「語り部クロス」~未来へ記憶をつなぐ対話~
皆さん、『語り部クロス』という番組を知っていますか?
東日本大震災と東京電力福島第一原発事故の発生から12年。
東北各地には、その記憶を伝えてきた人々――「語り部」がいます。
しかし、その語り部たちは、時の経過とともに悩みを抱えるようになっています。
「震災から10年が経って節目だと思う人が増えた」
「関心を持ってもらえなくなった」
「そもそも語り部は何を伝えればいいのだろう」
こうした悩みを受けて生まれたのが『語り部クロス』です。
背景の異なる語り部同士が、それぞれの抱える悩みを語り合い、一緒に解決策を探っていく番組です。
これまで、
岩手の語り部 × 阪神淡路大震災を伝える語り部(兵庫)
宮城の語り部 × 原爆について伝える語り部(長崎)
福島の語り部 × ハンセン病を伝える語り部(岡山)
などを紹介してきました。
番組を視聴した方から「語り部同士の交流から“伝承”について考えさせられた」という声が届いたり、実際に取材した語り部の方から「私たちの将来にもつながる取り組みで、参加して良かった」という感想をいただいたりと、大きな反響をいただいています。
この番組を企画したのは、福島局でアナウンサーをしている私、武田健太とディレクターの佐野風真です。今回、2人で制作の裏側を語り合いました。
転勤で気づいた “みんな悩んでいる”
佐野:
番組のきっかけは、今でも鮮明に覚えているよ。
武田が「一緒にやらないか」って物々しい表情で言ってきたのを。
「語り部の皆さんをつなぐ取り組みをしたい」って。
でも、正直これまで一度も語り部について取材したことがなかったから、あのときはピンとこなかったな。
武田:
そうだったね。
実は私も小学生から高校生まで野球をしてきて、「スポーツ実況をしたい」という目標でNHKに入局したから、当初は語り部についてほとんど知らなくて、自分が取材することになるとは思わなかったんだよね。
そうしたなかで、初任地が長崎に決まって。
この長崎での勤務が、語り部を取材するきっかけになったね。
佐野:
具体的にどんな取材をしてきたの?
武田:
長崎は、1945年8月9日に原子爆弾が投下された被爆地で、被爆の記憶を残していくために伝え続けている人たちが本当にたくさんいるんだよね。
被爆者を始め、被爆者が高齢化するなかで当事者から話を聞き取って伝えている人もいて、原爆の記憶を残していくんだっていう長崎の皆さんの強い思いを取材の中で感じて。
印象的だったのは、コロナ禍での取材。
修学旅行とかもなくなり、長崎を訪れる人がガクッと減ってしまい、語り部たちの話す機会がほとんどなくなってしまった。
そんななかでも、オンラインで講話をしたり、動画投稿サイトを用いて発信したりして、語り部の皆さんは決して歩みを止めなかったんだよね。
二度と戦争をさせない、平和を守るんだという強い思いを取材で実感して。
特に90歳を超えてもなお、語り部として活動されている方との出会いは、私にとって今も取材する原動力になっていると思う。
「命ある限り伝え続ける」っておっしゃっていて、修学旅行生などへの講話はもちろん、90歳を超えてから英語の勉強を始めて、外国の人にも通訳を介することなく、自分の言葉で伝えていたんだ。
語り部の活動の大切さを本当に強く感じたな。
そうした人たちの取り組みを、“しっかりと取材して伝えたい”と思うようになったね。
佐野:その後、長崎から福島に転勤してきたわけだけど、福島への異動は希望して?
武田:うん。長崎で語り部の取材をするなかで、“記憶をつないでいく”ということに関心を持って。
震災や原発事故の取材にも以前から関わりたいと思っていたから、福島局への異動を希望したんだ。
佐野:実際に福島で取材してみて、どう感じた?
