連還する記憶 ⑩
連還する記憶 ⑩
<常在菌が働きつづける条件>
前回の考察で、ヒトに寄宿する常在菌は、自身がそれを望むかぎりにおいて、自分の宿主たるヒト、すなわち生命体が壊れないように、壊れても元に戻れるように、互いに情報を交換し伝達しあって、あらゆる生体機能の尋常な働きを助けている旨、説明しました。
ここで重要なのは、常在菌がそれを望むかぎりにおいて、という留保条件が設けらていることです。なぜでしょうか?
それは、つまり、逆も真なり、という論証が成立するか否かの試みです。
試みに、この留保条件が満たされなかった場合、つまり、常在菌が自分が寄宿する宿主であるヒトの生命体がこわれないように、壊れても元にもどれるように、互いに情報を交換し伝達することなく、あらゆる生体機能の尋常な働きを助けなくなる、ということになります。
試みの論証は成立することになります。常在菌の情報交換と伝達の働きがなければ宿主の生命体は維持できないことは、明白な事実だからです。とすれば、どのような状況であれば、常在菌が寄宿者としての働きを止めてしまうのでしょうか?
まず、宿主が宿主としての能力を果たせなくなった、という状況が考えられます。たとえば細胞の老化による組織の機能不全です。 これは、しかし、常在菌の情報伝達が細胞に伝わらなくなったためで、常在菌が働きを止めたのはなく働き続けているのです。
つぎに、宿主の抵抗力が減退し免疫力が低下した結果、寄宿する常在菌が血管や骨などの隔離されの領域に侵入し、宿主を化膿性脊椎炎などの疾病に罹患させてしまった状況が考えられます。 これも、疾病による細胞や組織の機能不全が、宿主が宿主としての能力をはたせなくなったためで、常在菌が働きを止めたわけではなく、つねに働き続けているのです。
では、常在菌が自ら働きを止めてしまう、宿主にとって致命的な状況とは、どのようなものなのでしょうか?
<環境とホルモン>
環境とホルモンの関係が久しく議論されています。ヒトの精神の健康、ひいてはその尋常な生存に深く関わってると考えられているからです。
一般に流布されている言説によれば、生活環境由来のストレスがヒトの精神健康に影響を及ぼし、心身ともに不調に陥いらせてしまう現象と説きます。そして環境を加害者、ヒトを被害者として、一方向の捉え方をします。
ヒトと環境は、この種の一方向の関係ではありません。ヒトは生命体として環境の一部を構成しており、環境に取り巻かれていると同時に、環境を取り巻いているからです。事実、良くも悪くもヒトは、その生成活動を通して、自然環境に影響を及ぼしているのです。
生態系全体からみれば、ヒトに限らず、あらゆる生命体と環境は相互に関与し、互いに依存し、継続して影響しあっているということができます。生命体も環境も、双方向の力、ストレス、が及ぼす影響の下に、共存しているのです。この相互影響の実態に深くかかわっているのがホルモンです。
<ホルモンの役割>
ホルモンは、体内にある特定の器官で合成・分泌され、血液など体液を通して体内を循環し、標的となる細胞で効果を発揮する生理活性物質です。
ホルモンが伝える情報は生体中の機能を発現させ、恒常性を維持するなど、生物の正常な状態を支え、都合よい状態にする重要な役割があるとされています。
生命体、特にヒトにつながる脊椎動物を例にとってみると、体外から体内に入る情報の中で、神経系に入る情報からは視床下部・下垂体・副腎髄質で、細胞の状態から入る情報からは性腺・副腎皮質・甲状腺濾胞細胞・心臓などで、また栄養に関わる情報からは消化管・膵臓・甲状腺濾胞傍細胞・副甲状腺などで、ホルモンが生成されます。
こうして体内に分泌されたホルモンは、体液を通じて適材適所に輸送されます。ホルモンが作用を発揮するには、その発揮場所ある標的器官(target organ)、実際に作用を発揮する標的細胞(target cell)があります。ここには、ホルモン分子に特異的に結合する蛋白質であるホルモン受容体(ホルモン・レセプター)が存在します。
この受容体がホルモンと結合することで、その器官でホルモンの作用が発揮されることになります。こうしてホルモンが伝える情報は、生体中の機能を発現させ、恒常性を維持するなど、生物の正常な状態を支え、都合よい状態にするための作用を発揮するのです。
<ホルモンと常在菌>
上述で確認されたように、ホルモンは、体内に入る情報を受けた分泌器官により生成され、その情報を標的器官と標的細胞に伝達し、生命体の尋常な状態を維持するように働きます。ホルモンは、生命体内を駆け巡る情報伝達物質なのです。
では、そもそも、ホルモン分泌器官に情報を伝達するものは何なのでしょうか?
