組織の空気と個人のふるまい
大衆 / 組織への興味
「夜と霧」という本がある。
第二次世界大戦中、ナチスによるホロコーストによって強制収容所が建設された。
そこに収容されたユダヤ人心理学者 ヴィクトール・E・フランクルが自身の体験談を綴った1冊。
どのような状況であっても、自分がどう振る舞うかは奪い去ることはできないという希望を説いた本書。読み終えた時、感動と共になぜこのようなことが起きてしまったのか興味を抱いた。
戦争という極めて非日常の中にあっても、特異な事象ではないだろうか。
個人だと起こり得ないことが、組織化、大衆化すると起こってしまう。その原理が知りたくていくつかの書籍を読み大衆についての理解を深めることにした。
組織を形づくる空気
空気の研究より
「会議での場で誰も反対できる空気ではなかった。」
「飲み会での二次会は断る空気ではない。」
この”空気”とは一体何なのか。
山本七平は
空気 = 教育も議論もデータも、科学的解明も歯が立たない”何か”
だと定義した。
彼いわく我々は常に2つの基準で物事を判断している。
論理的判断の基準と空気的判断の基準である。通常口にするものは論理的判断の基準であるが、
本当の決断の基本とは空気的判断の基準なのだ。
いわゆる”空気が許さない”というやつだ。
ではこの空気の基本型を考察すると、臨在感的把握なのだという。
臨済感的把握 = 物質の背後に何かが臨済していると感じ、知らず知らずのうちに何かの影響を受ける状態
例えば、お寺や神社にお参りに行くのもそうだろう。寺社仏閣という建築物の背後に神が宿っていると感じ神妙に祈る。
空気の研究では、人骨を例に説明している。
ある遺跡で大量に人骨が発見された。それを調査のために運んでいると日本人の多くは体調を崩し、ギリシャ人は全く平気だったそう。
日本人は人骨を臨済感的に捉え、魂が宿っていると思い込んでいるために起こった現象である。
ちなみに、ギリシャ人は肉体を魂の入れ物と考えており、死んで魂が抜けた体はただの物体としか見ない。
物質に何かが臨済していると感じるのはつまり、虚構のものを感じているということ。つまり空気とは「虚構の世界」「虚構の中に真実を求める社会」なのである。
会議で誰も反対できないのは、上司の意見には従わなければいけないという組織の中の共通認識、つまり虚構が空気を生み出している可能性がある。
飲み会の二次会を断れないのは、全員揃って解散まで飲み続けることが全員にとって楽しいものであるという虚構から生まれているのかもしれない。
組織が作り出した共通認識や、ビジョンもつまるところ虚構の世界である。
その中に真実を求めるときに空気が発生する。
組織の中の個人
服従の心理より
空気だけでなく、人は心理的な面でも組織の下した命令には簡単に応じてしまう。
服従の心理は、アイヒマン実験と呼ばれるもので非常に賛否両論を巻き起こしたものである。
正当な権威からの命令を受けた場合、多くの人間はその内容に関わらず従ってしまうというものだ。
理不尽な命令をされた場合、自分は反対するもしくは命令に背くと多くの人は言う。しかし実際は従ってしまう。人間の道徳観はそこまで強くなく、心理学の実験でさえかなりのところまで取り除いてしまうことをこの実験は明らかにした。
ここで重要なのは、道徳観が欠落しているのではなく、行動の内容に対する倫理観よりも権威からの命令を実行しなければならないという感情の方が大きくなることにある。
つまり道徳感覚の焦点が違ってくるのだ。
この状態を服従の心理ではエージェント状態と名付けている。
エージェント状態 = 自分を導く権威については、責任を感じるのに権威が命じる行動の中身については責任を感じない状態
エージェント状態にある人間の常套句は「私は言われたことをやっただけです」「上司の指示でやりました」あたりだろう。
しかしこれは組織の構造、人間の心理的に起きてしまうことだ。
ホロコーストにおいて、ユダヤ人を拘束し、選別、強制収容所への移送の責任者であったアイヒマン。
彼は戦後の裁判において「私は命令されたことを忠実に行なっただけだ。」と繰り返し主張した。ハンナ・アーレントは「エルサレムのアイヒマン」の中で、彼の最も邪悪な部分はホロコーストを行なったことではなく、何も考えなかったことだと主張した。アイヒマンはまさにエージェント状態にあり、ユダヤ人虐殺の倫理観よりもヒトラーの命令を実行しなければならないという感情の方が大きかった。
個人としてのふるまい
組織の空気に支配され、エージェント状態になった個人はどのようにすれば良いのか。
山本七平は水を差す必要があると言った。
水を差すためには、相対化することが必要なのだ。会社の常識は社会の非常識の場合があり逆もまた然りである。
つまり自分のいる組織を相対化し、別の視点から比較することが必要になる。
そのためにはまず自分の精神を拘束しているものが何なのかを知る必要がある。
しかしそれは簡単にできることではない。
魚は水の中にいることを自覚することはないし、人間も空気の中にいることを自覚するのは難しい。
あまりに当たり前の存在だからだ。
相対化をする中で、指針となるものは美意識だと思う。
美意識とは様々なものを自分の中で取捨選択をして、濾過された後に残るものだ。
フランクルは強制収容所の中で、どのような環境であろうとも、与えられた環境でいかに振る舞うかは奪えない。
私たちが生きることから何かを期待するのではなく、生きることが私達から何を期待しているかを考えろと説いた。
まさにいかに振る舞うかとは美意識に他ならない。個人の美意識は奪えないのだ。
組織を知り、俺を知ることが大衆という記号に埋没しないための重要な行動なのだと思う。
参考文献
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