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新訳 関根という名のうさぎ

わたしは今、牧草を食べています。牧草はいつもプラスチックケースの中にたっぷりこんもり盛られていて、時間無制限の食べ放題です。ケースのふちに前足をのせて、牧草の中に顔面を突っ込むと、わさわさ乾いた音が耳に触れ、すんすんほのかな香りに包まれ、得も言われぬ心地です。この瞬間は、わたしにとって最上のひとときと言ってよいでしょう。寂しくて死ぬことはありませんが、牧草がなければきっと生きてはいけません。

わたしはうさぎ。関根という名のうさぎです。

牧草と一口に言っても、柔らかい葉、ふさふさの穂、ぱきっとした茎など、意外とバラエティに富んでおり、選ぶ楽しみがあります。鼻先で見当をつけ、これだと思う一本を口に咥えて引っ張り出してみると、ぱきっとした長いやつが出ました。こいつは食べ応えがありそうです。早速それを端からポリポリポリポリいただいていると、咀嚼の振動で振り回された反対側がちょうどケージの縦棒にぶつかり、チンチンチンチンと一定のリズムを刻みはじめました。

その音が気になったのか、ソファに寝転んで本を読んでいた飼い主その①が、ちらっとこちらに顔を向け、またすぐ本の方へと視線を戻しました。どうやら『吾輩は猫である』という本を読んでいるみたいです。何かの参考にするつもりなのでしょうか。

ちなみに、わたしは飼い主その①にほとんど尻を向けていますが、わざわざ振り返らずとも、その動きの大体を把握することができました。わたしには死角がないのです。草食動物ですから。顔の真横に目がありますから。なんて得意気に言ったところで、野生で暮らすうさぎのように天敵がいるわけでもなし。こうして飼い主に対してそっぽを向きながら、実は見えてるよーんとほくそ笑むくらいしか使いどころはありません。

宝の持ち腐れとも言えますが、野生の暮らしは厳しいものらしいですから、持ち腐れているのもそれはそれで幸せなのでしょう。飼いうさぎの寿命はおよそ5~10年で、もうすぐ11歳を迎えるわたしはその中でもかなり長寿の部類に入ります。しかし、野生のうさぎは2~3年が寿命というのですから驚きです。どれだけ過酷な世界なのか想像もつきません。牧草や水が自動的に補充されないというのは本当ですか?

さて、わたしの名前の話をしましょう。関根というのは人間の名字であり、普通は人間以外の生き物の名付けに用いるものではないらしいです。なんでも、関根勤という有名なコメディアンがいて、その人の昔の芸名が「ラビット関根」だったことに由来していると聞いています。

「ほら、これが関根さんだよ」などと言われてテレビの中にいる関根勤を見せられたことがあるのですが、確かにわたしが今まで見たことのある人間の中では割とこちら側と言いますか、どことなく親近感を覚える顔つきをした男でした。しかし実のところ、彼がラビット関根と名乗っていたのはうさぎに似ているからではなく、芸能界デビューした年の干支がうさぎ年だったからなのだそうです。親近感は関係なかったです。

本を読んでいたはずの飼い主その①は、いつの間にやら本を腹の上にのせてすぴーすぴー眠っています。このぐうたら人間こそ、関根という珍妙な名付けをした張本人です。

誰かが家に遊びにきて、「うさちゃんの名前は?」と聞かれると、飼い主その①はすっとぼけた顔で「関根だよ」と答えます。大抵の場合、「何だそれ」とか「苗字じゃん」などと突っ込みが入るわけですが、飼い主その①はそれが嬉しくてたまらないらしく、すっとぼけ切れずニヤニヤします。「ラビット関根?」と一発で当てた人には無言でスッと握手を求めたりもします。恐らくわたしがいないところでも挨拶代わりに同じようなことをやっているに違いありません。わたしの存在を勝手に“つかみ”に使うのはやめていただきたいものです。

そんな飼い主その①とわたしの暮らしは、まるでルームシェアのようでした。その①はわたしを撫でるよりビールを飲んでいる方がよっぽど癒されるとみえて、基本的な世話以外はほとんど干渉してきませんでした。

一方のわたしはわたしで、人間に撫でられたり抱かれたりしたあとには全身を舐めまわしてきれいきれいしなければ気が済まない質なものですから、むやみやたらに構ってはこないが、ごはんはくれるし掃除もしてくれる飼い主その①は大変に都合がよい存在でした。わたしたちはそっちはそっち、こっちはこっちという具合に、それぞれの時間をのんびりぐうたら過ごしてきたのです。

