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ソファーは友達になれない

子が生後半年になった。
寝返りはヒトの発達を大いに促すらしい。寝返りによって自分で体勢や視界を変える手段を得た子は、そこから驚異的なスピードで自我を形成していき、あれよあれよと言う間に、寝てミルクを飲んで泣いているだけの赤ちゃんを卒業してしまった。
今は、寝返りに寝返り返り、お座りもお手のもの。後ろ向きであれば自分の力で進める。方向転換を駆使して自分の行きたい方向に移動している。

あれが触りたい、あそこへ行きたい、あれで遊びたい、あれが見たい、あれが聞きたい、飲みたい、排泄がしたい、眠りたい、一人でいたい、一緒にいたい、安心したい、ワクワクしたい…
どんどん溢れ出てくる意志に振り回され、押し進められて成長していく我が子。
自分で意思をコントロールしきれず、矛盾した欲を同時に持ってしまってがんじがらめになっている時もあるが、(眠りながら遊びたい、お母ちゃんの腕の中で移動したい等)今、子は自分の意思を持つ喜びを常に感じながら生きているように見える。

子はひとりの人間として自我をスタートさせた。幸せであると同時に、ただ私の施しを享受するだけの、心の半分がまだ黄泉の国を漂っているような存在ではなくなったことに一抹の寂しさを覚えている。

彼女の世界

生後半年の赤ちゃんはママにべったりくっついて、なんでも一緒にやるものだとばかり思っていた。が、私の子に関して言うとそうでもないようなのだ。

前進の練習のときはそっとしてて!手助けしないで!自分が触りたいものは先行して触らないで!おもちゃを一緒に持ちたくない!私1人で持ちたい!1人で遊びたい!今触らないで!等…
自立心が強いのか、はたまたこの時期の赤ちゃんが全員そうなのかは分からないが、おひとり様気質のようなものを少し感じている。

かと思えばふと遊びの手を止めて私の膝に触れてみたり、私の顔をじっと見たり、腕に擦り寄ってくることもある。あ、やっぱり赤ちゃんだなと妙に安心する自分がいる。
子は、ひとしきり私に触れて(もしくは私が見てくれていることを認識して)満足すると、スタコラと自分の世界に戻っていく。私はただ、そんな子の姿を少し離れて眺めている。

心地良い「どうせ」

一か八か悲しみ堪えてみる
so,sad!
どうせクッションか ソファーみたいなぼくだ
愛のど真ん中で 自分の肩を抱きしめる
息子や娘に 僕をあげよう

Who's gonna die first?/ムーンライターズ

上記は私が昔から愛してやまない歌詞の一部だ。
私はこの中の「どうせクッションかソファーみたいなぼく」が昔から好きなのだが、それと同時にこのクッションやソファーみたいな感覚ってなんなんだろうとずっと思っていた。

今、私はこの答えが少し分かり始めた気がしている。
子にとって私はただのソファーなのだ。膝の上に座ってくるからとか、そういう物理的な理由から思い至ったのではない。

ソファーとは、いつでもそこにあることが分かっていて、いつでも座れて、いつでも座り心地の良い存在だ。
「今日は一度も座ってない!座ってあげなきゃ」とか「ソファーさんいつも座らせてくれてありがとう!」など一切思わない。だってソファーだから。そういうものだから。子にとって私は「どうせクッションかソファーみたいな」存在。ああ、なんと心地の良い「どうせ」だろうか。

こんなことに心地良さを感じるなんて、子への自己犠牲に酔っているからではと思われるかもしれない。確かにそれもあるかもしれないが、それよりも、子と向き合ったときに覚えた心の動きは全てが「良いこと」になるからとしか言いようがないのだ。

子の生後間もない頃、私はnoteに
・子どもが産まれたことで、自分の中にある「良いことカテゴリ」の中に「子」が新設された
・子に関することはすべて「楽しい」や「美味しい」に匹敵する…と書いた。

産後のボケた頭でよく書けたな…笑

今もその気持ちは変わらない。
私個人としてのしんどさや辛さの存在は否定しないが、何事もまず最初にカテゴライズするとしたらやっぱり「子」という名のカテゴリに入る。
という訳で、先述の「どうせ」、これは結構ニヤケを含んだ「どうせ」なのだ。
言ってしまえば「一か八か悲しみ堪えてみる…so,sad!」だって、私にとってはこうなる。
「え〜ん‼︎自我が芽生えてお母ちゃんと一緒に遊んでくれなくて悲ちいけど我慢しなきゃ…so,sad!♡」

いつも子は私に「どうせ」と思わせてくれる。

ソファーにしかなれない私

私は子を愛している。しかしそれは人として愛しているのか?と問われると、ちょっと自信がない。
私の頭の中には既に「子」というカテゴリができてしまっている。それが子に関することなら、なんでもかんでも喜びに変えてしまうのだ。
つまり私は、子が良い人なのか悪い人なのかを一生正確に(世間の基準に合わせて)判断することができない。

私は、これから子と出会う人達が心底羨ましい。

関係がまっさらな状態でこんなに良い子(※一生正確に判断できない人調べ※)と出会い、彼女の良いところを発見して好きになれる立場になってみたい。この子良い子だな、友達になりたいな…と心が動く瞬間を体験してみたい。でもそれは一生叶わない。
私の親のスイッチはもう押されてしまったから。私は、彼女がどんな子に育っても良い子と思ってしまうから。

私は一生彼女の友達になれない。
私は私の役割を全うしようと思う。子が歩き疲れた時に、そういえばなんかソファーあったなと思えるようになれたらそれで良い。


どうせ私は座られないソファーみたいなもんですよ
いつかそう言える日が来るのを楽しみに待っている。


(見出し画像は、私とくっついて寝たがらない子が、珍しく眠りに落ちながら指を握ってきたときのもの。ソファーに座っている。)