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古生物学者の夫

うちのリビングの奥にある壁一面の本棚は、右側と左側でまるで景色が違う。

向かって右側は私の縄張りで、小説が多く並ぶ。文庫本の背表紙が、細い縞模様を成している。

一方、夫の縄張りである左側に並ぶのは、『アンモナイト学』、『絶滅古生物学』、『古生物学の百科事典』、『波紋と螺旋とフィボナッチ』、『イカタコ図鑑』……。取り出すのも億劫になりそうな重量級の図鑑や、妙なタイトルの専門書が、どっしり幅を利かせている。

昔、二人で観た映画で、相手の本棚のラインナップが自分の本棚とそっくりで恋に落ちるシーンがあった。その理論でいくと、私と夫は恋に落ちないだろう。


夫は古生物学者で、アンモナイトを研究している。山に入って化石を採集したり、新種の論文を書いたりしている。

と話せば、大抵の人は珍しがるので話題に困らない。小手先の処世術だけでのらりくらり生きてきた私にとって、夫の専門性は眩しい、と同時に、恰好の話のネタでもある。「アンモナイトとは、一億年前に世界中の海に生息していた古生物で、貝のように見えるが実はイカやタコの仲間である!」などと居酒屋で得意げに受け売りを披露している者を見かけたら、それは私だ。

古生物といえば、世間的には恐竜の人気が圧倒的に高い。夫も小さい頃は恐竜に夢中だったらしいが、曰く、恐竜は憧れのハリウッドスター、アンモナイトは握手できるアイドル。大学院の研究室ではじめてアンモナイトを触った時、一億年前の生き物を丸ごと手中に収め、にぎにぎできる喜びに魅せられた。それからずっと、アンモナイト一筋である。

夫の研究は地道なものである。話しかけても返事がないので様子を見に行ったら、指先サイズの極小アンモナイトの身長(?)をちまちま測っていた。夫は指が太いのに手先が器用で、餃子を包むのが上手い。なんでそんなに上手いの? と聞いたら、「折り紙得意だから……」と照れていた。夫の実家には、子どもの頃作った折り紙の恐竜が大切に保管されている。


付き合いはじめてすぐの頃、夫が当時勤めていた博物館に遊びに行った。展示室は見渡す限りアンモナイトだらけで、群れに紛れ込んだような気分だった。

「アンモナイト、いる?」

そう聞かれて、何の気なしに「いる」と答えた。夫はすぐさま奥の部屋へと消え、カンカンカン、とか、ウィィィンみたいな音が漏れ響いた。後から知ったが、石を割ったり削ったりして、中に入っているアンモナイトを取り出す音だったらしい。戻ってきた夫から、「んっ!」とカンタがサツキに傘を差し出すくらいの距離感で、出したてほやほやのブツが渡された。

アンモナイトは手のひらにすっぽり収まるサイズで、握れば隠れ、ひらけばそこにあった。にぎにぎと、具現化された時間の流れを手中に収める。私は夫を介して一億年前と繋がったのだ。


結婚式では、ケーキ入刀の代わりにアンモナイト入刀をした。はじめての共同作業と称して石をハンマーで叩き、中からパカッとアンモナイトが出てくれば大ウケ間違いなし、という私の妙案であった。

そのためのアンモナイトを二人で山に取りに行った。夫がよく調査に来るというスポットに到着すると、そこは道もなければ電波もないガチ山であった。目的の河原を目指し、藪やら枝やらかき分け、道なき道をゆく。想像を超える過酷さに、私の全身を後悔の二文字が駆け抜けたのは言うまでもない。

アンモナイトが入っている石には特徴があるというが、教えてもらったところでさっぱりだった。落ちている石を闇雲に拾い上げ、「これは?」と夫に見せるも、「違う」と一蹴される。私はものの30分で飽きて、熊避けに大声で歌う係になった。夫は河原を縦横無尽に歩き回り、アンモナイト入りの石を透視の如く見極めた。夫が集めたいくつかの候補の中から、二人で一つを選んだ。手のひらには収まらない、大きな石だった。

結婚式当日、石はハンマーで数回叩くと綺麗に割れ、中からちゃんとアンモナイトが出てきた。目論見通り、大いにウケた。ハンマーの柄に花をあしらったのを友人たちが指摘してくれて嬉しかった。この日のアンモナイトは、今も玄関に飾っている。