そんな生活に、ある年、転機が訪れます。わたしと飼い主その①は、都会の1LDKから田舎の2LDKに引っ越しました。まあ、都会だろうが田舎だろうが何LDKだろうが、わたしは基本ケージ暮らしなのでどうでもよいのですが、大きく変わったことがひとつ。飼い主その①の夫、飼い主その②の登場です。

この飼い主その②という人間、やたらとわたしに構いたがります。「おはよう」や「おやすみ」は勿論のこと、水を飲めば「飲んでるねえ」、牧草を食べれば「おいちいねえ」、ぼーっとしていれば「生きてるねえ」など、とにかくめちゃくちゃ話しかけてきます。いくら話しかけられたところで、うさぎには如何せん声帯というものがありませんから、うんともすんとも返してやることができません。結果、無視です。しかし、飼い主その②は悲しむどころかへらへらして、むしろ無視されることを喜んでいるかのような反応を示します。一体どういうメンタリティーなのでしょう。うさぎには到底理解できそうにないので、気にせず放っておくことにしています。

ドライな関係を築いてきた飼い主その①と、溺愛してくる飼い主その②。飼われている身としては、ちょうどいいバランスと言えるかもしれません。

さて、いつも仲睦まじく暮らしている飼い主その①と飼い主その②ですが、たまに揉めることもあります。そんなときに度々用いられるのが、「ねえ? せっきー?」とわたしに問いかけて誤魔化す手法です。わたしに振られてもどうしようもないので例のごとく無視を決め込むのですが、不思議なことに口論はそれで収束します。ボクシングではリングにタオルが投げ込まれると試合が終わるそうですが、同じような仕組みでしょうか。

乗りかかった船ですから、わたしは今後とも二人が仲良くいられるよう協力していくつもりです。まあ協力といっても、ただ黙ってそこにいる、それだけのことです。でも、それが結構大切なのではないかと、手前味噌ながら思ったりもします。

わたしは飼い主その①が飼い主その②に出会うまでの恋愛なり歴代彼氏なりをすべて把握していますが、家庭内でうっかり余計な情報を漏らすようなヘマは勿論いたしません。うさぎというのは犬のような忠誠心は持ち合わせていませんが、口は堅い生き物なのです。



***

わたしと飼い主その①が出会った日のことを振り返ってみたいと思います。

わたしたちは、2011年の12月に今はなきペットランド札幌駅前エスタ店で出会いました。わたしの生まれは茨城県らしいのですが、この世に生を受けたばかりのどさくさの中、ふにゃふにゃしているうちに、何がどうしたらそうなるのか、寒い寒い北の大地に運ばれ、他のうさぎたちと並んでケージの中へと収まる羽目になりました。

当時のわたしはペットショップがどういう場所なのかもよく知らないベイビーうさぎちゃんでしたので、茶色いふわふわの毛に包まれているのに心はすーすー寒いような、漠然とした不安と寂しさを抱えていました。それでもお腹は空くので、とりあえず牧草をぽりぽり、便をぽろぽろさせるばかりの毎日。そんな中で唯一心穏やかになれたのは、ときどき貰えるミルク味のクッキーを食べているときでした。花を模した形のクッキーで、その味は何だか懐かしいような温かいような、ほっとする味でした。

ペットショップでの暮らしに付き物なのが、ぬっと現れる人間の顔面です。日々入れ替わり立ち替わり、ぬっ、ぬっ、と覗き込んできます。なぜそんなことをするのかさっぱりわかりませんでしたが、どうやら飼い主その①もその顔面のうちの一つだったようです。

ある日、ふわっと体が浮遊したので、ああ、これはいつもの、ケージから出されて数分後に戻ると散らばった牧草や便がきれいさっぱり無くなっているあの不思議現象だな、と思って呑気にしていたのですが、その後、わたしがケージに戻ることはありませんでした。

「ママ来たよ〜。」

店員がわたしに声をかけます。店員がママと呼んだその人物こそ、飼い主その①でした。のちに飼い主その①は店員からママ呼びされたことについて、「その発想はなかった」と語っています。わたしもその発想はありませんでした。わたしにとってのママは、姿はうまく思い出せませんが、ミルク味のクッキーの匂いがする何か、なのです。

わたしは紙箱に入れられ、ケーキのように運ばれてゆきました。しばらくして外に出されると、そこは未知の景色、未知の匂い。わたしはテンパって、でもテンパっていることを周りに悟られまいという草食動物の本能で、その場にうずくまって只々じっとしていました。