武田:
福島にも震災や原発事故について語り継ぐ語り部がたくさんいて、皆さん、決して忘れないように、次の災害で命を守れるようにっていう強い思いで伝えているんだと知ったよ。
一方、取材をするなかで、”悩み”も見えてきて。
「私が伝えていいのか」
「伝え続けていけるのか」
「震災から10年で節目だと思われている」
とか、本当にさまざまな悩みで。
そうした悩みを聞いて思い浮かんだのが、長崎でお世話になった語り部の皆さんの顔だったんだよね。
長崎にも、福島の語り部と同じような悩みを話す人がいる。
それでも、70年以上も記憶をつないできた。
そう考えたときに、もしかしたら、福島で悩んでいる語り部が長崎の語り部と対話(クロス)したら、「どうやって伝え続けていったらいいんだろう」といった悩みを解決するヒントが見えてくるかもしれない、って思って、この番組を企画したんだ。
自分と変わらない“語り部”の思いに触れて
武田:
佐野は語り部の取材をしたことがなくて、番組の提案を見せても、ピンときていない感じだったよね。だから、これまで私が取材してきたリポートとかを見てもらって、語り部について知ってもらうところから始まったよね。
佐野:
正直、詳しくなかったから“語り部”ってそもそもなんなんだろうって思ってた(笑)
最初に武田が「番組にしたいんだけど、ディレクター的にはどう思う?」って提案をもってきたじゃん?
提案を読んでの個人的な感想と、もっとこういうところを取材してみたらおもしろいんじゃないかな、っていうアドバイスして。まさか武田と一緒にこの番組を作っていくことになるとはそのときは思っていなかったね。
武田:
(笑)
でも、一緒にやることになってから、佐野は本当に情熱的に取材に取り組んでいたよね。何か心を動かしたものがあったの?
佐野:
語り部って、修学旅行だったり課外学習のときに、戦争とか災害、公害について話してくれる人たちで、どちらかというと自分よりも年齢が上の存在なのかなと思っていたんだよね。
でも、実際に取材をしてみると、若い人も多くて、自分より年下もいることにビックリしたんだ。
それに、会うたびにネイルの色が変わっていたり、「この前、カラオケに行ってきました!」って話をしたりしていると、言い方が正しいかはわからないけど、自分と変わらない“普通の若者”なんだなって思って。語り部ってどんな人がやるんだろうって取材するまではわからなかったから、それが新鮮だったんだよね。
武田:
うんうん。
佐野:
でも、彼らに「どうして語り部をしているのか?」って尋ねると、グッと力が入って。
「話すのはつらいこともあるけど、自分と同じような経験を二度としてほしくないから」とか「家族が津波で亡くなって、自分が生かされた意味は何か考えたら、この町の思い出などを伝え残すことなんだ」と、力を込めて話してくれたんだよね。
そのとき、スイッチが入った感じがあったな。
自分と同じ年齢ぐらいの人たちが、思いを持って伝えている姿に、自分も刺激を受けて。
当たり前なんだけど、東日本大震災や東京電力福島第一原子力発電所の事故がなかったら、この人たちは語り部をしていないよね。
そういった意味で言うと、震災や原発事故で大きく人生が変わっただろうし、想像もできないくらいにつらい経験もしてきたと思う。
それでも“自分と同じ経験をして欲しくない”という強い思いを持ってることを知って、真剣に向き合いたいなと思ったし、彼らの悩みを解決するヒントを探る手助けができないかなって思うようになったんだよ。
全国にいた“かっこいい先輩”たち
佐野:
「長崎の人の顔が浮かんだ」っていう武田の話を受けて、震災や原発事故で大きな被害を受けた東北の語り部たちの悩みを解決するヒントは、”他の地域で活動する語り部のなか”にあるかもしれない、という仮説にたどり着いた。
そこで、まずは全国の語り部に、どんな悩みを抱えているか、どうやってそれを解決しようとしているかとかを聞くアンケートを実施したよね。結果、200を超える回答が寄せられた。
アンケート内容 詳しくはこちら ↓↓
それで、全国の語り部の皆さんの状況が伝わってきたよね。
各地で行われているさまざまな工夫も参考になったけど、そこには東北の語り部の皆さんへのエールとかも書かれていて、全国の語り部の皆さんの温かさに心動かされた。
武田:
