧乏で辛い目にあっているが、だれも餓死するとはおもっていない。欲しいものは山とあるが、カネがあっても買うものがない。市場自体が貧弱なのだ。専制国家で秘密警察が暗躍しているわけでもない。みな、けっこう言いたいことを言っている。臨時政府が民生重視に傾いたとしても、国体のタガが外れるほど民衆に不満は鬱積していないし、分裂もしていない。原理主義が浸透するほど、分断の土壌はまだ醸成されていないのだ。
それにしても、この団長には振り回される。物事の先を読めないいいかげんさは、天性のものなのか、それとも、イタリア生活で育まれたものなのか。しかも、警戒を解きかけていた隊員たちに、いとも簡単に不審感を抱かせる素因につながっていたとは、人を見る目の養い方に、大きな参考になったと、いまでもおもっている。
不審の種は所持品だった。アディダスのショルダーバッグを調べると、観光客にありがちなカメラとか、スケッチブックとか、いろんな旅行グッズとはほど遠い、枯れ枝、木の実、松ぼっくり、そのほか色々と採取した植物の断片や石ころが見つかった。それだけならまだしも、中身を詳しく調べようと、バッグを逆さまにした途端、例のロープラダーなるものが、ボタリと目の前に落ちてきたのだ。
「なんだ、これは?」
手に取った隊員が、不審におもうのも無理はない。だれが見ても持ち運びできる便利な縄梯子だ。床に放り出して延ばしてみると、優に五メートルはある。その先端に、やはり五メートルはあるロープが結わえてあり、それに鉤が繋いであった。
「これ、防壁突破の戦術金具じゃないのか、え、ムッシュー、あなたはニンジャか?」
団長は、趣味の植生観察に必要な道具で、木に登って禽獣鳥類昆虫類との共生状況を調べるのに使うものだと懸命に説明したが、分かってもらえなかった。
オレは、ヤバイとおもった。一笑したふりをして団長を無視し、ジャポネ側の形勢挽回のため、エルゴレア一帯に影響力をもつ砂漠化防止旅団の総裁アブデルカデル・ベン・ムーハメドの名を出した。いざとなれば力になってくれるコネがある。そのことを、暗に知らせておきたかったからだ。
しかし、それは逆効果だった。
国道で最初に停車を求めた若い隊員が、唇に親指をあて、口を閉じろと合図しながら、オレにいった。
「みだりに要人の名を口にするな、本官は、あなたがたが何者か、よく知っている、なにしに来たかも、調べがついている、憲兵隊をあまくみるな、ただ、国内には、外国人を利用して利益をむさぼる集団がいる、あなたがたも狙われている、用心にこしたことはない、その連中に付け入るスキを与えないことだ、樹林の一人散歩はけっこうだが、持ち物には気を付けたまえ、盗まれるか、脅迫に悪用されるか、年々、被害者が増える傾向にある、政府が代わってから、原理主義の連中が騒ぎだした、いつ、なにが、どう狙われるか、予測もつかない、防壁突破の縄梯子など、もってのほかだ」
逐一、身に染みる忠告だった。団長も、めずらしく、米つきバッタのようにペコペコあたまを下げ、居あわせた隊員ひとりひとりにソーリー、ソーリーと謝罪してまわった。
この一件が、かれの内面にどう作用したのか、オレには分からない。ただ、肝心の事業計画にとって、プラスに働かなかったことは間違いなかった。
実際、いつも通り、週明けに旅団事務所に商談にいったところ、その週の商談すべてがキャンセルされたのだ。説明を求めたが、まともな回答は得られなかった。
考えもしなかった事態に、どうもあの奇行が原因らしい、などと、あらぬ想像をめぐらすひとも出てきた。いまおもえば、あながち根拠のない憶測でもなかった。元を正せば、オレの不用意な発言が原因だったのだ。モレッティ駐屯所の憲兵が指摘したように、みだりに要人の名を口にすべきではなかった。一罰百戒、先のことを考えればいま釘を刺しておくにしくはないと、先方も判断したのだろう。
押さば引き、引かば押せ、押さば斜めに、引かば回れ…久々に柔道の口訣、三船久蔵の名言をおもいだした。百五十万人もの命と引き換えに勝ちとった独立は、なんとしても護りぬかなければならない。そのためには、なにかにつけ敵のスキを見逃さず、最大限利用するに限る。オレは油断した。そのスキをついて官憲がお灸をすえてくれたのか。もしそうなら、アメリカのポチ、平和なジャポネ相手ならではの寛大な対応だったのだ。
商談予定をすべてキャンセルした先方の対応に、団長はかなり参ったようだった。
そもそも仕事の現場に植生調査なる趣味を持ちこむことなど、並みの勤め人が考えつくことではない。しかもその事実が、現に事業計画の進捗に悪影響を及ぼしている。交渉団を率いる団長としてなんたる醜態か、と非難されても仕方がない。そのことは本人も重々承知のはずだ。
一方、モスクワ帰りの地区連隊長を介して、その伯父である有力者との人脈を構築できたのも、かれのオペラ歌手としての教養がプラスにはたらいたからにほかならない。これが疑いのない事実であることも、承知のはずだ。
職能では失格だが、人脈では評価される。及第点には届かなかったが、ゲタを履いて進級した落第生みたいなものだ。どっちに転んでも職務上うなずける素性ではない。だが、事業計画は待ってくれないのだ。その進捗はかれの双肩にかかっている。あれもこれも承知の上で、なんとしても商談は進めていかねばならない。まとめなければならない。団長にかかるストレスは、想像を絶するものとおもわれた。
商談のない週日だったが、交渉団は事務所の一室に詰め、仕様書の検討に没頭した。承知済みとはいえ、先方から出た要請は、無理難題とはいかないまでも、国がらみの支援計画の経験からして、相当工夫を要する内容になっていたからだ。この分では、当分オレの出番はないだろう…そう考えたオレは、とりあえず気になる状況確認だけはしておこうと、週末、アリ・アフメドに電話を入れた。
