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人間には強力な言語で体験を伝えることができる。だが、なぜ毎回災害に遭ったりするのか?

ほとぼりも冷めてきたので、災害はなぜ繰り返し被害者を出すかについて、考えたことを書く。

地震で津波が来たら、ここより下に家は建てるなという石碑が増えるが、ウン百年経過すると、また大勢流される。ウン十年ぶりに、強い大型台風が来たら前に水害に遭っているところが、また水害に遭ったりする。

店舗で販売されている、お菓子のパッケージに、青酸カリを混入するやつが出ると、パッケージの開封が確実にわかるような厳重な包装に変更される。が、20年も経つと、コストダウンとか開けるのが面倒くさいとか、そういう理由だろうが、簡便な包装に戻ってしまう。

なぜだろうか。継続しない刺激には、人類は対応できない。

どうやら、個々人の経験は引き継がれず、世代交代でエピソード記憶は廃棄され、個々人の死亡リスクは顧みずに、どんどんチャレンジをしていくように人類はプログラムされているようだ。

人の、チャレンジしたいという願望は巨大で、過去に何があったかという記録を調べて巧くやってやろうという熱意はあまりない。個人差ですと言われてしまいそうですか。

失敗を避ける努力はそんなにしない、その割には、個々人に発生する、知っている人を喪ったときの痛みが大きい。知っている人を喪ったことによる、その場その場の局所的な行動補正は重要ということなのだろう。これは一体どういうことだ。これに関しては納得できる回答を用意できていない。

やはり、神はそれなりに慈愛に満ちて生暖かい視線※で我らを見守っているが、あまり個々人のことは見ていない気がする。


写真は『「給料上げてください」と言われ聞こえないフリをする取締役のフリー画像(写真)』

※生暖かい視線については、 https://www.weblio.jp/content/生暖かい目で見守る を参照

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