おそらくここは、ペットショップとはまた違うケージの中。お腹が空きました。テンパりすぎて気付きませんでしたが、大好きな牧草の匂いもします。しかし、無闇に動くのは危険。しばらくの間、空腹と恐怖の狭間をウロウロしたのち、わたしは辛抱たまらず、ついに牧草を一本引っ張り出して、この新しい場所での記念すべき初ぽりぽりをキメたのでした。

飼い主その①は、のちにわたしの記念すべき初ぽりぽりについて、「秒針の音かと思った」と語っています。ペットショップの店員からのアドバイスに従い、最初はケージを布で覆っていたので、わたしの姿が見えなかったのです。布の隙間から覗くと、家に着いてからずっと小さく固まって動かなかったわたしが牧草をぽりぽり食べていたので、ほっと胸を撫で下ろしたとか。

牧草を食べている最中、皿の上に何かが置かれて、わたしはその匂いに条件反射で飛びつきました。なんと、そこにあったのは、あのミルク味のクッキーでした。ペットショップ店員の綿密な引き継ぎには感謝してもしきれません。このクッキーが貰えるならば、これからなんとかやっていける。そう思いました。

こうして、当時まだワンルームで一人暮らしをしていた飼い主その①との共同生活が始まりました。関根という名前すら決まっていなかった、初日の話です。

ところで、わたしの値段は七千円で、ケージは一万円だったそうです。飼い主その①は事あるごとにそれをネタの一つとして周囲に吹聴しています。まったく失礼な奴です。



***

みなさんは、「うさんぽ」をご存知でしょうか。うさぎを飼っている人たちの間で、うさぎを外で散歩させることをそのように呼ぶのだそうです。

とは言え、うさぎは部屋の中を歩き回る程度で運動としては十分らしく、外は危険も多いため、うさぎにとってストレスにならないよう、連れ出す際はいろいろと注意が必要、なのだとか。

飼い主その①はうさんぽに対して冷めていました。危険もあるのに、わざわざ連れ出す意味がわからんと。うさぎと散歩でうさんぽって、ちょうどうまいこと略してるのも気に食わねえと。しかし、実のところ、危険とかストレスとか言われて大いにビビり散らしたのを虚勢で誤魔化していたに過ぎず、本心ではうさんぽをしてみたかったに違いありません。その証拠に、飼い主その①と暮らしはじめて数年後、わたしはついにうさんぽデビューを果たします。場所は近所の公園でした。

公園まではキャリーバッグに入れられて移動したので、突然、太陽の光が直に当たる世界に解き放たれて驚きました。四方八方から知らない匂いが物凄い勢いで迫ってきます。あまりに情報量が多すぎたので、しばらく座って様子を伺い、心と体を慣らしてから周囲を散策しました。土の匂い、草の匂い、風の匂い、なんかの匂い。ハーネスは邪魔でしたが、広々とした世界を自由にあちこち嗅ぎ回れたのはなかなか面白かったです。

そんなわたしの様子をベンチに座って眺めながら、飼い主その①は缶ビールを飲んでいました。うさんぽという行為のプリティ要素を缶ビールで中和させる試みだったらしいです。缶ビールを飲みながらうさぎを散歩させている人物というのは人間界でどのように見られるのでしょうか。わたしは知る由もありません。

予想外だったのは、通行人にやたら話しかけられたことです。犬が主流の公園散歩界隈において、わたしはちょっとした珍獣扱いを受けました。犬の飼い主に「うさぎちゃんもお散歩するの? 可愛い!」と褒められたり、子連れの母親が「うさちゃん本物はじめてだねえ!」と歓声を上げ、幼児にじっと見られたりしました。幼子の情操教育の一端を担うことができたのなら何よりです。などと誇らしい気持ちになったのも束の間、ジョギング中の高齢男性が近づいてきて、「それ、ねずみか?」って。うさぎです。

そうしてうさんぽデビューを果たしたわたしでしたが、結局その後、飼い主その①がわたしをうさんぽに連れ出した回数は両手で数えて足りる程度でした。わたしのストレスを考えて、というよりは、単に飼い主その①が出不精だからだと思います。わたしとしてもやっぱりケージの中で牧草をぽりぽりしているときが一番落ち着く時間ですので、そういうところでは気が合うのかもしれません。