「今週はヒマだった、なにしろアポが全部キャンセルされてしまってね」
いつものように、アリは冷静だった。
「ハナシは聞いている、あまり良いとはいえないがね」
「総裁の耳には?」
「いや、それはない、些末なことだ、わざわざ報せることでもない、忙しい方だからね」
「ボクがいけなかった、つい、油断しちまって」
「まあ、いいさ、軌道から逸れたわけじゃない、レールはちゃんと延びているよ」
「それなら、問題ないが」
「それより」
語調を変えてアリがいった。
「あのトビ職の具合は、どうなんだ?」
おもいもしない問いかけに、オレは戸惑った。
「具合って…その後、聞いてないが、なにか?」
「状態、良くないらしいぞ」
「健康状態ならまえからそうだが、他になにか?」
「独立記念の恩赦があってから、待遇改善があってね、看護人を一人つけたというが、知ってるか?」
「いや、現場主任から、なんの説明もないし、だが、それが本当なら、総裁の威力たるや、大変なものだね」
「総裁は誠意のひとだ、キミたちの誠意に応えよとしたまでだが、肝心のトビ職が、どうも」
「どうも?」
「ジュウドウカにはまだ伝えてないが、看護人は、看護はするが介護はごめんだ、といってきてるらしい」
「介護?」
「つまり、排泄もままならない状態らしいんだ」
「え?」
「アラブのオトコは他人の下の世話まではしない」
オレはしまったとおもった。弱っていることは知っていた。もっと密にフォローすべきだった。下の世話がいるほど悪いとは、考えもしなかった。もしそれが本当なら、ひょっとして寿命が尽きかけているのかもしれない。それこそ、主任が恐れていた事態、団長に手柄をとられたうえに、従業員を本国に生還させるという任務すら、全うできないことになる。主任の危惧は現実になろうとしているのだ。さて、万一の場合どうするのか、団長とも主任とも、よくよく話し合っておかなければならない。
「いつも貴重な情報、ありがとう、恩に着るよ」
アリに感謝の意を伝え、早々に電話を切った。
翌金曜日、国内唯一の国際標準設備を誇るホテル、エルオーラッシーにいった。常時満杯で、予約をとるのはほぼ不可能な観光インフラだったが、その分、整備の行きとどいたビジネスセンターや会議室の利用については、好意的に取り次ごうとする接客サービスは健在だった。また幸運にも、アルジェ事務所から徒歩でいけるほど近いところにあった。だから、時宜に応じて活用できる貴重な施設の一つでもあった。
そのビジネスセンターに団長を連れてゆき、遠隔会議用の通話装置を借り切って、週末の休暇を楽しむはずの現場主任を電話口に呼び出し、三者会談を強行しようと考えたのだ。
さいわい週末のせいか、正午から1時間、会議室に空きがあった。即、確保するや主任に電話で連絡、団長はエルマナールで拉致同然に確保、無事、三者会談を決行することができた。
受話器に接続したスピーカーから、不機嫌な現場主任の声が聞こえてくる。休日に呼び出されたことが、よほど不満らしい。団長はといえば、室内を歩き回り、よほど意外だったのか、壁付けの大型スクリーンや業務用ビデオモニター、天上にとり付けたOHPなどの先端事務機器に、目を丸くして見入っていた。
「団長には、いいにくいんですけどね」
事の成り行きに逐一、不満を並べ立てたあと、主任がしゃべりだした。
「団長には、もうひと働きも、ふた働きも、してもらわなくちゃ、こまるんですよね、なぜかといいますと、ですね、時間がないんですよ、時間が。あのトビさん、ね、もう逝きかけてんですよ、なんとか、生きながらえさせようと、社長さんが、ですね、まいにち、ほんと、毎日ですよ、三十キロ先の拘置所に、通ってるんですよ、なぜかといいますと、ですね、あの総裁が,ありがたいことに、恩情でつけてくれた看護人が、ですよ、もうイヤだ、ちゅうんですよ、ね、イヤだって、え、なんでだとおもいます、団長、あのトビさん、もう、まともに排泄もできない状態にまで、きてしまってるんですよね、ですから…」
憤懣やるかたない、という思いがつたわってくる。理解できないわけではないが、何度も耳にすると、不快な雑音にすぎない。
「主任、せっかくの休日に、こうして集まってもらっていますので、今後の対処方針を、具体的に話し合って、決めていきましょう」
オレは、与えられた一時間を、最大限有効に使いたかった。それには、まずおなじ認識の共有が欠かせない。単刀直入にオレは訊いた。
「今回の事態に対して、現場と交渉団は、社から、おなじ任務をまかされているとおもうのですが、いかがでしょう?」
「当然じゃないか」
主任が、あきれた口調で応えた。
「トビ職人を日本に生還させることだ、あたりまえだろう!」
「それだけではないと、おもい…」
注釈を入れようとした団長を遮って、かれは続けた。
「もちろんだ、それを機に、サハラ以南、さらにはアフリカ全土を視野にいれた新たな市場の開拓戦略を展開する、そういうことですよね、所長」
「で、主任は…」
オレは訊いた。掛け声はいい、その具体案を聞きたいのだ。
「どのように展開すればよいと?」
「それはだな、もう展開中じゃないか、旅団の要求を事業計画案にどうばらまくか、もっぱら技術的なアプローチが、当面、必要になるのは当然として、実際、団員が連日、机にかじりついて頭を絞ってるんだが、それも、それをせんがための苦労だろ、な、でもさ、おれ、正直いって、おもうんだけど、さ、実現性に乏しいハナシなんじゃないか、これって」
「ど、どういうことですか!」
オレは憤然としていった。まるでコネづくりの糸口を掴んだ団長へのいやみみたいじゃないか!
