INxJはナラティブ(物語)を持つ

これまでINTJ、INFJの人を多く見てきて、彼らに共通する要素は何だろうと考えていた。結論を言えば表題の通りだが、彼らはナラティブ(物語)を持っていると捉えられた。


そもそもナラティブ(物語)とは?

一般的な物語は、小説や映画のように創作されたもののイメージが強いだろう。対称的にナラティブは本人によって形成される物語である。多くの場合、他者に共有されず本人の中で完結している。

本人の中で形成され、本人しか理解できないので、他者が本人のナラティブを汲み取るのはとても難しい。

臨床心理ではナラティブ・アプローチという手法があるらしい。本人のナラティブを外在化することで、客観的に自分自身のナラティブを認識し、その偏りや癖を修正していくプロセスみたいだ。

ここで話していく"ナラティブ"という言葉はあくまで"僕のナラティブ"の言葉なので、学問的な定義の正誤を置いて捉えてもらえたらと思う。

INxJはどんなナラティブを持つか

INTJ、INFJ、また各人によって持つナラティブは異なる。また他者が本人の語りからナラティブを見出すのはとても難しい。そのためあくまでここで挙げる事例も、僕自身のナラティブによって生み出される仮説に過ぎない

しかしナラティブを操るいちINxJとしてその仮説の精度は他タイプには優るのではないかと思っている。前置きが長くなったが、INxJがどんなナラティブを持つか、自分の持っていたナラティブについて話していこう。

いんとじのナラティブ①

「僕は愛溢れる人生を送りたい。他者と愛を共有できる日常を送りたい。自分が大切な人に対して愛を与えたい。ただそんな相手を自分の未熟さゆえに傷つけてしまう。振り返ればこれまでもそうだった。そもそも自分は誰かを心から愛せたことがあっただろうか。自分でさえも愛せやしないのに。今回もそうだ。望んだって上手くいきやしない。今後も僕は望んだって全て上手くいかないだろう。そうして愛とは何か、その実感さえ知らぬまま息絶えるのだ。そんな未来が確定した人生を僕は生きる価値があるのだろうか。」

いんとじのナラティブ②

「僕は誰にも文句を言われない圧倒的な社会的実績を出したい。例えばイーロンマスクのように偉大な企業を立ち上げたら、多くの人は彼の性格に難があったとしても彼を社会的に意義のある人として評価するだろう。要するに僕はそういった存在でありたいのだ。何か文句を言われた時、自分の未熟さを指摘された時にだから何だと、自分は価値ある人間だと信じられるくらい他者に説得できるような実績・評価が欲しい。だから僕は人類の歴史に名を残すような圧倒的な偉業を成し遂げなければいけない。偉業を達成してやっと僕は僕自身を肯定できる。ありのままで生きていいと信じられるのだ。」

現在はこのナラティブへの依存を脱しつつあるが、変わらず僕はナラティブの奴隷として生きている。このように自分自身の人生を肯定するためにナラティブ(物語)を形成しているのがINxJだと考えている

INxJがナラティブを持つ理由

なぜINxJは自身を肯定するナラティブを形成するに至ったのか。それはINxJの幼少期に関係すると考えている。

僕の話をするとISFJの母に育てられ、些細な振る舞いを度々責められる日常を過ごした。また学校では暴力を始めとしたいじめを受けることで、自分の後ろに他人の気配を感じただけで緊張状態に陥ったり、友達でさえも肩組みや触ろうとしてくると反射的に防御する癖が今でも残っている。

心理機能的には他者によるSi(体感覚)の抑圧があり、そういった状態を回避するためにNi(予知的)を活用する癖が形成されたという解釈が生まれる。反射的に身体が反撃するのもNi的なSe稼働をもたらしたと考えられる。

僕自身が持っていたナラティブ②の「誰にも文句を言われない圧倒的な社会的実績を出したい。」というビジョンは「自分がありのままに生きたいため」であるが、「自分がありのままに生きる」には、「誰にも文句を言われない圧倒的な社会的実績を出す」"ことでしか"達成できないと解釈するのがナラティブなのである。

言い換えるとINxJのナラティブは、自分のありのままを肯定するために必要なゴールを定義する物語である。その物語が事実正しいかはわからない。でもそのゴールを達成することで、自分の課題は解決されると信じられる物語なのである。

