OTG#06_20190404
大塚ギチへのインタビューは2019年の3月27日、4月4日、4月12日の3回に分けて、西新宿の大塚の自宅で行われた。録音時間は計8時間に渡り、ここでは約1時間分ずつテキスト起こしという形で紹介していく。
生前の大塚の言葉をできる限り残したいという目的から、カットや修正は最小限にとどめ、ほぼノーカットでお届けする。そのぶん話題の繰り返しなど冗長な部分も残っているが、療養中の大塚の話にゆっくり付き合う雰囲気を感じていただけたらと思う。
なお、生前の大塚は転倒事故とそれによるクモ膜下出血の後遺症で、記憶に障害を負っており、転倒前後からの記憶には喪失部分や誤認、思い込みなども多く混じっている。そのため本人の証言が実際の事実関係と食い違っている可能性もあることを、あらかじめご了承の上お読みいただきたい。
聞き手・構成・写真 野口智弘(※写真は往時のアンダーセルの応接間で、収録が行われた大塚宅とは異なります)
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【#01】 【#02】 【#03】 【#04】 【#05】 【#06】 【#07】 【#08】
(#05から)
上京、編集者前夜
――そこで面白いなと思って聞いてるのは、アウトローはアウトローでももっとベタなヤンキー像というか、お金は全部親からパクってとか、もっと野放図な感じもあると思うんですけど、そうじゃなくて自活もしつつ、オタク活動もしつつ、喧嘩があったら降りかかる火の粉は振り払うみたいな、不思議なバランスですよね。
大塚 そうねえ。べつに喧嘩も強いわけじゃないからね。自分から積極的にそういうことをしたりはしてなかったけど。
――僕自身は喧嘩の試合数そのものが少ないから、打率や勝率もわからなくて(笑)。
大塚 うん。そういう意味で言えば……。
――まあまあ勝ってた?
大塚 勝ちもしないし、負けもしないしね。
――じゃあおたがいノックダウンまでは行かずに噛みつきあってから「チッ」みたいな感じで離れていくんですかね。
大塚 いや、それすらもないよ。やっぱりまわりの認識からすれば単純に変な奴だったから。手が出ることもないよ。「おかしな奴だから気をつけろ」みたいなことがあったんじゃない?
――じゃあガンをつけるぐらいで留まるというか。
大塚 というか俺そこまでのヤンキーかと言ったら……(笑)。
――僕が最近ドラマでやってた『今日から俺は!!』を見てたのがよくないのかもしれない(笑)。
大塚 なんかあればなんかするけど、何もなかったら何もしないというぐらいだし「(オタクとヤンキーの)ハイブリッド」という言い方をさっき野口がしたけども、やっぱりオタであるというのが根本にあるから、あんまりそういう経験はあったりなかったり。喧嘩やってもバイト先の社員の先輩たちとかにかなわないのもわかってるからさ。あの人らの育ちの悪さというか、半端なかったからなあ。
――もっと上の学年のアニキたちがバイト先にいるから。
大塚 そういう意味では最初は「なんだこいつら?」と思って歯向かってたけど、歯向かい切れねえなあと思って、わりとかわいがってもらってたけどね。
――そこから上京って高校卒業のタイミングということですか?
大塚 いや、高校2年の最後。もう3年になる前に高校辞めて上京しちゃったんだよ。
――聞くだけ野暮な気はしますけど、住民票がどうのこうのとか、上京の手続きとかって大丈夫なんですか?
大塚 知らない(笑)。
――いや、高校時代に保護者の許可なく上京ってことができるのかどうかという可能性が全然わからないんで(笑)。
大塚 俺もわかんない。ただまあ、うちの親は公務員だったんで、つらい思いをさせたんだろうなと思うけど、俺からすれば「もう高校生活はいいだろう」と思って。
――大学受験とかそういう意識がもともとないということですよね。
大塚 いや、本当だったらというか当初は美大に行こうと思ってたんで。で、美術部に入ったりもしてたから、そういうことに関してはいちおう考えてはいたんだけど、さっきも言ったようにお金を自分で稼げるようになっちゃったのがまず大きいね。その経験値があればひとりで生きていけるだろうと思ったんで、学校生活をあと1年送ってても、いまの自分に必要なものではないんじゃないかなという、ある種の勘違いをして、高校を辞めて。で、東京に出てきたという。
――中退ということに?
大塚 うん。だからいまでも学歴は中卒なんだよ。あのときには何も不安がなかったし、ワクワクしかなかったけどね。
――「まあ、バイトすれば金はなんとかなるだろう」的な。
大塚 なるだろうと思ってたね。という気持ちで上京して。
――最初はどこだったんですか?
大塚 お前がいま住んでるところだよ(笑)。
――松戸? 大塚さんの最初の上京先が松戸なんだ。それは都内に出やすそうなところを適当に見つけてみたいな?