「いまごろ、なんですか、そんなこと、他に考えがあるなら、もっと早く、議論すべきだったでしょう!」
「いや、他に妙案がある、って分けじゃないんだ、ただ」
「ただ?」
「旅団ご所望の揚水設備が招くリスクだよ、所長!」
「リスク?」
団長が割って入った。
「どんなリスクですか?」
「いいですか、団長、あなたも、先の大洪水、体験ずみでしょう、あのせいで一旦帰国、交渉仕切り直しで、今回、再度いらしたわけでしょう」
「はい、そのとおりですが、あの時点で査証期限が迫っていましたし…」
「いや、そんな問題じゃないんですよ、あれで、旅団側の要求も、そうとう厳しいものになるんじゃないか、といってるんですよ」
「そうとうキビしい?」
「同じ揚水設備でも、ね、あの規模の洪水でも壊れないものにしてほしい、てことになるということですよ、団長!」
「はぁ、つまり、スペックの問題、ということに、なりますかね」
「つ、つまり、連中、ですね、い、いままで、なにも造ったことのない人たちなんですよ、ポンプ一つ造るのに、どれだけの頭脳と労力と技術が必要になるか、なんて、まるで分かってないし、考えもしないし、興味もない連中なんです、ですから、単純に、ですね、平気の平左で、ですね、もっといいものくれー、ていうことに、なってくるんですよ、それが、目に見えてるんです、それが、どんなに大変なことか、分かってないんですよ、団長」
オレはダメだとおもった。これでは対処方針のための意見交換どころか、現行事業計画の現場主任が新規プロジェクトの存立自体を問う審査会の様相をていしている。一時間はあっという間に過ぎた。
三者会談は収穫ゼロでおわった。感性の入り口も知性の出口も、まるで違う。あの二人が、合意のもとに、なにかを成し遂げることはありえない。
意思統一の会談は不発におわったが、こちらの不調を見透かしたように、翌週の会議から先方の圧力がましはじめた。揚水設備の技術仕様をいきなり上げてきたのだ。営業、技師、井戸掘削、地質調査の各担当は、どこまでネゴシロに織り込めるか、連日、机にかじりついた。
電卓にも技術資料にも、それほど親和性のない団長には、酷な時間だった。技術ファイルや製品カタログが忙しく捲られ、電卓ボタンが悲鳴を上げる。そのそばで、見積もり作業の緊迫した空気に煽られながら、かれは為す術もなく一日を過ごす。一矢を報いたい。が、なにか言おうにも思いつくことがない。虚勢を張ろうにも、身に付けるだけの箔がない。ゲタを履いてやっと進級した畑違いの落第生だ。詩や歌唱では歯がたたない。自分の無能ぶりに忌々しさがつのる。じりじりと浸食してくる劣等感に、団長は、日々、悩まされつづけた。
テクネゴ、コマネゴ双方とも見通しのたたないまま、十一月に入った。査証の有効期限は十二月中、残り一か月半しかない。急がねばならない。見積内容の精査に拍車がかかった。
月が変わって最初の水曜日の夕刻、ホテルに帰る車のなかで、団長が妙なことをいった。
「レイラと会ったんですよね」
オレは耳を疑った。
「えっ! だれと?」
「レイラですよ」
「レイラ! そんな…で、どこで?」
「きのう、シディ・フレッジ湾のレストランでメシでも食おうとおもって、ショッピングモールの前辺りを歩いていたら、後ろから、オンナのコが何人か、キャッキャッてはしゃぎながら、駆けてくるんですよ」
「よくやるんですよ、彼女たちは、外国人の気を惹くために、からかうんですよね」
「でしょ、だから、わたしも、からかわれついでに、こっちからもからかってやろうとおもって、振り向こうとしたんですよ」
「振り向こう…とした?」
「ええ、振り向こうとしたんですが、いきなり頭から花がいっぱい降ってきましてね」
「花が?」
「匂いからしてジャスミンですよ、どっかで摘んできたんでしょうね、それをわたしに吹っ掛けて、さも楽しそうに、ケタケタ笑って、わたしを追い抜いていったんですけど、その、追い抜く瞬間に、ですね、そう、三人いましたね、三人のオンナのコの真ん中にいたコが、レイラだとわかったんですよ」
「レイラ!?」
「ええ」
「でも、レイラって、どの…」
「もちろん、フィナーレで相手を務めてくれた踊り子のレイラですよ、連隊長の娘さんではありません」
「そりゃ、そうでしょう、あのエルゴレアのレイラさんが、シディ・フレッジにいるわけ、ないですものね」
「いや、それは分かりませんよ」
団長が車外を指さしていった。先日、挙動不審で捕まったリゾート施設のある松林にさしかかったところだった。
「ほら、それこそ連隊長一家で、あのモレッティの館に滞在してる、てこと、大いにあり得ることじゃないですか」
「なるほど」
「でも、わたしが、踊り子のレイラだって、確信したのはね」
団長は、車外を指した指を自分の眉間に向けると、いった。
「ここ、この辺りなんです」
「目…ですか?」
「というか、瞳というか、そうですね、視線、いや眼差し、でもないな、とにかく、目とか瞳とかマツゲとか眉毛とか、この辺りにまとまっている全体から発散される、どこか油断ならない、シャープな威力、とでもいうのかな」
「好奇心?」
「それもあるけど、それだけじゃなくて、こう…」
「猜疑心?」