前述のインスリンの分泌について想い起してください。食後に上昇する血糖値を抑え正常にもどすために膵臓からインスリンが分泌される生理作用ですが、ここで血糖値が上がる現象を監視し、その情報をホルモン分泌器官に伝達する伝達者こそ、微生物の常在菌なのです。
<常在菌と種の保存>
ヒトにつながる脊椎動物のヤマウサギを例にとってみましょう。
ヤマウサギは、多産動物なので、放っておくと、どんどん増えていきます。
もしヤマウサギが、限りなく増えていけば、どうなるでしょうか?
自然とは不思議なもので、やがて天敵となるヤマネコが現れます。構造的に診れば、生態系のバランスの維持、とでもいうのでしょうか。しかし、顕微鏡のようにミクロの視点で考察してみると、生態系を構築している数多くの種が、どのように生態系を維持しているのか、という別の切り口が明確になってきます。
ヤマウサギが増えます。限りなく増えようとします。すると、いつのまにかヤマネコが登場してきます。そして、ヤマウサギを捕食するヤマネコも増えてきます。
こうして両方とも、どんどん増え、限りなく増殖しようとしますが、ある極限に達すると、ヤマウサギの数が、少しずつ減少していきます。子供を二十匹生んでいたメスが、出産の数を減らし、三匹しか生まないようになります。激減です。
この状態が続くと、ヤマウサギは絶滅します。絶滅種です。ところが、ある程度減ったところで、今度はヤマネコの数が減少しはじめます。こうして、非捕食者が増えすぎると、捕食者が現れて、お互いに人口増加になると、お互いに、自制することを選びます。
種の怪の保存編です。
この現象が、環境ストレスとホルモンの影響によるものであることが、最近、分かりかけてきました。環境から来るストレスが、生命体のホルモン分泌に圧力をかけ、母親の胎盤を通じて、生まれてくる胎児に人口を減らせ、という信号を送りこむのです。
すると、生まれてきた子は、オスでもメスでも、子供を生まないようになります。こうして、種は、それぞれに、自身の種を保存していくのです。
しかし、この現象は、捕食者と非捕食者間で発生するストレスによるもので、ヒトには当てはまらないのではないでしょうか?
そうではありません。ヒトの種でもおなじなのです。
ヒトは、より貪欲に強くなろうとし、ヒトの集団を支配しようとします。しかし、強くなりすぎると、いくら奴隷に子を生ませても、自身の種自体が、生き残れなくなってきます。共食いです。
すると、強い集団に、人口を減らせ、というストレスが働き、胎盤を通じて子孫に不妊するようホルモン調節がなされることになります。その結果、強い集団は縮小し、弱い集団の規模が増大していくことになるのです。
こうして常在菌は、種の保存のため、寄宿者として宿主が尋常にその生成活動を継続できるように働きつづけるのです。ここまでは。
<常在菌と種の絶滅>
ヒト類のなかで、強い集団が増えすぎると、その人口を減らせというストレスが働き、常在菌の働きでホルモンが生成され、それが胎盤を通じて子孫に不妊の信号を送ります。その結果、強い集団は縮小し、弱い集団の規模が増大し、こうして、ヒト類は存続しつづけることができるのです。
ところが、ある集団の生成力が、その常在菌の分布特性が対応しきれなくなるほど勢いづき、ほかの集団の生成をはなはだしく阻害するような事態になると、常在菌の挙動は一気に変貌します。
自分以外の集団を喰い尽くすほど勢いのある最強集団に寄宿する常在菌は、ヒト類全体の種を保存するため、その人口を減らすホルモンの生成を促し、胎盤を通じて子孫に不妊するよう信号が送られます。
この際、最強集団に寄宿する常在菌は、ヒト類全体の種を保存するために、かつ、自らの存続を期してほかの宿主にのりかえるべく、現在の宿主たる最強集団から離脱しはじめます。
その結果は明らかです。最強集団は子孫を残すことなく絶滅し、危機を乗り越えたヒト類の他の種は、絶滅を逃れ存続しつづけることになります。
種の怪の絶滅編です。
ヒト類誕生700万年、どれだけのヒト種が絶滅していったでしょうか。考古学、地質学、自然人類学、等々、様々な分野で種の怪に掛かる専門研究がなされています。
いまだ多くの謎に包まれていますが、われわれヒト類の数多くある種のなかで、常在菌離脱による絶滅という運命を余儀なくされる種の集団が、今後、出てこないとも限りません。
その不幸な当事者とならないように、生きとし生けるものすべての生態系に、持続的かつ柔軟な関心を持ち続けること、それが、生態系の一部を構成するわたしたちヒトにとって、とても大切なことではないでしょうか。(完)