『名もなき77億のあた詩たちへ』
⑬ 鉄腕アトムに青空デコトラ。ああ上野駅
この合間に、高田の馬場駅に停車して、この青空デコトラ山手線が再び走り出したことはあたしの感受器が機械的に『鉄腕アトム』の発車メロディにてにて星の彼方的なfeelingで理解したのですが、でするるが、まだあたしは、やり残したことがある、きっとある、と生きてるか死んでるかも不明であった男装のあたしの知覚ノイロン細胞たちがわっさー蠢き出し、内的ななにかがあたしという肉体の機構/しくみから一方向へと突破し始めたのでございます。
空をこえて ラララ
(なかなか空も夢もこえられないけども)
耳をすませ ラララ
目をみはれ
ゆだんをするな
心ただしい ラララ
(ラララなかなか心正しくあれないけどもららら)
町かどに ラララ
海のそこに
人間まもって
科学のこども
……ららら ららら ららら ららら、原子力がエネルギーだけれどもも、あたしたち人間と同し感情やエスプリの振動や脱皮や自由詩を併せ持つ『ASTRO BOY』のお歌、谷川俊太郎さんが作詞なすったもう過去となった2000年へと、かつての少年たちが託した希望の総意のお歌をららら麻痺を揺り動かされる山手線の中で謡いなーがーらー、あたし、この肉体と意識の自然の帳(とばり)の応答アクションの律動に今まで逸してきてしまった偲びと忍びにゾゾゾっとしたのですが、谷川さんがかつて『ASTRO BOY』の中で綴ったお言葉ののヴィジオンのイマージュ、その映し出された現在の日本や科学のぽわぽわした何かによって、「目」がパッチリン解放された気もして、その直中へと飛び込むことに決め申したのです。
その直中/只中とは、一体どこなのだらう、何なのだらう、と考え申そうとする前に、その直中はこの青空山手線&泳ぎを知らない東京遊泳者たるあたし共々、幾度も瀕死状態に陥ってきたあたしのさえのない人生のやうに、哀しいからといって身を、実を、流してはいけない、忘れた頁(ペエジ)のまましてはならないよ、という強い思いと、あたしの心臓のドッキン・ドッキン・ドッキンチョの鼓動と、山手線の連結部分の機械の収縮と拡張とが合わさり、思想と詩が習慣に抗って泳ぐことを提案しもうしたのです。一体となったあたしと青空デコトラ山手線と乗客の男性韻も女性韻も、折句/アクロスティッシュの前知覚的な心径の感覚地の遊戯に身を任せ、アトムによってある種ひらかれた「目」、視覚、■の中で△的な光/リュミエールとなり具現化されあらわれたのでございまふるる。
あたしたちの網膜にはボヤボヤと七色/クールールの虹が作用として写りこみ、それはおそらく山手線詩に〈光の着色/コロラシオン・リュミエール〉がなされ、レアリズムとなり、通過したはずでちゃんと通過できていなかった上野駅へと再到着したのでございます。
あららん? うえの~? また上野かひなぁ?
消しゴムで消してきてしまったものは上野駅にありきかぁなぁんてとぼけてぼやぼや~っとしておりましたら、甘ちゃんのあたしたちの芸術家気取りの比喩のようなぼやぼや~は許さないからねっ! といふやうな力強い意志の韻律詩が、すちゃ、すちゃっ、スジャ~タ~~スジ~ャ~タ~~っと風変わりな雰囲気が現れ、上野駅に甘酸っぱい匂い/オドワールの微粒子が臭覚への作用として流れてまいりました。
臭覚へと作用ひらがるトロピコ~ルなかおり。トロピコ~ル、トロピコ~~ル……。
はぁう、なぁに、この甘酸っぱいかほり……牡丹杏かしらん、それとも杏? いいへ、違う、これは柑橘類のかほり……
「といふことはぁ、グレープフルーツさんorヴァレンシア・オゥレンジさんorブラッド・オゥレンジさん、それともそれともいかにも文学的で詩的なレモンさんやらかしら……?」
とポエジーに面紗/ヴェールをふわりんこかけて、あたかも物憂げな貴婦人のように悲しみよこんにちは的なサガンの書き出しのエレジーポエジーよろしく凡庸な美し風味の音調をさぐるかのやうに匂いの元をば探し、その伝道物を創造しようとしていたのでございまするる。
……こ・う・こ・つ……。
そして、あたしのそんな恍惚の脳内煌き生理現象に追いうちをドンドコかけるやうに、あたしと山手線と上野の感覚の中にある歴史の累積が濃縮され、図像の詩情まで顕れたのです。
ふと見上げると、主に北国/各々の来た国からの結節点となってきたターミナルの上野駅に停車した青空デコトラ山手線の上空には、杜の都仙台や東北各地の豊かな緑色、碧のエメラルドで出来た馬鹿馬鹿しいほどに美しい奇妙な空形の凧が屋根の無い山手線から見える空で大胆に泳ぐみたいに揺れ、越後平野の稲穂の黄色『幸福の黄色いハンカチ』がそのエメラルドのタコ糸にずらっと幾十枚も吊るされ、これまた豪快にハタハタ、ハタハタと気持ちよく風になびいているのです。
そのエメラルドの凧とはためくflutterする黄色いハンカチたちをきちんと空へと誘っているピンと張りつめたタコ糸は、常磐と三陸の太平洋の海色で、それはそれは真っ青なタコ糸なのでございます。
澄み切った上野上空にfloating view、そのその優雅な「北国の凧」に見入りながら、あたしはこの凧をこんなに見事に揚げているの詩人は誰なのかなぁ、さもさも高貴で光輝な見目麗しい詩人様なのだろうなぁって、きょろりんにょと辺りを見回しましたら、凧糸を上手に操っているらしき影を見つけたのでございます。
みょおー。見つけた!