「そうそう、まさにその二つですよ、うちのルーナや連隊長のレイラちゃんには、ただただ天真爛漫な心、みたいなものがあって、それがいつもキラキラ輝いているんですけど、あのレイラには、ね」
いかにもレイラが目の前にいるように、いった。
「もちろん、あの娘には、愛らしさもありますけど、それだけでは済まない、なんか、こう、予断を許さない猜疑心、みたいのものが、いつも背後に控えてて、それが、ほら、もともと彫が深いでしょう、だから、眉間の奥の方から、こう、ちょっと暗い雰囲気が、こちら側に漂ってくるんですよね」
聞きながらオレは、カスバで知り合ったばかりのレイラのことを思い浮かべていた。
小づくりであどけない、けれど、どこか猜疑の翳りが漂う小女だった。洗い晒しのそまつなワンピース、そこから適度に肉の巻いた腕や脚がのぞいていた。ピンクの花模様を散らした胴の上には、小さなムネが二つ、薄い白地の布を内側から元気よく、膨らませていた。
オレはレイラを安心させるため、ことあるごとに信頼のサインを送った。だが、小女の表情は硬く、そこから猜疑と警戒の陰が消えることはなかった。
そんなレイラも、大きくなるにつれ、鼻の線が鋭くなる反面、頬や顎、切れ長の目にいくぶん丸みが出て、少しずつ女らしくなっていった。
そこにオレは、自分の努力の成果をみとめた。相手の信頼を勝ち得たものとおもったのだ。
だが、眉間の奥の、黒水晶のような瞳に目を移すとき、背後に潜むかたくなな意志が顔をのぞかせ、好奇や猜疑、それに警戒の心と微妙に干渉しながら、栗色の長いまつげを通して、いつもこちらを窺っていることに、気づかされるのだった
いま団長は、あのころのオレと、似たような状態にある。
当時レイラは、祖母をなくし、悲嘆に暮れながらも気丈に働く健気な小女だった。その勇気に拍手を送り、奮闘する小さな生を愛しくおもった。世間というからくりの中で、荒々しい巨獣にいたぶられる生贄だった。虐待され蹂躪されながら、そのことにすら気づいていない。どうにも痛ましい無力な存在だった。だからオレは、保護者として、その境遇から救ってやりたいとおもったのだ。その実、心の底では、小さく可憐で無力な生き物を独り占めし、気の向くままに支配してやろうと、邪悪な狙いを定めていたにもかかわらず…。
耳が聴こえず、旅芸人一座に身を委ね、世間の波にもまれながら生きる踊り子レイラ、その不幸な境遇に深く同情し、気丈に振舞う健気な姿に幸あれと願う団長の気持ちは、手に取るように分かる。
だが、オレの場合とは、違っていた。
なによりもまず、団長には、実の娘ルーナへの愛欲があった。当然、倫理の壁に阻まれ、先へは進めない。悶々とするなか、突如、瓜二つの娘に出遭った。ベン・ムーハメド家の子女レイラだ。しかし、何度生まれ変わろうが手の届く相手ではない。禁断の果実を遠目に辛い毎日がつづく。そこに、生き写しの踊り子レイラが現れた。現実に、つのる愛欲の捌け口をみつけたのだ。
「ちょっと暗い雰囲気って、眉間の奥の方から漂ってくるアレのことですか」
「そうです、耳が聴こえない、たったそれだけで、いじめられて、つまはじきにされて、じっと我慢して、何度も死にたいって、おもって、大変なつらい思いを、してきたんでしょうね、きっと」
「世間は容赦しませんからね」
「それどころか、いい食い物にされてしまうんですよ」
「くいもの?」
「あの座長、ね、はやいはなし、体のいい女衒じゃないですか」
アリのいうとおりだった。軍の慰安所など、もともと存在しない。あるのは、軍に慰安サービスを提供する業者連中だ。かれらがどんな顔をしているのか、オレが知る由もない。なかには、あの茶髪のように、すんなりと、旅芸人一座を率いる座長、という体裁を整えているヤツもいるだろう。軍には重宝がられ座員には頼りがいのある元締めになるからだ。
「結局、そういうことに、なりますかね」
「野卑で無教養、利に聡くて鼻が利く、欲が深く物にこだわるが、情に抗いきれない軟なヤツ、てとこですかね」
「ずいぶん手厳しいですね」
「いや、褒めてるんですよ」
「褒めてる?」
「でなければ、レイラは生きのびてこられなかった、レイラがわたしの前に現れたのも、あの茶髪がいたおかげなんですよ、あの貪欲なお人よし、がね」
たしかにそうかもしれない。しかし、だからどうだというのだ。顰蹙を買った植生調査の代わりに、今度はまさか、踊り子レイラにのめり込んでいくわけじゃないだろうな…かつて団長に抱いたあらぬ不信感が、にわかに蘇ってきた。そして、どうにも拭いきれない先行きへの不安が、脳裏から離れることはなかった。
結局、その週末から、オレはまた、ホテル・エルマナールにかようようになった。要人監視とは大げさだが、とにかく団長には、二度と妙なヘマをやらかしてもらいたくなかったからだ。
ところが、木、金の二日間、どこを探しても団長はいなかった。フロントに直接、何度も確認したが、2208号室はいつも空だった。キーはというと、常時キーボックスに入ったまま、出し入れした形跡はない。この二日間、かれは一度も部屋から出ていないか、外出しても帰ってこなかった、ということになる。
「そんなバカな…」
不毛な人探しにまる一日費やした金曜日の夕刻、オレは、あきらめて帰ることにした。