***

飼い主その①と飼い主その②が結婚し、新たな家に引っ越したのは、ある夏のことでした。

その夏の思い出といえば、花火です。近所で花火大会が行われ、ドーンドーンと低くて大きな音が鳴り響き、わたしは思わず後ろ足をダンダンッと床に叩きつけました。

飼い主たちが調べたところ、うさぎが後ろ足を鳴らす理由の一つとして、「危険が迫っていることを仲間に伝える」というのがあったそうです。飼い主その②は、「俺たちに危険を伝えようとしてくれたんだ!」といたく感激していましたが、基本ドライな飼い主その①は、「うるさくてムカついただけでしょ」と鼻で笑っていました。実際のところ、うるさくてムカついただけでした。

いや、でも、もしかしたら動物の本能というやつで、無意識に危険を知らせていた、という可能性もなくはないかもしれません、と、言っておかないと飼い主その②が不憫なので、そういうことにしておこうと思います。

世話してもらう立場で言うのもなんですが、飼い主の一員として加わった飼い主その②が、だんだん飼い主として成長していく姿が見られたのは感慨深かったです。飼い主その①にあれこれ指導されながら世話の仕方を覚え、最終的には誰より積極的に世話を焼いてくれる存在になりました。

これはちょっと感動した話なのですが、ある時、飼い主その②がわたしを仰向けに抱き上げました。わたしはなんだかびっくりしたし腹も立ったので、その顔面におしっこを引っかけてやりました。そんなことしなくても、と思われるかもしれませんが、如何せんうさぎには声帯というものがありませんので仕方がないのです。男は黙ってサッポロビールというCMが昔あったそうですが、うさぎは黙って放尿です。

そんな事態ですから、慌ててわたしを投げ出したとしても責められはしないでしょう。しかし、飼い主その②はわたしをしっかり抱いたまま、決して離しはしませんでした。立派です。飼い主の鑑です。感心したので、もう一発引っかけてやりました。「ぶへ、ちょっと口に入った」と苦しむ飼い主その②を見て、飼い主その①は爆笑していました。こっちは飼い主どころか人としてどうかと思います。

この話のあとで信じてもらえるかわかりませんが、わたしはきれい好きです。本来であれば、自分で全身をペロペロ舐めまわしてきれいきれいするのが日課なのですが、最近、足腰が弱り、腰の位置が下がったことによってお尻や足が汚れるようになったので、飼い主たちが週一回、二人掛かりでシャンプーしてくれるようになりました。飼い主その①がシャンプーで洗う担当、飼い主その②がわたしの体を支える担当です。水に濡れるのが苦手なので、正直かなり嫌です。暴れたろか、と思いますし、実際暴れています。

この部屋に来てからのわたしは体調を崩しがちで、病院に行ったり、薬を飲ませてもらったりすることが多々あります。そんな老うさぎの介護を、ときに笑いながら、ときに揉めながらやっている二人の姿を見ていると、自分で尻をきれいきれいできなくなるまで長生きした甲斐があったな、と思ったりしなくもないです。



***

今しがた、インターホンが鳴って、大きなダンボールが届きました。その中には、先日飼い主その①がいつものようにネットで注文した、わたしのためのあれやこれやが詰まっています。長年食べ続けているお馴染みのペレットが二袋、わたしの大切な主食である牧草が六袋、そして買い置きが二つあるのを忘れてまた二つ買ってしまった藁ボール。

このネットショップでは5,980円以上購入すると送料が無料になるらしく、どうしても送料をケチりたい飼い主その①は5,980円の壁を超えようと毎度毎度すぐには消費できない量をまとめ買いしてしまうので、ダンボールが届いたあとはいつも収納から溢れ返った在庫がわたしのケージ横に無理くり積まれる事態となります。インテリア的な視点でいえば雑然以外の何物でもないのでしょうが、わたしにとっては食いっぱぐれる心配がなさそうで、大変心強く好ましい光景です。

しかし残念なことに、今日届いたダンボールの中身がケージの横に積まれることはもうありません。ペレットや牧草を食べることも、藁ボールを転がすことも、もうできません。何を隠そうわたし、死んでしまいました。10歳10ヵ月でした。

最近なんだか息苦しくてだるくって、普段なら一日中ぽりぽりするほど大好きな牧草を食べる気さえ起きなくなってしまい、おかしいなあとぼんやり思っているうちに、何だか体に力が入らなくなってふらふら。すてんと転んでしまうこともしばしば。自力で起き上がるのが困難となり、すっかり寝たきり状態となってしまったのです。草食動物としてあるまじきことですが、もはや周りの様子を察知することもままならず、息苦しさに耐えることで精いっぱい。

飼い主その①に連れられ、いつもの病院に行きました。診断は肺炎。体温が低下し、体重も極端に落ちているとのこと。どうりで動けないわけです。診察台の上に横たわり、「人間でいうところの危篤状態です」という先生の言葉をぼんやりと聞いていました。

