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ティック・ミン・チャウ「大学の役割、文学・人文科学の意義」

【訳者の言葉】以下に訳出したのは、かつて南ベトナムにあったヴァンハン大学の学長ティック・ミン・チャウの名で、同大学発行の雑誌『思想』に掲載されたエッセーである。戦争状況下にありながら、極めて優れた思想活動を展開しいたヴァンハン大学については、前にnoteに載せた翻訳記事「ヴァンハン大学──仏教学が輝いていた時代」に詳しい。
ベトナム戦争終結から今年(2025年)で50周年を迎えるが、ここに書かれた内容は、「ベトナム戦争の非文化の結果のすべてに耐えてきた人間」である当時のベトナム若者世代のみならず、50年後の現在の私たちに訴えるところも多いのではないだろうか。今の日本の大学、社会についても、省みるべきところが多いのではないだろうか。
たとえば、次のような一節。「人間の精神産物は、最新の精密に組織された機構となる。その大きな機構は、小さな機械を生み出す、機械的人間と呼ばれる機械を生み出す。大学は、鋳造炉となり、毎年努めて、実に多くの、技術者、医師、博士、専門家、記者、学者等々といった機械人間を生み出し、毎年学生のクラスから、世に出て行くのだ、美しい商標、高貴な職位を身につけて。そうして、ますます人間が不在になっていく世界の中で自分が何をするために生きているのか分からないでいるのだ。」
全地球規模のニヒリズムの成就だ。
これまで日本では知られてこなかったが、旧南ベトナムには、本エッセーが体現しているような極めて鋭敏な知性が存在していた。そして、文章の内容から判断して、実際はファム・コン・ティエンが書いたものと訳者は考えている。


本文翻訳:
ティック・ミン・チャウ
「大学の役割、文学・人文科学の意義」


私たちの抱負は、文学・人文科学部を、創造的意識の基礎として、創造的人間を吸収し育成する場、ベトナムをベトナムにしたもの、たとえすべての崩壊、すべての血と涙、すべての破壊と浮き沈みが、時に誇り高くまた痛ましく「文献の歴史の数千年」と自らが呼ぶ精神的努力の数千年を根底から揺り動かすとしても、ベトナムの人間を依然としてまっすぐ立たせ、<故郷>の生命へと向かわせるもの、すなわち<ベトナムの実性〔真実、本当の有り方〕>の探求において、精神力と能力とを集中させる場として、仰ぎ見ることである。その数千年の文献の歴史の実性とは何なのか? <越性>の実情とは何なのか? 別の言い方をするなら、ベトナムの精神の根源とは何か? つまり、何がベトナムの人間を今日の歴史的状況へ至らしめたのか? 何が、ベトナム〔越南〕の二語を存在させ、今日の地上に血まみれのまま存在させているのか? そして何が、ベトナムを、将来へと向かわせるのか、故郷の精髄へと向かうのか、それとも亡国、すべての根の喪失、母なる大地の根源からの隔離へと向かうのか? その何かが、数千年来、ベトナムの民の精神を育てたのだということを理解できること、それを理解できることは、ベトナムの実性、実質、本性、本質を、東洋文化の中でのベトナムの現前と、西洋文化に対するベトナムの対面を、見つけ出したということである。その現前の結果が、今のベトナムの人間の現状、現代西洋文明の恐慌における西洋の実性の喪失と並行する、東洋の実性の喪失と歩調を合わせたベトナムの実性の喪失についての意識を通じて体現された凄惨な現状である。この恐慌は、ベトナムの土地を見つけて、ベトナム戦争を通じて、悲惨な、耳目を集めるやり方で形となって現れたのである。なぜなら、ベトナムは、現前hiện diệnと対面đối diệnの間の、自性の喪失と他性の喪失との間の、東洋的諸価値と西洋的価値の恐慌の間の高度な矛盾についての最も惨めな経験を人間が経てきた土地であるからだ。その恐慌は、ベトナムの生力の衰弱消散から、ベトナム精神における衰裂負傷から発したものである。ベトナムの身体は、自らの身体の中の生力を失い、その内在的生力の喪失こそ、現代の時代における最も危険なウイルスを迎える場であったのだ。そのウイルスとは、今日の世界中に広がる虚無精神(nihilisme)である。虚無主義は、以前から今に至るまでの人類のあらゆる価値の中の生気の喪失の結果であり、その虚無主義こそがこの数十年来のベトナムにおける悪烈な戦争をもたらしたのである。そして人間、とりわけベトナムの人間は、ますます、自分は誰なのか、自分はどこにいるのか、自分はどうなるのか、分からなくなっていく。なぜなら、一切は転倒し、すべての神聖な価値は打ち倒れ、そして、ベトナムの意識は、ますます散り行き分散し、人間、「ベトナムの人間」という名を持つ者は、突然早いうちに、戦場だけでなく自分の家でさえも自分がいつでも死にうることを知っているがため、自分が、恐れている動物、狩猟で追われている動物、すべてを恐れ、全身震えている動物になっていることに気付く。この恐れている動物は、ますます、漠然と恐れ、ますます、萎縮する。なぜなら、恐れは、人を縮ませ、萎縮すればするほど、自分は次第に小さくなり、誰かが蹴ろうと思えばどこへでも蹴れるような物や包み、丸いボールほどに小さくさせるからである。自主は意味を変え、自衛となり、最後には自衛は意味を変えて、自動あるいは受動となる。人間は動物になり、動物は物になり、そして動物は機械に、自動機械の類になるのだ。
 