「バカバカしい…」
なにをやらかすか分からないという理由で、良識ある社会人を朝から晩まで探しまわる、その愚かしさに嫌気がさした。
よし団長に不都合が起こっても、住環境のせいではない。シディ・フレッジはアルジェ1のリゾート地区だ。しかもホテルは超近代的、たしかに断水はするが、それも貧弱な治水行政が招く不都合だ。オレの知るところではない。商談がうまくまとまるかまとまらないかは、団員の技量に掛かっている。オレのせいでもなければ、出る幕でもない。交渉団を率いる団長のメンタルに問題があるとしても、それこそオレとは関係のないことだ。明日の朝、団長がフロントに現れようが現れまいが、オレの知ったことではない。
それでも九時近くまで、一杯気分の団長に出くわすこともあるだろうと、わずかな期待を胸に、湾岸の遊興施設を一回りしたが、むだだった。気はすすまなかったが、念のため、その日の要人監視業務の締めくくりに、ホテルのフロントまで足を運んだ。そして、その最後の一押しが、ことの真相に迫る第一歩になろうとは、思ってもみないことだった。
実際、ホテルのガラス扉を押しのけてなかに入ろうとしたとき、フロント数人と客室係りのヤシンが、激しく怒鳴り合っている声が聞こえてきた。見ると、フロントの一人が壁付けのカギ箱から取りだしたキーをヤシンの鼻先で振り振り、なにやら叫んでいる。ヤシンもそれに負けじと、やりかえしていた。どうも客室のドアキーの管理で双方に行き違いがあったらしい。気になる光景だ。何気ない風を装って近づいてみた。すると、フロントが振っているのが団長のいる2208号室のドアキーらしいことが分かった。オレは急に心配になった。
オレは即座に口論にわってはいった。
「なにかあったんですか? そのキー、2208号室のドアキーじゃないですか?」
「それが、なにか?」
フロントの一人がとぼけた顔でいった。不快な応対だった。オレはムッとした。
「なにかって、そのキー、まさにここ二日間、いくら探してもみつからない友人が借りている部屋のドアキーなんですよ」
「それが、なにか?」
相手は平然として、こちらの言うことを意に介さない態度だ。そばでヤシンも、肩をしゃくって知らぬ顔を決めこんでいる。なにか隠してると直感した。
「なにかって、おかしいとおもいませんか? そのドアキー、きのうから、ずっとボックスにおいたままですよ、いくら呼んでも部屋はからっぽだし、帰った形跡もなければ、シディ・フレッジ中探しまわっても、どこにもいないし、いったい本人はどこに消えてしまったんですかね、どうなんです、2208の住人は、ずっと出かけっぱなしなんですか?」
「へ、そんなこと、知りませんよ、知る分けないじゃないですか」
かれらは、あきれた顔で異口同音に、いった。
「お客さんがどこでなにしようが、わたしたちに関係ありませんよ、あるとすれば、ボックスにキーがあればお客さんはでかけている、なければ部屋に滞在中、その確認をするのが、わたしたち宿泊施設業が提供するサービスです、ただそれだけのことです」
「なあ、ヤシン」
憮然としてオレは訊いた。
「キミもそうおもうのか? キーのありなしを確認する、それだけがサービスの中身だと?」
「ていうよりも、あまり出入りを気にしすぎると、お客さんの方で見張られてるって感じに、なりませんか、まずいですよ、それって」
なるほど、サービスも度を超すとプライバシーの侵害になる、というわけか。一見、もっともらしい理屈だが、それで客人の安全が担保されるとはおもえない。
「なあヤシン、気持ちは分かるけど、客人の安全を考えると、どうなんだろう、サービスとして充分なのかね」
「お客さん、いいですか、ここにキーがあるということは、ですね」
いきなりフロントの一人が口を挟んできた。
「お客さんは外出中、ということなんですよ、ということは、つまり、ホテルの責任の範疇外、ということになりますよね」
「しかし、カギ箱にキーがあるからって、必ずしも外出中、てことにはならないんじゃないですか?」
オレは、刺激しないように、語調をよわめていった。
「キーがそこにあるからって、庭とか廊下とか食堂とか、施設内のどこかで、うろうろしてることだって、ありうることでしょう?」
「でも、部屋にいないことは、たしかですよね」
ヤシンが反論した。
「なあ、ヤシン」
オレはヤシンに照準を合わせ、説得にかかった。
「たとえば、こんな状況って、考えられないかな、つまり、客が部屋にいるときに、だれかがドアをノックする、客は、来訪の心当たりがないので、だれかな、と首をかしげる、が、放っておくわけにもいかない、そこで仕方なくドアを開ける、とたんに未知の来訪者が室内に押し入り、客の自由を奪い、拘束し、金品を奪って逃走する、その際も、抜け目なくドアキーは、ちゃんとフロントに返しておく…」
「ハハハ、ノン、ノン、ノン、ノン!」
ヤシンが嘲笑した。
「そんなこと、ありえない! ありえない! ムリ、ムリ、それこそお客さん、映画の見過ぎですよ!」
「そうかな、ありえないかな」
「ありえない」
「絶対に?」
「絶対に、ありえません!」
「ヤシン、キミは今日、遅番ではなかったのかな?」