こちらの先生はとても丁寧で優しいことに加え、腕毛がやたら濃いので親近感もあり、安心できるかかりつけ医でした。超高齢うさぎであるわたしの食欲が一向に落ちないことに驚き、「頑張ってるねえ! すごいねえ!」といつも褒めてくれました。そんな先生にお会いしたのも結局この日が最後となってしまいました。診察のたび肛門に体温計をぶっ刺されたこと以外は大変感謝しております。

ずっと水も飲めない状況だったのですが、先生からの勧めで飼い主その①が野菜ジュースという飲み物をくれました。生まれて初めて飲むものでしたが、口に入った瞬間、衝撃が走りました。あまりにもおいしい。おいしすぎる。この世にこんなに甘くておいしい飲み物があったなんて、もっと早く知りたかったです。いや、おそらく常飲させてもらえるほどうさぎの健康に良いものではないのでしょう。まさに禁断の味。わたしにとって最大のごちそうであるチンゲンサイをも超えるくらい、ものすごくおいしかったです。

野菜ジュースのおかげで少し生気が戻ったわたしでしたが、それもほんの束の間でした。夕方頃からまた息苦しさが強くなってきて、さっきまであんなに飲みたかった野菜ジュースでさえ喉を通らず、病院からもらった薬も飲むことができなくなりました。仕事から帰った飼い主その②が回復を信じてチンゲンサイを買ってきてくれたようですが、それも食べられそうにありません。

そして、その夜。

明らかに様子がおかしかったのでしょう。ソファに座っていた飼い主その①が飛んできて、すぐに寝室で仮眠していた飼い主その②を起こしに行きました。わたしは飼い主その①に抱かれ、その②にも抱かれ、またその①の元に戻されたところで、名前を呼びかけられながら、その腕の中で最後を迎えたのでした。二人はぼろぼろ泣いていましたが、ちゃんと二人が揃って家にいるときに逝ったわたしは、なかなか飼い主孝行なうさぎと言えるのではないでしょうか。

いつもわたしに対してドライだった飼い主その①がこんなに泣くなんて意外でしたが、悲しませて申し訳ない反面、ペット冥利に尽きるなと思いました。あの皮肉屋であまのじゃくな飼い主その①が、泣きながら素直に「今までありがとう」なんて言って頬の毛を撫でてくれるのですから、一生に一度は死んでみるものです。

さて、うさぎを飼っている人たちの間では、うさぎが亡くなったことを「月に帰った」と表現したりするそうですが、以前から飼い主その①はその考え方に賛同しかねるようでした。というのも、飼い主その①の唯一嫌いな食べ物がよりにもよって餅なのです。「私が嫌いな餅をつくために関根がわざわざ月に帰るはずがない」とのことです。

そんな飼い主その①への忖度というわけではありませんが、確かに餅をつく労働に従事するのは億劫ですし、宇宙空間に一旦出なくてはならない点も正直不安なので、月に行くのはやめておこうと思います。しかし、ただ骨になるだけというのも、やはり寂しい気がします。

そこで考えたのですが、わたしは『千の風になって』でいこうと思います。そうです、「私のお墓の前で泣かないでください」というあの曲です。以前、酔っ払った飼い主その①が「あの歌詞の考え方は非常に納得できる」というようなことを酔っ払いならではの謎の真剣さで熱く語っていたのを聞いた覚えがあります。

あの曲によれば、死んだら千の風になって大きな空を吹きわたったり、光になって畑にふりそそいだり、雪になったり鳥になったり星になったりするらしいです。しかし如何せん、わたしはリビングに解き放たれても自らさっさとケージに帰ってしまうような超インドア派うさぎでしたので、あんまり壮大なのはちょっと荷が重いです。

なので、わたしは千の家具家電になろうと思います。この部屋の、冷蔵庫になって、テレビになって、時計になって、ダイニングテーブルセットになって、リングフィットアドベンチャーの丸いやつになって、飼い主二人を見守ろうと思います。リングフィットアドベンチャーの丸いやつは最近使っているところをほとんど見なくなったので、鎮座するにはちょうど良いでしょう。だから、私の骨壷の前で泣かないでください。

関根という名のうさぎは、これからも二人のそばにいます。ずっとずっと、いつまでも。



この文章は、今年6月に閉鎖した読み物サイト「BadCats Weekly」で2022〜2023年に連載していたエッセイ【関根という名のうさぎ】をまとめ、加筆修正したものです。



関根の話をまとめたマガジンはこちら。


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長瀬ほのか
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