大塚 いや、そのときはね、なんかツテがあって松戸に来ることになって。『バーチャファイター』で有名なキャサ夫ってプレイヤーがいるけど、あいつも同時期の17歳のときに旭川から都内に上京してて。
――キャサ夫さんも北海道ご出身なんですか。
大塚 あいつは旭川。旭川から札幌近辺にかけてかなりブイブイ言わせてたプレイヤーなんだよ。あの当時、旭川にいる人間で全国区に名前を広めてたからね。
――それはゲームで? ヤンキーで?
大塚 ゲーム、ゲーム。
――キャサ夫さんの年齢は?
大塚 同い年。だから東京に出てきたのも同時期。あいつ『バーチャ』以前からゲームのスコアラーとして全国的に有名だったんだよ。
――ああ、そういうことか。
大塚 だから全国のゲーマーと付き合いがあったんだよ。で、あいつも「べつに高校行かなくていいや」と思って17歳で上京して。だから俺と上京のタイミングがほとんど一緒なんだよ。キャサ夫は有名だったよね。ただキャサ夫と会って、いまみたいに普通に連絡取り合うようになったのは近年だけど。あいつとはずーっとニアミスをし続けてたよ。まあ、同い年で北海道出身だからわかることも多いんで。で、上京してからは普通に働いて。ただ「どうしようかな?」みたいに思ってた時期はあるよね。知り合いがいないからね。
――話が戻っちゃうんですけど、高校時代にオタク的な情報を得てたのって『ゲーメスト』買ったり『Newtype』買ったりみたいな感じですか?
大塚 まあ、全然普通にあるけど。ほかの人よりは多かったんじゃない? それは編集者としての自分の血肉にはなってると思うけど。
――そういう雑誌はずっと読んでたんですか?
大塚 もちろん読まないわけないでしょ。山のように読んでたよ。それを周囲にオープンにはしなかったけど。それよりは高校生活をエンジョイするためにいいことも悪いこともしてたというだけであって。
――でも面白いですね。そこから脱オタクの方向に行く人もいる気がするんですけど、そういうわけでもなく?
大塚 俺が東京に上京したときに一番最初に感じたのは……そんなに俺のむくんでる足を見なくていいから(苦笑)。
――いや、見てないですよ。
大塚 上京して思ったのは、同い年の高校生たちのファッションスタイルが全然違うということだよね。さっき言った裸サスペンダーとかではなくて――もっとみんなおしゃれになっちゃってたんだよね。
――東京はツッパリがどんどんいなくなってる時代で。
大塚 なってた。松戸という場所にいたから多少はあったけれども、そういうガラの悪いこともさんざんしたけども。まあ、上京後のバイト先の後輩たちはそういう連中ばっかりだったし。いろいろやったけど、やっぱり自分のなかではしっくり来なくて、もといたファストフードのバイトに行ったら雇ってくれたんで。バイトの経験値がほかの十代より圧倒的に高かったので。
――大学でバイト始めた子よりは全然使える的な感じで。
大塚 うん。新人じゃないからね。松戸の駅前でさんざん働いて、夜は若い連中を連れて、お金はあるから駅前ロータリーとかで酒飲んだりとかして。
――いまも東口を出たあたりにゲーセンあったりしますけど。
大塚 昔はもっと多かったよね。
――例のデカいガンダムが置いてあったところとかも。(※現在も営業中の「namco東京ガリバー松戸店」には同じビル内に2003年から2006年までバンダイミュージアムが併設されていた)
大塚 バンプレスト以前だからね。その頃はでもガラの悪い連中も多かったけど。外人の方も多くて。
――中国人韓国人はもともと結構多かったみたいですね。最近はそれ以外の人種も増えてますけど。
大塚 俺がいたころは駅前のロータリーの上で結婚式とか上げてたなあ。
――いまでもイベントスペース的なのはありますよね。
大塚 あんまり変わらない感じはあるけどね。ただガラの悪いガキどもとつるんでたからさ、夜中に仕事終わったあとにロータリーの上で酒飲んだりしてて、誰かがロータリーの下に空き缶蹴飛ばしたら、下にあるベンツに落ちちゃって、俺ら全員で逃げなきゃいけないとか(笑)。
――ヤクザに追いかけられた?
大塚 空き缶落とした瞬間に、バイト仲間がなんか叫んで「やべえ! 逃げたほうがいいぞ!」って全員で逃走した。
――(笑)
ハタチの大塚ギチと『バーチャファイター』
――そこから『HiPPON~』までの期間は?
大塚 ああ。契約社員にもなって働いてたんだけど、先輩の社員がファストフードを辞めて「東京のほうで不動産屋の知り合いがゲームショップをやるからお前も来ねえか?」と言われて、それでそっちに行って、中古ゲームショップに務め始めてやってたの。
――場所はどの辺で?