「そうですよ、遅番です、さっき交代したばかりですが、なにか」
「フロントも、キミと同じ、遅番のひとたちではないのかな?」
「そうです、で、それが、なにか?」
「フロントもそうだけど、キミにしても、2208号室の住人が出かけるところ、たしかに見かけたのかなぁ?」
「見かけるわけ、ないじゃないですか」
かれらはまた異口同音に答えた。
「だって、早番のクルーと、さっき交代したばかりなんだから」
「だろう、ということは、だよ…」
これで、やっと今日の結果は出せる、とオレはおもった。
「2208号室の住人が、フロントにドアキーを置いてでかけるところを目撃したひとはだれもいない、ということだよね」
「ええ、ですから、さっきからいってるじゃないですか、ドアキーがここにあるということは、部屋にはだれもいない、ということなんですよ」
「ホテルの作業標準からすれば、そうなんだろうけど、ただ、客人の安全からすれば、かなり事件性のある事態だと、おもうんだけどね」
「事件性?」
「そう、さっきはなしたように、2208号室で押し込み強盗があって、客人は室内にとじこめられたままだ、という可能性のことなんだけどね」
「だから、それは、ミステリーの見過ぎだと、いってるじゃないですか」
「いや、ミステリーでもなんでも、関係者が不安におもっているのだから、その不安を取り除くのは、あなたがたホテル側の役目ではないでしょうか」 「不安を取り除く?…どうやって?」
「フロントの方でもヤシンでも、どちらかが、わたしを2208号室まで連れてってくださって、実際に室内にだれもいないことが確認できれば、それで事はすむんです、もし、それもできないとなると、こちらの不安は猜疑にかわるかもしれません、そしたら、ジェラルダにもモレッテイにも憲兵隊の駐屯所がありますから、残念ですが、そこへ行って頼むしかありませんねぇ」
ヤシンが大口あけてわめきだした。痛いところを突かれたらしい。一方、フロントは、肩をしゃくって嘲笑したが、反発はしなかった。逆に、昂るヤシンを制し、手にキーを握らせ、一緒に行って確認してくるように言い含めた。
がらんとしたタイル張りの通路を、ヤシンがブツブツいいながら行く。オレは後を追いながらおもった。もし部屋に団長がいたら、無事でよかったという結果は出る。しかし、だれがドアキーをフロントに預けたか、という疑問はのこる。
「なあ、ヤシン」
オレは、先をいく客室係に訊いた。
「さっきは、なにをモメてたのかな、あのフロントの連中と?」
「モメる?」
「ああ、そのキーを、こうやって、ぶらぶらさせて、みなで言い合ってたじゃない、なにがあったのかな?」
ヤシンは振り向きもせず、だまったまま歩き続けた。
「なあ、ヤシン」
オレはこだわった。
「ちょっと気になってたんだけど、たしか、スタウエリに合鍵屋が一軒、あったよね」
「アイカギヤ?」
はじめて示すヤシンの反応だった。
「そう、スペアキーを造ってくれる店みたいなとこ」
「ああ、そういえば、金物屋が一軒ありますけど、それがなにか?」
「そうか、いやね、ホテル客が、ね、そこへ行って自分が借りてる部屋の合鍵を造ってもらう、なんてこと、すごく簡単にできてしまうんじゃないかと、おもったりしてね」
「ムリ、ムリ、ムリ、ムリです、そんなこと!」
振りかえりざま、かれは端から否定した。さも自信ありげなその応対に、オレは違和感をおぼえた。
「おや、そんなにムリ、なんだ、でも、どうして?」
「セタンテルディ!セタンテルディ!セタンテルディ!」
かれはおなじ語句を三度、つよく繰りかえした。
「ほう、禁止なんだ、でも、どうして?」
「もちろん、個人が所有するキーなら、できますよ」
いいながら自分のズボンの左ポケットからホルダーにまとめた数個のキーを取り出した。
「これ、わたし個人のキーです、これは禁止じゃない、でも…」
今度は右手に持ったホテルのドアキーを、オレの鼻先に突き出していった。
「でも、ほら、これ、ホテルのドアキーですよ、ね、ちゃんとホテル名の入ったアクリル板のホルダーにつけてあるでしょう、それに、このリング、ステンレス製で溶接してあるんですよ、絶対外せない、だいたい共有施設のキーは、ホルダーから取りはずせないようにできてるんですよ、どこのだれかも分からない旅行者がやってきて、その合鍵を造りたいなんて頼んだら、なんの魂胆でそうするのか、一目瞭然じゃないですか、だから、できないようにしてあるんです、できません、禁止です! もし違反したら、その店、営業停止です!」
いうと、くるりと踵を返し、団長の部屋に急いだ。
2208号室のドアは冷たく閉じられていた。人が出入りした生の気配はどこにもなかった。これでサービスの行きとどいたホテルの客室といえるのか?…。
「なあ、ヤシン」
オレは訊いた。
「客室って、毎日、掃除するもんなんだろう?」
「もちろんですよ!」
かれはむきになっていった。
「まいにち、きまった時間に、掃除婦が、シーツをとりかえ、ベットをつくり、便器を洗浄し、浴槽を洗い、鏡をみがいて、タオルをとりかえ、それから部屋中をきれいに掃除して、働いてんですよ、お客さん、それがサービスってもんじゃ、ないんですか?」
