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【隠れないジブリの名作】耳をすませば(1995)


海がきこえる、耳をすませば

これは一つの詩である。
そして二つの映画である。

前回、わたしは『海がきこえる』について書いた。これで終いにしようと思っていたが、やはりどうしても書かねばならなかった。どうしても。

一つの接続、一つの対照

二つの作品のつながり。
製作上、『海がきこえる』(1993)に宮崎駿が触発されてプロデュースしたのが『耳をすませば』(1995)であるが、いずれも原作モノであり前者は氷室冴子の青春小説、後者は柊あおいの少女漫画。そうか、しかし偶然にもタイトルが連歌のように呼応している・・・

そして内容面では、物語の欠如—強力な物語の対照があるようだ。
つまり、両者とも学生の恋愛をテーマにしているものの、『海がきこえる』は高校生の平凡な日常を淡々と描き、物語が平坦化され、現代的である。(これについては前回のnoteを参照)
『耳をすませば』は中学生の、演劇的といえるような出会い(不思議なアトリエに導かれて進展していく・・・)から夢を強く求めて歩んでいく物語、それは劇的であり、近代的である。

ただし、近代的という言葉を使ったからといって、後者が劣っているというわけではない。いわばゲーテからの系譜、人格形成を主題としたビルドゥングスロマーン(教養小説)であり、古き良き古典的な教養主義といえるだろうか。たとえば、『耳をすませば』主題歌「カントリーロード」のカバー製作プロセスにおいて、
近藤喜文監督が歌詞の一節で「ひとりで生きると 何も持たずに まちを飛びだした」にしようとすると、
宮崎駿は「ひとりぼっち おそれずに 生きようと 夢見ていた」へと変更案を対立させた。(実際、宮崎案が採用されている)
ここからわかるように、宮崎駿にはいわばデカルト以来の近代的主体、マルキ・ド・サド的な強い主体、弱い自分を克服して強い自分になる(克己奮闘、夢をかなえる)、そういうものの流れが顕著に現れている。

そういう理想を作中に流し込むことが、ある種の宮崎駿作品が人々に元気や力、そして行動への動機を与えることにもなる。(それに対して、現代的な『海がきこえる』は元気を与えるというよりもむしろ私たちに日々を与えてくれる)

さて、物語を進めていこう

ではここから具体的なシーンを見ていく。
宮崎駿作品のひとつの特徴として、神秘的なあるキャラクターが物語を積極的に進展させていくことがある。『耳をすませば』においてはそれは猫=猫くん(ムーン)・男爵(バロン)である。

猫・猫・猫

まず序盤のシーンで月島雫と天沢聖司との導き手となる猫と出会う

月島が猫に初めて出会う
このショットは『トトロ』を想起させるかのように、月島は猫に導かれていく・・・
後に天沢と出会うことになる「アトリエ 地球屋」へと

月島がクラスメートの男友達に告白されるも、それを断ったあとに落ち込んでアトリエに一人でにやってくると猫くん(ムーン)が店先にいる

落ち込んでいる月島に猫は寄りそっている
この後、月島と天沢の関係が急接近する

男爵(バロン)—天沢聖司が接続されたとき、月島の中に物語の力を喚起する

猫の人形、バロンとの出会い
後に月島はバロンからインスピレーションを受けた小説「耳をすませば」を書き上げる

物語が進展していくときには猫がいる。いや、むしろ、猫が物語を導いている。

Bildungsroman - 教養小説的物語構成

夢へ向かって進むように登場人物を喚起していく

天沢「あ、月島。お前さ、詩の才能あるよ。」
原田「雫だって才能あるじゃない!」
聖司の祖父「雫さんも聖司も、その石みたいなものだ。(…)バイオリンを作ったり、物語を書くというのは(…)自分の中に原石を見つけて、時間をかけて磨くことなんだよ」
雫の父「よし雫、自分の信じるとおりやってごらん」
月島は物語を書くことを決心して前を向いて歩む
猫がここでも登場する

天沢が自分の夢に向かって歩んでいるのに対して、自分はダメだ、と月島は落ち込んでいたが、周りからの励ましもあり自分も頑張ろうと努力する。
その結果は、うまくいって認められることになる。

演劇的、あまりに演劇的ーやな奴!やな奴!やな奴!

物語に幅を持たせ、豊かにする要素としてやや誇張的な演劇的な感情がふんだんに盛り込まれている。

月島のちょっと悪ふざけで書いた詩を天沢が見つけてからかうシーン
(このシーンが初めて天沢と月島が出会うシーンでもある)

天沢「お前さ、コンクリートロードはやめたほうがいいと思うよ」

天沢がイタリアへ行くことが決まったことを告げられ、月島は物語(小説)を書くことを決心することになる

天沢「イタリアへ行ったら、お前のあの歌 歌ってがんばるからな」

最終のシーン、中学生のプロポーズ(!)

まるでシェイクスピアの戯曲を見ているかのようですらある。

ポスターカラー的な映画、ウォーターカラー的な映画、あるいは一つの水彩画

こうして見てみると余計に『海がきこえる』との差異が目立つことになるのではないだろうか。
つまり、『海がきこえる』は男女が恋愛をするという点は共通しているものの、一定の物語に導かれるというよりむしろその場その場の日常を淡々と過ごし、決定的なもの=演劇的物語に欠け、(強い)自分、翻弄とされながらも敢然と歩む自我のようなもの、がまったく希薄である。

この差異は最終シーンにも現れるが、『耳をすませば』において天沢聖司はギター職人、月島雫は小説・作家の方向へと、困難がありつつもそれでも行動を起こし歩んでいくことが示されるものの、
反対に『海がきこえる』においてはそれまでのシーンで様々なイベントが確かにありつつも、最終シーンでヒロイン武藤里伽子が校舎裏でクラスメートの女子にいびられているのを発見するが杜崎拓は行動を起こせず、見ていることしかできないのだ。そうしてその後は行動が省略され大学生になっている・・・、しかし駅のプラットホームで彼らは自然に、自然に、出会っていく。

ああ、まるで『耳をすませば』がポスターカラーだとするならば、『海がきこえる』はウォーターカラーのようですらある・・・
だがどちらもやはり水彩画であるのだ。耽美的な油画ではなく、人々の生活を丹念にフレーミングした風俗画。これが映画。
海がきこえる、耳をすませば。


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