音のない世界と私
生まれつき100デシベル超の聴力で
重度感音性難聴という名前らしい。
100デシベルがどんな大きさの音かっていうと、爆音のバイクや車の音くらい。
補聴器をつけていない状態で、あれくらいの爆音だったら「なんか音してる?」ってわずかに感じられる。
補聴器をしていれば、人の話し声レベル(60デシベル)くらいが、かろうじてガヤガヤしてるとわかる感じ。
そんな私が、聞こえていないと発覚した時は1歳半。
「一生しゃべれるようにならない」と医者に何度も言われたらしい。
無音の世界に生まれた私。
家族も兄弟も、親戚も、みんな音が聞こえる人。
地元の幼稚園に入園してからずっと、音が聞こえる人と共に生きてきた。
自分だけがまるっきり違うんだ。
幼稚園での英語の時間でも、何を言ってるんだか分からないけど、
頭、肩、膝、つま先をタッチする歌遊びを見様見真似でやっていた。
常に周りの人とは「違う」ことが大前提の世界だったから、人と「違う」ことを恐れなくなった。
むしろ、周りの人とはまるっきり違う自分の事を誇らしく思いながら年を重ねてきたと思う。
「違う」ことこそが、この世で一番素晴らしいことなのだと今でも思う。
ほかの誰ともカブらないオリジナルってことを常に感じられるから。
積み重ねてきた努力や達成感も悲しいことも、全てわたしだけの宝物。
誰もがオリジナルで、その人にしかない人生があるんだけど。
「あたりまえ」っていう強烈な言葉のフィルターで、
個々のオリジナリティをも見失ってる節があるんじゃないかなと思う。
言葉が分からなくて困ることはたくさんある。
言ってみれば、言語を知らない外国に行ったときに
自分にとって分かる(日本語)情報が手元になくて困る、あの感じに似ている。
困りごとがあることもひっくるめて、自分の人生が好き。
音のない世界に生まれてきた事を、本当に良かったなと思う。
周りの人と「違う」ことの素晴らしさを、こんなにも心の底から感じられるおもしろい人生、そうそうないんじゃないかな?
この世でたった一つの「特別な命」である事を、実感している。
そんな風に感じられる人生が最大のGIFTだと思うし、愛おしい。
「違い」をおもしろがれる世界。
そんな感覚が社会の基準になっていけば、
世を占める「障害者」という言葉の定義は、
在るようで無いようなものになるはず。