「それにしては、温かみがないというか、人気がないというか、がらんとして、冷たくて、まるで空き家のまえに立ってるみたいに感じるんだけどね、ヤシン」
「だって、お客さん、いないんだから、仕方ないでしょう」
「そうかな、なら、開けてみてよ」
「まだ信用しないんですか!」
ヤシンは怒って、いかにもわざとらしく、ドアをどんどんと叩いた。
「お客さん! お客さん! なにかありましたか、お客さん!」
二階の廊下中に響き渡る大声だ。しかし、室内は、しんとしたまま、なんの気配もない。なにかがおかしい。フロントやヤシンの挙動、言動と実情が、文脈上、合っていないのだ。かれらによれば、2208号室の客は絶対いないはずだ。それを、なぜこうまで、執拗にたしかめようとする?…。
「なあ、ヤシン」
オレは疑念をぶつけた。
「客はいないんだろう、それとも、ひょっとして、いないことにしてくれって、だれかさんから頼まれでもしたのか、ヤシン?」
「そんなバカな、ありえませんよ!」
「なら、なんで、そんなに何回も呼ぶんだ、さっさと、開けてくれないか、開けろよ、ヤシン!」
オレは声を荒立てて要求した。
「チッ…」
ヤシンは腹立たし気にドアノブを握り、キーを差し込むと勢いよくドアを開けた。その瞬間、ガタンという音が館内に響き、辺りが真っ暗になった。停電だった。
時を置かず、一つ、また一つと客室のドアが開き、様子見の宿泊客たちが出てきた。タイル張りの床の上を、そろそろと、用心深く歩いている。やがて廊下はひとで埋まり、館内は、客たちの苦情で一杯になった。
「みなさん、大丈夫ですよ!」
ヤシンが叫んだ。
「いつものブレーカーです、すぐに修理します、安心してください!」
館内に響き渡る。
「いつもの?…」
そんなに頻繁に停電していたとは、オレも気づかなかった。断水は我慢できないが、たしかに停電はなんとかしのげる。その点、利用客もあきらめているのかもしれない。外観はモダンでも中身はポンコツ、簡易宿泊所の容量しかない電源とは、なんともお粗末なはなしだ。
オレはヤシンの背中を強くおした。
「はやく部屋の中、みてくれよ!」
照明のない2208号室は、やはり空だった。暗い空間に乱れたベットが一つ浮かんでいる。その上に白い斑点が散らばっているのが薄っすらと見えた。手に取ってみると、生暖かいジャスミンの香が匂った。路上で女たちから浴びせられた花弁を、そのまま大事に持ってかえったのだろうか。
「だれもいませんよ、もちろん、浴室も、シャワー室も、空っぽですよ」
ヤシンが、それ見た事か、といった口調でいった。
「なあ、ヤシン、掃除婦は何時にくるんだ?」
「仕事は9時からですよ、とにかく午前中には部屋はできてるはずです」 「とすると、だね、ベットが乱れてることからして、ここの住人は、今日の午後まで寝てたか、わざわざ寝に戻ったか、てことに、なるなあ、ヤシン」
ヤシンは肩をすくめ、かもしれない、と目をくりくりさせた。
結局、その日、団長を探しだせないまま、午後の十時ちかくにホテルを出た。外は明るかった。街灯と月明かりも意外と役にたつものだ。役に立たないのはうちの団長だけ、こんな調子で明日の朝、どの面下げて出てくるのか…オレは歯ぎしりしながら駐車場に向かった。
砂漠とアルジェを往復するのに現場から調達したランクルは、砂漠仕様の特装車で、吸気管に外出しのシュノーケルがついていた。その装置を指さして、三人の男が談笑している。よく見ると、掘削と地質担当の技師二人と、日本人学校の校長だった。近づくオレを見つけ、何度も手を振って合図をよこした。
「どうしたんですか、いま時間、こんなところで?」
怪訝そうに訊ねるオレに、校長が応えた。
「いえね、所長さん、昨日の夜、偶然、湾岸のレストランでミッションの方にお逢いしましてね、ちょうど今日、学校の遠足日でシュレアの山に行く計画を立ててたものですから、これはいい機会ですね、いかがですか、一緒にいらっしゃいませんか、とお誘いしたんですよ、そうしましたら、ぜひ、ということで」
「連れてってもらったんですよ、シュレアの山に」
地質担当が後を継いでいった。
「いやあ、シュレアっていいところですね、すっかり楽しませてもらいましたよ、なんせ、サクラ、あのサクラにそっくりな花のアーモンドの木が、そここに茂っていましてね」
「可愛いお子さんたちとかけっこしたり、一緒におにぎり食べたり、おかげさまで、今年は、二回も、楽しいいお花見、させていただきました、ほんとに校長先生、ありがとうございました!」
嬉々として掘削担当が礼を述べた。
そうか…迂闊といえば迂闊だった。団長のことばかり気にして他の団員の所在については、考えもしなかった。ひよっとしたら、団長や他の団員も一緒に、シュレアの遠足に参加していたのではないか…。
「じゃあ、団長や技師さんも、一緒に?…」
答えは否だった。加えて、他の三人とは休日にホテルで行動を共にしたことはない、ともいった。これではまともな意思疎通は成立しない。交渉団の実情を見せつけられた気がしたが、とにかく明日をまとうとおもった。よもや港で船を割るようなことはないだろう…。
週明けの翌日、八時にフロントで待った。十五分後、つるりと垢の剥けた顔で、団長が現れた。意外だった。なにがあったのか?