人間はこのように悲惨である。しかし、では、人間の精神的産物は? 人間の精神産物は、最新の精密に組織された機構となる。その大きな機構は、小さな機械を生み出す、機械的人間と呼ばれる機械を生み出す。大学は、鋳造炉となり、毎年努めて、実に多くの、技術者、医師、博士、専門家、記者、学者等々といった機械人間を生み出し、毎年学生のクラスから、世に出て行くのだ、美しい商標、高貴な職位を身につけて。そうして、ますます人間が不在になっていく世界の中で自分が何をするために生きているのか分からないでいるのだ。ますます、物は多くなり、物の価値は、人間を評価する基準となる。人間は、諸々の物の中の一つの物となり、文化は、死に乾いた顔を美しくする化粧となり、文化は物となる、抽象的に対象と呼ばれる、文学部と呼ばれる一つの場所で交換流通される死に乾いた対象となる。

このような現状を描写して、私たちは悲観的だっただろうか? どうして私たちは、文学部についてだけ言及して、他の学部については言及しないのか? それは、私たちが、起点から問題を立て、考えたいからである。文学部が文化の実性についての意義を喪失した時、他の残りのどの学部が、文化の実性を育むことができるというのだろうか? 科学の実性、社会の実性、宗教(仏教あるいはキリスト教)の実性は、人間の実性の上に築かれなければならない。人間の実性は、人間を人間にするもの、つまり「人性」と呼ばれるものの上に築かれなければならない。「人体」についての科学は、「人文科学」と呼ぶ。「人性」についての科学は「文学部」と呼ばれる、なぜなら、文学部は、人類の歴史における多様に異なる諸形式を通じて人性の形成としての文化についての意識であるからだ。文化こそが、人性を育み、人性を獣性あるいは物体性へと陥ることから救い出すものである。『大学の使命』(Mission of the University)と題する本の中で、アルベール・カミュが「ニーチェの後、最も偉大なヨーロッパ作家」と見なした思想家オルテガ・イ・ガセットは、大学の使命は、文化を教えることでなければならず、文化は科学ではなく、科学は文化に付属隷属しなければならないと主張した。オルテガ・イ・ガセットはこう考える、「科学の内在的動導は、人間の現有する生力と関連する関心ではないのであって、文化こそ、その生動の役割を担っているのである。科学は、私たちの生活の差し迫った要求に冷淡な性格を持ち、それ自身の必要な方向に向かうだけである。そのため、ますます科学は、限界なしに専門的性格を持つようになる。しかし、文化は、今、ここでの私たちの生活に奉仕するのである(The internal conduct of science is not a vital concern; that of cultures is. Science is indifferent to the exigencies of our life, and follows its own necessities. Accordingly, science grows constantly more diversified and specialized without limit, and is never completed. But culture is subservient to our life here and now)(cf. Jose Ortega y Gasset, Mission of the University, pp. 73-74)。
文化の役割について、オルテガ・イ・ガセットはこう記している。「文化は、悲惨にならないように人間の生活を救うものである。文化は、人間が、無意味な悲劇を越えて、あるいは、自分の内心の汚辱を越えて、生きることができるようにさせるものである(Culture is what save human life from being a mere disaster, is it what enables man to live a life which is something about meaningless tragedy or inward disgrace)(op. cit., p.37)。この言葉に続いて、オルテガ・イ・ガセットは、仏教の『法句経』から一文を引用する。「私たちの行為は、私たちの思想をついて行く、牛車の車輪が、牛の足跡をついて行くように」。そしてオルテガ・イ・ガセットはこう解釈する。「私たちは、私たちの意想〔ideas理念〕である」。そしてオルテガ・イ・ガセットはこう定義する。「文化は、一時代の生気、生力を持った意想のすべてである」。そして大学の使命は、人間が、自分の時代と同じ尺度に並んで生きるようにすることでなければならないとする。つまり、自分の時代の意想と同じ尺度に並ぶということである。文化の生力は、他の時代の意想を、自分の時代の意想と肩を並べるようにさせることである。この20世紀は、文化が最も輝かしく進歩した世紀だが、オルテガ・イ・ガセットはそれでも次のように宣言する、「私たちは、最もひどい非文化の時代に生きている、たとえ外面では、ずるく、うぬぼれ、横柄であっても」(We are passing at present, despite certain appearances and presumptions, through an age of terrific unculture)(op.cit., p. 74)。