エニアグラム視点を加えるのであれば、タイプ5の僕は、この世界の全てを知ることで、全ての危機的状況を予測可能な状態にできるというナラティブを形成できる。だから自分の不安を解消するためにとにかく何でも調べたり知ろうとする。物事を知らない状態で現場に出向くことは、自分のナラティブにおける非・最適化行動にあたり、そういった助言に反発しやすくなる。

ナラティブは必ずしも悪いものではない

ここまで読んで、ナラティブは良くないもののように感じたかもしれない。非Niユーザーからしたら、ナラティブを持ったINxJは理解し難い存在かもしれない。ただ何事も物は使いようである。

例えば目の前に500円あります。今すぐ500円を手に入れるか、1週間待って1000円もらうか選べるとしたらどちらを選びますか。そんな問いがある。この選択は価値観次第なので正解はないが、仮に1週間待って1000円もらうのが合理的で、自分にとってもその選択が良い場合、1週間待つことを正当化するナラティブを形成することで突破できる可能性がある

例えば、1週間待つという試練を乗り越えた自信が得られる。またこの1週間で無駄遣いする可能性を無くせるというナラティブを作ることができる。ナラティブは時に本能と理性の間のパラドックスを乗り越えられる。

誰もがナラティブを持っている

ここではINxJがナラティブを持っているという前提で話してきたが、実は誰もがナラティブを持っている。ただINxJのようなNiユーザーと、それ以外のタイプでそのナラティブの持ち方は異なる。

あえて言葉にするならオリジナルナラティブとレンタルナラティブである。オリジナルナラティブは自己内製したナラティブである。INxJは大抵自分自身でナラティブを生み出す。しかしそれ以外の多くのタイプはナラティブはレンタルする。自分自身で形成するのでなく外側からインストールする。

例えばアニメや漫画がそれにあたる。ワンピースの物語を通してその台詞・出来事を通して、僕らはこう捉えられるよねというナラティブを形成してる人はかなり多いと思う

また宗教は最も歴史の長いナラティブである。特にキリスト教の旧約聖書やイスラム教のコーランは最たる例だ。Niユーザーからしてもナラティブを形成するというのはかなりエネルギーのいる行為であり、しかも人生全ての悩みを解決するためのナラティブを形成するのはほぼ不可能に近い

世界宗教と呼ばれるようなキリスト教やイスラム教などは、強固なナラティブを築くことで、ナラティブの自己内製コストを代行している。だからナラティブを求める人にとって信者になることは合理的なのである

INxJはナラティブで救えるか

話が逸れてしまったので戻したい。INxJはナラティブを形成することで、自分の人生を正当化する。良くも悪くも。ただ本来は自らを救うためのナラティブも時に自分を傷つけてしまうことがある。そういったパラドックスの中で、どうやったらINxJの傷を癒すことができるのだろうか

僕の仮説は下記の4つだ。
①実はナラティブには正しい作り方がある。正しい作り方によってナラティブは健全な形で作用するのでは?
②ナラティブが不健全に作用しているINxJに対して、不健全なナラティブでも受け入れやすい健全なナラティブを開発・提供すればいいのでは?
③今持っているナラティブから別のナラティブを作る手伝いをする
④ナラティブはそもそも必要ない。

特に僕は②のアプローチを度々Xで投稿している。不健全なナラティブ下でそのナラティブを否定せず肯定しながら、現状の課題に対して受け入れやすい形で健全な行動に誘導する形である。あくまで大衆に対してというより自分自身に対してが多いが、自分自身に対してどんなナラティブが健全に作用し得るか考えている。

③のアプローチは臨床心理のナラティブアプローチに近い。この辺も専門的な勉強をしてみたいと思っている。

また④のアプローチも僕自身の経験として言えることである。ナラティブは無くていい。ただそのためにはナラティブが無くても今自分が幸せだ、充分だと信じられなければならない。恐らくこの状態がINxJが目指すところであり最も難しいアプローチである。

僕は経験を通してナラティブは必要ないかもしれないと思えたが、不健全なINxJは基本的に反発する。いかに不健全な状態でナラティブの依存を手放すことが良いと信じられるナラティブを作れるか、今後試行錯誤していきたいと思う。

またXでもいちINTJの日常・解釈を発信してるので良ければフォローください。

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