見出し画像

私もそうするし、そうしない。


子は身体的な面は毎日少しずつ成長しているが、オツムの発達はだいたい3週間おきに大型アップデートが入る感じがしている。
突然できることがあまりにも一気に増えるので、アップデートした瞬間が分かるくらいだ。

アップデートに伴い活動時間が伸びて大人しく寝る時間が短くなり、私を明確に求めることも増えてだんだん自由時間が減ってきた。
はたしてnoteを書く時間は今後どのくらい確保できるのかちょっと心配だ。
勿論、発達に伴う喜びもある。感情が豊かになってきた。エルモのような声できゃらきゃら笑った次の瞬間、地球が割れそうな声で怒り始め、かと思えば3分後にはこの世の終わりのように泣き、泣き終わると大人顔負けの態度でリラックスする。見ていて全く飽きない。

雛人形をお迎えする

浅草橋で雛人形をお迎えした。子の性自認が男性だった場合は五月人形を更にお迎えすることになるのかなぁ。まぁとりあえずそれが分かるまでは身体の性に合わせて雛人形にした。
自分の人生にこんな買い物をする機会が巡ってくるとは思わなかったな。

浅草橋には大小様々な人形店があり、平日に夫と何度か足を運んで、写真を撮り、比較検討した。
人形の世界もなかなか奥深い。人形師によって体格や衣装が大きく異なり、世界観が違うこと。顔にも様々な種類があること、地域による違いがあること、ルールがそんなに細かくなく、実は雛祭りは結構フリーダムなお祭りであること。これらは子がいないとなかなか知る機会が持てなかったと思う。
6店舗ほど見てまわり、とあるベテラン人形師の親王飾りにした。穏やかで気品のある顔立ちと、細やかな衣装が気に入っている。
雛人形を選ぶのはとても豊かな時間だった。
(見出し画像は浅草橋で食べたあんかけうどん)

神頼みしてまで

子の人形を検討している最中、自分の雛人形を度々思い出した。
私の雛人形は祖母が買ってくれた七段飾りで、大阪の小さな家にはまったく釣り合わない大きさだ。リビングを通る時にかなり邪魔だし、触るな触るなと口酸っぱく言われるので私は自分のお雛様があまり気に入ってなかった。なんでこんな馬鹿でかいものを毎年飾るんだろうと思っていたが、自分が雛人形を買う立場になってわかった。
雛人形は、神頼みしてまでも子を災いから守りたい・幸せになって欲しい願いの表れなんだな。人間ができる範囲のことは自分と夫で善処するが、病気や事故・天災など人間の力ではどうしようもできない事柄を神頼みでなんとか防ごうっていうね。

人形を飾ったところで一体何になる、という考え方も認めるけど…願いを持つことが日頃の備えに繋がると考えると、やはり願いの象徴である雛人形は決して無意味なものではないと私は思い直した。

母と娘

ところで私と母は昔から似てない。
顔も背格好も性格も。似ているところを強いて言うなら、輪郭の形と考え過ぎるところくらいか。

似てないからか(自分の気づかぬところが)似すぎているからかはわからないが私達は気もそんなに合わない。10歳の頃にはもう明確に気が合わないと思っていたし、反抗期を終え、就職し、結婚してからも「気が合うな」と思ったことはほぼない…。
意見の相違が度々起き何度も衝突してきた。それでも、金銭的な面で時々揉めたりはしたが基本的な母としての責務は全うしてくれたし、私を遠ざけたりもせず母なりに可愛がってくれたと思っている。

気は合わないけど仲が特段悪いわけでもない、でも一緒にいる気はあまり起きない…そんな母と娘の関係が私はコンプレックスで、母親と友達のように仲良くして旅行や買い物を楽しんでいる友人たちの話を聞く度、心臓の奥の方がチリチリして、なんとなく暗い気持ちになった。
羨ましいとかではなくて、自分にはそういう世界がないことへの、自分に対するガッカリである。

子を産んだら親の苦労がわかるとよく言われるが、私はそれが怖かった。わかったことで母親にされた理不尽な行いを許す自分が生まれ、それが過去の苦しかった自分を否定するようになるのではないか。そうなったとき、私はまともでいられるのだろうかと不安だった。