「団長、きのうは、どこかへ、いらしてたんですか?…」
オレは意に反して恐る恐る訊ねた。
「いや…」
他人事のようにかれは応じた。
「…でも、どうして?」
「実は、交渉の方が、だんだん、ややこしくなってきて、いくら経験豊富なローマ所長でも、きっと、ストレス、溜まってるんじゃないかと、ちょっと、心配になっていたものですから」
「いやいや、この種のストレスには、慣れてますから、ご心配にはおよびませんよ」
オレの皮肉をしれっと躱すと、団長は、車窓を過るモレッティの松林をながめた。かれのいる助手席から、不思議な充足感が伝わってくる。無能の長物としてついに居直ったか…と、オレはおもった。
「それなら結構なんです、とにかく、あと一か月しかありません、その間、実のある成果に手が届くよう頑張ります、なので、よろしくお願いいたします、団長」
「こちらこそ、よろしく、所長…」
樹林の照り返しが、団長の全身を、淡い緑色に染め上げていた。
法務省刑事局から電話が入ったのは、その日の夕刻だった。サハラの現場に連絡しようとしたが、回線が通じないので事務所に一報した、これをもって現場への正式通知に代えたい、という。また詳細勧告として、来週の週明け土曜日十時に公判を開き、被告人欠席裁判により殺人罪で有罪判決とし、諸般の自由により即国外追放処分とする、身元保証人を含む関係代理者は出席するように、とのことだった。
半年前の大洪水で壊滅状態に陥ったアトラス以南の通信状況に、まだ復旧の目途はたっていない。大方の民間企業は個別に衛星通信設備を備えている。いざというときの通信確保だ。わが社もサハラの現場には衛星通信アンテナを設置し、いつ何時でも地球規模の通信網を享受できるようになってはいるが、実際は緊急事態用だ。
現にアルジェ事務所には受信機が宛がわれていない。アトラス以北の地中海側に通信崩壊はありえないという判断がそうさるのだ。実際のところ、今回のような場合でも、事務所から通常回線で電話ないしテレックスで本社に連絡し、本社から衛星通信で現場に一報を入れる。このスキームで十分事態は乗り切ることは可能だ。オレはさっそく本社に緊急のテレックスを打った。
翌日曜日の昼近く、大使館から連絡が入った。
「例の高所作業者殺害犯の件ですが」
武官だった。
「法務省刑事局から公判日程と在留邦人の保護要請が届いているのですが、ご存じですね」
「はい」
有無を言わせぬ威圧感があった。
「委細、承知しておりまして、適切に対応すべく準備しております」
「公判には齟齬のないようにおねがいします」
「もちろんです、で、武官は?」
「公判に立ち会い、警察と合流の上、イミグレまで補導するように、との要請です」
「イミグレまで」
「そうです」
「こちらでは、いまのところ、拘置所から本国まで身元引受人一名の同行を予定しておりますが、さらに警護要員を見込んでおく必要はあるとお考えですか?」
「どうでしょう、なにしろご老体で衰弱しておられると聞いてますし、その件に関して、本省からは特に言及はありませんので、みなさんでお決めになったらいかがですか」
つまり、不必要ということだ。
「了解しました、とにかく、移送日程確定次第、即、連絡いたします」
同じ日の夕刻、本社経由で現場主任からの返答がテレックスで届いた。来週の週明け土曜日十時の公判廷に主任が被告代理として出廷する、当日判決が下り次第、執行機関の職権が発動する各種指令に基づき、トビ職派遣事業主を身元引受人として拘置所出所、アル国出国を経て本国帰還までの身柄の移送に随伴させる、以上の準備は万端手配済みにつき、緊急衛星回線用受話器を持参する、ひいては移動手段と宿泊の便宜お願いしたい、とのことだった。
「団長、やっと目途がたちましたね」
ホテルへの帰り道、助手席の団長に声をかけた。
「これでトビ職生還計画、一件落着ですよね、よかった、ほんとに」
団長も久々の笑顔をみせた。
「ほんと、よかったですね、これで一安心です、あとは入札交渉に集中できますね、目標達成に向けて攻めに攻めるのみ、ですね」
嬉しそうにいいながら、しかし、自身の任務は果たせたという気にでもなったのか、安堵の色濃いため息を一つ、ついた。
そんな団長に、オレは、発破をかける必要があるとおもった。
「一歩前進で、これからひとも増えますので、運転手一人、雇いました、アブダッラという若い運ちゃんです、明日から、かれがいつもの時間に迎えにいきます、クルマはこれ、このランクルです、団長には交渉成立まで、派遣団の専用車として、ご自由に使ってくださってけっこうです、アブダッラですけど、かれ、片言の英語は話せます、基本的に団員の送迎、移動が仕事になります、でも、なんとかとなんとかは使いようで切れる、とかいいますよね、なので、多少の使い走りくらいはOKしてくれるでしょう、気が乗ればのはなしですが、で、わたしたち現場の方は、事務所の総務管理用の小型車プジョー四○四をつかいます、主任はわたしが運びますので、ご心配なく、いずれにしても、お互い、連絡は密にしておく必要がありますので、なんでもけっこうです、いつでもわたしにいってください、手配いたしますので、では今後とも、よろしくおねがいします」
これで、現行のサハラ事業計画と、新規の砂漠化防止計画入札交渉団との間に、業務範囲の線引きができた。あとは、互いに煩わせることなく、それぞれ独自の采配で動けばいいだろう。
交渉団と距離をおき、もっぱら事務管理の残務整理に時間をついやした週末、エルゴレアの現場主任がアルジェ入りした。空港で迎えの車に乗り込んできた主任は、強敵を打ち破ったばかりの柔道家の熱と自信にあふれていた。
「お元気そうですね!」
意外におもってオレはいった。
「連絡、遅くなって、怒鳴られるかとおもってたんですよ」
「そんなこと、するかよ、このオレが!」
いかにも嬉しそうに、かれは応えた。
赤の連還 15 赤い月 更新18 つづく
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