番組では、いただいたアンケートの内容を東北の語り部たちに読んでもらって、自分の悩みに向き合うために誰に会いに行きたいか、決めてもらったね。
佐野:
ふだんの番組では、自分たち制作者サイドが事前に取材を重ねてから放送内容を考えていくけれども、今回の番組では、東北の語り部の方が会いに行きたい人に会いに行くから、自分たちも先方の語り部の方にお会いするまで、どうなるかすごく不安だったよね。
でも、実際に会いに行くと、皆さん本当に前向きで、やる気に満ちあふれていた。
武田:
そうだね。皆さん、「東北の語り部の皆さんとぜひ交流したい!」って言ってくれたよね。これまでさまざまな悩みにぶつかりながらも懸命に活動されてきたからこそ、東北の語り部の皆さんの悩みに、対話を通して向き合おうとしてくださったんだよね。
佐野:
この表現が当てはまるかはわからないけど、“かっこいい先輩”のように見えた。
実際、東北の語り部の皆さんにも対話を通してさまざまな気づきがあったよね。
伝える内容は違うんだけど、「伝えたい」「残したい」という思いでつながる皆さんの対話は、お互いにとって刺激になるんだ、と実感したよ。
“クロス”して見えてきたこと
宮城×長崎
武田:
宮城の語り部・永沼さんは、長崎で仕事と両立しながら語り部の活動を続ける田平さんに会いに行ったね。同世代の2人による対話だった。学生時代から語り部として活動している永沼さんだけど、就職とかをきっかけに周囲の同世代の語り部が辞めていくなかで、仕事と語り部活動の両立の難しさに悩んでいて。
そうした状況で、同じように働きながら活動を続ける田平さんと会ったわけだけど、話は尽きず、気づいたらあっという間に2時間経ってた(笑)
佐野:
“語り部が仕事との両立に悩んでいる”とは、それまで考えもしなかったから、永沼さんに話を聞いたときは驚いたよ。
だけど、語り部活動って、ボランティアでやっている人もたくさんいる。
そうした方々のなかには、ふだんは自分の仕事をして、休みの日とかを使って活動している方もいるんだと実感したな。
同じような環境で活動している語り部同士の対話だったから、話が尽きなかったね。
いろんろな話を聞いたなかでも、特に印象に残っているのは、“仕事と両立しているからこそ生まれる新たな機会がある”という田平さんの考え方。
「仕事をしていれば、職場の人が活動について聞いてくれたり、職場の同僚に話す機会をもらったりできる。もともと原爆や平和に関心がある人たちだけでなく、さまざまな人たちに伝えられる。そうした機会があるのは、仕事との両立をしているからこそだと思う」という話は、印象に残ったな。
岩手×兵庫
佐野:
同じ「震災」を伝える者同士の対話になったのが、岩手の川崎さんと兵庫の米山さん親子。阪神淡路大震災が28年前、東日本大震災が12年前だから、川崎さんにとっては、より長く記憶がつながれている場所で活動する語り部との対話だったけど、「米山さん親子の工夫やチャレンジは、刺激になった」と話していたよね。
武田:
東日本大震災が発生したとき、川崎さんは中学2年生。津波が迫りくるなか、必死で逃げた経験を伝え続けてきたんだけど、語り部として活動するなかで“言葉の重み”に悩んでいたね。
自分の言葉は人の命を左右する可能性もある。しかも、「自分の伝えていることが”全て”だと捉えられる怖さとかも感じるようになった」と聞いて、改めて語り部の皆さんが強い覚悟を持って話されているのだと実感した。そんな思いを持ったなかで、親子で阪神淡路大震災の記憶を伝えている語り部と話したね。
佐野:
お父さんの正幸さんからは、伝える内容が自分の経験だけではない、という話を聞いて驚いたな。
自分の経験だけが正解ではないって考えて、阪神淡路大震災で被災した他の人たちから当時の経験を聞き取って、それを話していいか許可をもらって、さまざまな人たちの経験を織り交ぜて話しているんだよね。
川崎さんも正幸さんの話に聞き入っていたね。
武田:
阪神淡路大震災当時は生後2か月で、地震の記憶がない娘の未来さんも、父の姿に憧れて話している姿はすごいなって思ったね。お父さんから当時のことを教えてもらって話していた。
それを聞いた川崎さんも「いつかは東北にも、震災を経験していない人や当時を覚えていない人たちが語る時代がくる」と、自分事として未来さんの話を聞いている姿が印象的だったね。
福島×岡山