私もそうする

里帰り出産は最初私の意志ではなかった。義実家や夫が「そうしたら」と強く勧めてきたのが最初のきっかけだ。
最初は気が進まなかったが、老い先短い父(私の父は80歳である)がしっかり孫と向き合う時間が持てるのはこれが最後のチャンスかもしれないと思い直し、大阪に帰って産むことにした。
世話になっておいて何やってんだって感じだが、大阪に戻った直後は4日に1回の頻度で母と小さく揉めた。その度に私は部屋に篭り、母はスーパーへ出掛けてお互い距離をとり、数時間後になんとなくまた話すようになる…そんなのを繰り返した。ああ私達はやっぱり合わないんだ、よくわからない人だと思った。

母の印象が少し変わった(というか、母に対する見方のバリエーションが1つ増えた)と実感したのは、前駆陣痛が始まってからだ。箸もスマホも持てない、会話は勿論、目も開けてられないくらい何も手につかない激痛が11〜15分おきに襲ってくる生活が、出産するまでおよそ2週間続いた。
病院に行く日の前夜、いよいよ身体が限界にきて私はベッドから起き上がれなくなっていた。食事も満足にとれない。なんとか痛みに耐えながら食べても、今度は痛すぎて吐いてしまう。
ゼリーや水を少しずつとって、7分おきまで間隔が狭まった陣痛に耐えていた。(10分未満間隔の陣痛が2時間継続しないと病院に行けなかった為、そうなるまでは家で耐えるしかなかった)母は私の傍を片時も離れずサポートしてくれた。

ある時母の手には皮が剥かれた梨の入った盆があった。
「なはぶき、梨食べるか?」
そう言って母は梨に小さなフォークを刺して、私に渡してくれた。私はフォークを受け取って梨を食べようとしたが、また激痛が襲ってきてフォークを落としてしまった。
「しゃあないなぁ、今日だけやで?」と母はもう一度梨をフォークに刺し直し、私の口元に梨を持ってきてくれた。

30年ぶりに母の手から直接食べ物を食べた。ゼリーと水しか摂っていなかった私の口の中にみずみずしい梨の甘みがいっぱいに広がり、ふと、これから産む赤ちゃんに私はここまでのことをしてやれるだろうかと思った。苦しみの中、妙に冷静な自分もいた。

何時間もの間10分おきに痛みにのたうち回る娘の世話を焼き、状態を見ながら、母は一体どのタイミングで梨の皮を剥いてくれたのだろう。梨は小さく、口に運びやすいサイズに切ってくれていた…世話をしながら、私が食べられるものを一生懸命考えてくれたに違いない。ここまでのことを私は赤ちゃんにできるだろうか。

うん、する。私も間違いなくそうする。

そう自然と思えた瞬間、私は今まで母の分からなかった部分が急に「わかった」。何をどうわかったのかは上手く言語化できない。でも、わかった。なぜか涙が出た。「ごめん」でも「ありがとう」でもなく、ただひたすら「わかった」という気持ちだった。

私ならそうしない

「わかった」という見方を獲得したものの、では過去の出来事もすべて「わかった」と言えるようになったか……そんなことは無い。

あれは訳わかんなかったなとか、どう考えても理不尽だなと思った出来事は、変わらずそのまま頭の中に残り燻り続けている。
でも、これもまた「私は赤ちゃんにするだろうか」「いや私ならしない」と自問自答することで、過去の自分を否定することなくひとつの区切りを付けられたような気がしている。
今まで子の立場しか知らず、母の言動が間違っていると思ったとしても、その考えすら親不孝なのではないか考えてしまい自分で自分の気持ちを消化しきれないまま生きてきたが「私なら自分の子にそうしない」と親目線での見解をつけることで、“子としての自分は”イヤだったんだ、私達は合わない部分は確かにある(けれどもずっとその中で燻る必要はないのだ)と思えるようになった。

親の苦労を知っても、子どもだった頃の苦しみは否定しなくて良い。無理に捨てる必要はない。そのまま持ち続けて、糧にすれば良いのだ。
そんなこんなで、「憑き物が落ちた」までは残念ながらいかないが…私は少し気持ちがラクになったような気がしている。