あたしテンションメーターがドキドキリンどきどきりん♪ と上がり始めたのでするるが、凧揚げの主がこちらをばくるりん振り返りになった瞬間、その面と身をば拝見し、テンションメーターは、「ひょろろろろ~~~~ん……」と露骨に残念項垂れ申し……。
「北国のエメラルドの凧」を果敢に2010年代の東京に揚げておられたその御仁は、みかんおっさん、もとい、「みかん棟梁」でした。
もう一度言います。みかんおっさん、もとい、「みかん棟梁」でした。
「みかん棟梁」は、全身がみかんに覆われて、額にはkittyのように大きなリボンが斜めに絶妙な可愛さでついている全く可愛くない不気味な大工の棟梁なのでございます。そして、リボンの着いている額にはそれはそれは深い皺が刻まれているのです。
完全に変態です。
柑橘という庶民風味の匂いにあたしの知覚もうずくまり、恍惚ingという自己の宝石は小石の如く、奇妙さ丸出しのリボンをつけた「みかん棟梁」の存在そのものに蹴散らされてしまいました。そうしましたらば、「みかん棟梁」、
「なぁに、紛い物にばかしうっどりこいでんだ、こんの西洋文学かぶれ娘っ子。おめさんの手元にある在りのままを真っ直ぐおめさんの目ん玉で見れ。おめさんの鼻っこで直に嗅げ。こんの匂いは蜜柑だべが。蜜柑だ!」
と田舎っぺ、かっぺ丸出しの詩心なんて在りもしないことが容易に想像できるおっさんかっぺダミ声であたしを叱咤(しった)しったーのでふ。
――はっ! なに、この詩才/ポエジー無きおっさん声は……
そう思い「みかん棟梁」をちょっと軽蔑して睨んだらば、
「娘っ子な、いい人生歩いてごれねがったなんて簡単に決めるもんでねえ。おめぇさんなんてまんだまんだひよっ子だぁ。卑屈も大概にしどげ」
と。あたしは立派に男装していて外見的には男なはずだし、もう年齢的にも生き様的にも微妙に廃棄物みたく扱われてきたのに、なのに「みかん棟梁」は娘っ子とあたしを呼ぶの。それでね、えっとうまく申し上げられないのだけれど、それでもなんだかあたしを慰めるでもないのだけれど、けれど包み込むように東北弁丸出しの「みかん棟梁」はそう仰るのでございます。
元プロボクサーの世界チャンピオンのガッツ石松さんそっくりの、といふかガッツチャンピオンさんじゃないんでふか、ってお顔で皺皺(しわしわ)の額の、みかんにくるまったリボンを頭に着けたおっさんは、東京にも山手線にも詩にもなんとも不似合いで、なんなん、この棟梁、きもひー、でもでもうまく説明申せないのですがすごく暖かい……とかとか凸凹が交錯するるん逆視鏡/詩経的効果の中で、いつもみたいにimitationかもしれないけれども、あたしは輝度(ふぁ)感覚(に~)的なものに神経諸中枢軸が覆われ、結果しょうがないので、「ケッ」といふ舌打ち的感情や何か不思議なふ(ふ)詩戯(しぎ)な過ぎ去ったような過(よ)ぎりの感情も交錯し、まぁいいやぁ、とか思おうかなとば思ったらば、細胞が斬られたように、存続してきた上野駅へ集団就職や一人ぼっちで上京してきた人々の知覚や悔しさややるせなさが、力強い蜜柑の香りと、空に上がっていた「北国の凧」と共に、山手線と上野駅にそれらは、わーとたくさんサザナミのように押し寄せ、複合的(アンサンブル)ノイズとして何かの小さな音になったのです。
(続きますみそ)