夫は時折、奇妙な行動を取る。一緒に歩いていると、突然フラッと、あらぬ方向へ進路を変えるのだ。その行く先の可能性は二つあって、ラーメン屋、もしくは、大理石の壁である。大理石の中には化石がそのまま埋まっていることが多々あり、壁をじっと見つめては、後ろからのろのろ追いかけてきた私に、「ほらこれ、アンモ!」と指し示す。以前、一人の時にしゃがみ込んで床の石材を見ていたら、通行人に声をかけられたらしい。
「大丈夫ですか? コンタクト落としました?」

私は自分より面白い人間に妬み嫉みを覚える質だが、夫には安心してひれ伏すことができる。夫は面白い。手放しでそう言えるのは、夫が面白いことを、どこかで自分のことのように思っている強欲さ故かもしれない。

以前、夫の仕事の愚痴に対して、「それは一般的には当然でしょう」みたいな反論をしたら、予想外に怒ってしまった。

夫は「変わっている」と言われるのを嫌う。人とずれている為にうまくいかなかった苦い過去や、化石界隈に生息する本格的に話の通じない奇人に振り回された経験から、他人に理解してもらうことを重んじ、理解されないことをひどく恥じる。

一方、私は変人に思われたい。変人ぶることができるチャンスをいつも虎視眈々と狙っている。その浅はかな欲望に、人生のほとんどを費やしてきた。そのくせ、夫を一般論で説き伏せてやろうという卑しい心が、確かにあった。

夫は時々、アンモナイトに話しかける。「ずっと暗いところにいたのに、眩しいよねえ」とか、「アンモの気持ちが知りたいなあ」とか、甘ったるくて、隙だらけなことを言う。科学も突き詰めると、愛なのだろうか。定期的に「好きなものランキング」の発表を夫に強要するが、私はたまにアンモと一位タイにされる。

とはいえ、夫が愛でているのは結局、石である。アンモナイトと呼んでいるのは生き物ではなく、元は生き物だった石に過ぎない。こんなにアンモナイトが好きで、生きているのを見ているかのように語る人が、生きているアンモナイトに会ったことがないとは何とも変な話である。もし今後科学が猛烈な進歩を遂げ、一度だけタイムマシンに乗れる権利を福引とかで当てたなら、私はその権利を夫に譲る。一番出来の悪いご先祖にネコ型ロボットを送り込めば人生が好転するとしても、絶対に譲る。

夫は毎日こつこつ、アンモナイトと向き合っている。人類と入れ違いで絶滅した、生きている姿を見たことがない、石の塊の、気持ちを知ろうとしている。それが夫の生きる道だとしたら、私は何をしよう。

私はずっと、野望ばかりを丹念に育てながら、だらだらと時間を浪費してきた。抜け出す機会は何度もあった。大学生になった時。一人暮らしをはじめた時。友人が転職した時。私も転職しようと思い立ち、内定が出た時。やっぱりやめた時。失恋した時。流行りのミュージシャンが年下になった時。母親が手話を習いはじめた時。

決意はいつも日々に溶け、日常をそつなくこなすことで小腹を満たしているうちに、年月はあっという間に過ぎ去った。結局、私に必要だったのは、好きな仕事を自分の努力で掴み取り、没頭する人間を身近に置くことだった。夫と出会っていなければ、私はきっとまだ文章を書いていない。

死んだ祖父にはじめて夫を会わせた時、第一声で「話合うんか?」と心配された。合う時もあるし、合わない時もある。それでも、祖父があの世でちょっと引くくらい、我々はべったり生きている。台所でイカの解剖が執り行われる際は協力するし、年末調整の紙は毎年書くのを手伝ってあげる。もし誰かに何か言われて傷ついたら、夫が思いつかないような陰険な切り口でそいつをクソミソに罵ってあげる。まるで違う本棚を持つ我々は今日、結婚5年目を迎える。

「次に新種の論文を書くときは、私の名前から命名してもいいんだよ」

そう提案してみたが、身内の名前は恥ずかしいから使わないと言われた。つまらん羞恥心である。古生物学者のくせに、ロマンが足りない。恋愛小説でも読んでみたらどうだ。



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長瀬ほのか
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