私たちがオルテガ・イ・ガセットの言葉を長々と引用したのは、今世紀の大きな頭脳の上記の告発、20世紀文明の非文化的性格への告発を強調したいからである。その非文化的性格は、世界中に広がり、現代の人間の知的生活のあらゆるところに広がり、人間を自動機械にさせ、大学を機械人間の鋳造炉にさせる。人間に実性を失わせ、ベトナム文化を根を失った混雑体にさせるか、あるいは、生気の足りない「統合」にさせるか、あるいは、孤立的な狭小的な愛国主義のために準備された対象にさせる。非文化的であるために人間は人性を失い、人性を失った時には、真理もまたもはやなく、そして真理が消失する時には、自由も無意味である。それは、大学を運動場にさせた事柄である。そこで人は、競い合って、個人的な自愛の満足を得られるところに達する。あるいは大学を市場にさせる、そこで人は、派閥、党派を作り、お互いに精算しあうか名利のため謀略をはかる。

大学をそれの尊敬される地位に戻そうではないか。
大学を、人それぞれが、人性を真理に戻す方向の中で人間の文化的理想を自由に体現できる場所にさせようではないか。

現代の非文化的現状についての意識、今日の大学生活における非文化の結果についての意識からから出発して、私たちは、文学・人文科学部が、人間の実性の中でベトナムの実性を再び探求する中での、創造的意識の基礎として文化を問い直すための最も強力な意識形成の場所になることを期待している。その実性の意識からのみ、社会の実性と宗教の実性は、はじめて、社会学部と仏教学部のような学部においてはっきりと明定されるのである。それのみならず、今日の諸科学に至っては、科学の実性が、確定された時にのみ、その諸科学は、はじめて人間の現実生活との接続を喪失しないのである。そして、まさに科学は、科学の実性を語ることができないのである。文化だけが、科学の実性を確定することができる、なぜなら、文化だけが、科学的人間を人間にさせるからである。

上記の真誠な思いを通じて、私たちは、今日の若者世代に抱負のすべてを委せようと思う。なぜなら、私たちは、今日のベトナムの若者は誰よりも、ベトナム戦争の非文化の結果のすべてに耐えてきた人間であることを、そして、その忍耐は、人間にまだ忍耐、堅忍が十分残っていて、たとえ自分の周囲が残酷な怨恨と暗い失望しかないとしても、まっすぐ立って、進んで行く時、何ものも人間を破壊しえない、何ものも人間を殺すことはできないことを意識しているからだ。

まっすぐ立って、進んで行くことができるかできないか、そのことは、まさに今日の若者世代こそが決定することである。

私たちの世代は、私たちの言葉をもう話し終わった。私たちは、今日の若者世代が、語るのではなく、ただ沈黙して、この25年間で私たちが失った<故郷>に回帰するため必要な歩みを進めて行くことを待ち望んでいる。



出典:
Thích Minh Châu, "Vai trò Đại Học, Ý nghĩa Văn Khoa và Khoa học nhân văn," Tư Tưởng, số 6, Viện Đại Học Vạn Hạnh, Sài Gòn, Sài Gòn, 1970-10-1, pp. 7-14. および Thích Minh Châu, Trước Sự Nô Lệ của Con Người, Nhà tu thư sưu khảo Viện Đại Học Vạn Hạnh, Sài Gòn, 2nd ed.1970 (1st ed., 1969), pp. 55-69 〔『人間の奴隷化の前に』に「3章 ベトナムの実性の探求」として収録〕.

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