武田:
岡山でハンセン病について伝える語り部たちのもとを訪ねたのは、福島の語り部・小泉さん。
当事者以外には理解されにくい“原発事故による避難生活”などについて伝えるなかで、「家族のことを話せばいいのか」「町のことを話せばいいのか」「原発事故について話せばいいのか」など、語り部として何を話せばいいのか、正しく理解してもらうためにはどう伝えればいいのか、迷っていたね。
そうしたなかで、自分と同じように、当事者以外には理解されにくい経験をしたであろう岡山の語り部・石田さんに会いに行ったね。
佐野:
ハンセン病を患ったことによる経験という、他人には理解されにくいことをどうすればしっかり届けることができるのかを考え続けてきた石田さんの言葉には、本当に重みがあったね。
一番印象に残っているのは、「隠すことなく伝える」って言っていたこと。ハンセン病について話すことは、「最初はとても勇気がいることだったけど、話さないといつまでも理解してもらえない。だからこそ、勇気を出して伝えないといけない」と力強く話していて、それを聞いたとき、ジーンってきたんだよね。勇気を出して話しているんだって知って。
武田:
そうだね。40年以上話し続けてきた石田さんの言葉は一言一言が力強くて、そして優しいなと感じたね。
それを聞いていた小泉さんも、「言わないとわからないこともある。それを話す勇気が出た」と話していて、「石田さんと出会えて、これからもずっと続けたいと思えた」と笑顔になっていたのはすごく印象に残っているな。
佐野:
皆さんの対話を振り返りだしたら、本当に止まらないね(笑)
武田:
そうだね(笑)
それだけ皆さんの対話は濃密で、ロケをさせていただいている私たちにとっても、大切な時間になったね。
これからは、一緒に…
武田:
全国各地の語り部を取材してきたけど、皆さんに共通していたのは、
“過去を繰り返さないために”っていうところだよね。
こうして伝えてくださる方々がいるから、過去にあった出来事を私たちもリアルな自分事として受け止めることができるんだな、と改めて感じたね。
佐野:
ある語り部の言葉がすごく印象に残っているんだ。
「語り部がいなくてもいい世の中が理想」っていう言葉なんだけど、
「たしかにな」って思ったんだよね。
災害でいえば、全員が防災・減災への意識が高まって、100%みんなが理解するようになれば、それが理想で、語り部の方が言っていた通りなんだろうなって。
でも、日本全国100%になることはないんだよね。だからこそ、語り部の皆さんは、100%に少しでも近づけるために伝え続けようとしているんだと知ったよ。
武田:
そうだね。
私は、ある語り部が「語り部には終わりがない」と言っていたのが、印象に残っているな。これを伝えればいいっていう正解もないし、伝えた瞬間に目の前ですぐに成果が現れるものでもない。
それはすごく長く苦しい道のりだけど、終わりがないなかで、いつか起こってしまう災害のときに、1人でも多くの人の命や暮らしが守れるようにと、日々、目の前の人たちと向き合いながら伝え続けてくれているんだよね。
その難しさ、大変さ、そして大切さは取材を通じて、改めて実感したね。
佐野:
番組の取材を通して、私たち自身も“伝え方”を考えさせられたよね。放送で、震災や原発事故について伝える機会があるけど、自分たちもどのように伝えていけばいいか、悩むことばかりだもんね。
いろんな人に話を聞くなかで、ある人から“取材”について「消費されている感覚だ」と言われたことがあったんだけど、グサッって刺さった。取材を受けて自分のことが放送されても何か劇的に変わるわけではない、それなのに、カメラの前でつらい経験を話さなくてはいけない。
取材を受け続けることは「消費されている感覚だ」と聞いて、私たち自身も、人々への向き合い方をしっかりと考えていかなくてはいけないと強く感じたよ。
武田:
そうだね。語り部の皆さんがどうやったら関心を持ってもらえるかということを考えていたけど、私たち自身も、語り部の皆さんを始め、取材させてくださる皆さんと一緒に悩み、模索しながら発信していくことが大切なんだと今回の取材を通して感じたよ。
2人:
ご協力いただいた語り部の皆さん、ありがとうございました!
今後も人と人のつながりを作りながら、皆さんと一緒にさまざまな課題について考えてまいります。