大塚 西の方なんだけど、あんまり詳細を述べるとあれなんで。そこで働いてたんだけど、そこで働いてたことによって中古ゲーム流通の仕入れ値とか適正価格みたいなのを全部覚えたし。で、区切りもついたしなんかほかのところで働こうかなと思っていろいろ調べてたら――いまもうその会社はないんだけど、中古ゲームの流通をしてる会社で、飯田橋とか神楽坂とかその辺にあって。
――東京の真ん中あたりで。
大塚 怪しい会社ではあったけどね。もともとダイヤルQ2で儲けたような会社だから。で、レンタルビデオをいろんなところに送るような会社だったんだけど、その一角でゲームの中古流通もやってて、俺は中古ゲームの知識があったんで、そこで働いてて。で、その頃は全国へ買い付けに回ったりとかしてたよ。
――へえー。それはもうハタチになってました?
大塚 その流通の仕事の最中にハタチになったのは覚えてる。それがあったんだけど、自分の中でも面白いし、知識があるから仕事に活かされているのはわかるけど「編集者になりたいか、マンガ家になりたいか」という二択は相変わらず変わらなかったから。その仕事をずっと続けていくのは自分のなかでは違うのかなという。それで「どうしようかな?」と思って。その頃にゲーム誌も当然山ほど読むじゃない? で、ゲーム誌のなかで唯一中古情報、中古価格が載ってる雑誌というのが後に務めることになる『HiPPON SUPER!』という雑誌で、いまだったらアウトなんだよそれ。メーカーからすると中古流通の価格情報をオープンにされると困るわけだ。ただ一覧リストで毎月載ってたんで、俺にとってはためになってたし、そういうことなら協力できるなと思って、履歴書を送ってたりしてたら。
――そうかそうか。『ファミマガ』(『ファミリーコンピュータMagazine』)とか『ファミ通』(当時は『ファミコン通信』)じゃなくて『HiPPON~』なのはそういう経緯があったんですね。
大塚 うん、それはデカいね。で、その話を面接でしたら「じゃあ来いよ」って。それで拾ってもらって、そこからのキャリアの始まりだよね。
――応募はじゃあ雑誌を見て「スタッフ募集」みたいな記事から。
大塚 うん。同時に『ファミ通』でも募集してたから送ったんだけど、相手にされなかった。相手にされなくて「『ファミ通』ダメなんだ……」と思ったら、俺と同い年でいまでも付き合いのあるルパン小島というバカタレが同時期に『ファミ通』に入れたと聞いて「あのバカが入れて俺が入れないんだ!?」と思って。
――(笑)
大塚 いまだに恨んでるけどね。
――でも確かにそこで人生の大きな分岐点があったのかもしれないですね。誰が采配したのかはともかく。
大塚 うーん、そうね。
――その中古ショップ、中古流通屋時代にめっちゃ動いてたゲームって「あれはよく売れたね」とか「あれはいっぱい買いに行ったわ」とかあります?
大塚 やっぱり格闘ゲームブームだったんで『スーパーストリートファイターII』とか『餓狼伝説』とかあの辺が盛り上がってたし。で、俺の働いてた中古ゲームショップの2階がゲームセンターだったので、そういう連中とつるんで遊んでたし。で、やっぱり圧倒的に俺のいまの人生の転換期になってるのが、当時は駅前にセガの大きいゲームセンターがあって、そこで仕事を終えたあとに出会った『バーチャファイター』というのが俺にとってはデカかったよね。あれ見た瞬間にいままでのゲーム感が俺のなかで全部ひっくり返っちゃったからね。しかもそれから20年以上、いまだに付き合わなきゃいけなくなるとは思わなかったけど、それぐらいの衝撃はあったよね。
――出会ったときは『HiPPON~』編集部だったんですか?
大塚 いや、まだ中古流通にいたときで、仕事を終えて帰るときに遊んで。で、『HiPPON~』に入るときになったときに「どういうゲームが好き?」と聞かれて「『バーチャファイター』です」って話をしたらやっぱりね、コンシューマー(家庭用ゲーム機)の人たちとアーケードの人たちって全然毛色が違うから『HiPPON~』の人たちは無反応だったよね。
――じゃあ「そういうゲームも最近出たよね」ぐらいの感じ?
大塚 うん。「僕らには関係ないね」みたいな感じだったよね。だからそれを全部一任されたのはセガサターンが出るときに『バーチャファイター』がキラータイトルとして出るので抜擢されたという。それが人生の転機だよね。
――こないだ大塚さんが関わった本をまとめてツイートしてるときに、当時の『バーチャ~』についての大塚さんの記事を貼ってくれた人がいて。
大塚 ははは(笑)。
――それ見ると「すごい! わけわかんない!」みたいな。
大塚 まあ、要は編集能力がないからね。編集経験もないわけだから。
――でもパッションは伝わってくる。
大塚 パッションしかないというさ。だってパッション以外でやれないからね。わかんないもん、編集行為って。当時はね、技術がないからね。そんなのがスタートだよね。ただそれの結果として……。
――『トウキョウヘッド』を。
大塚 「書かないか」という話をほかの人からいただいて書くことになって、それがいまでも縁があって、話をいただくことにはなっているので。
――それ「書かないか」という話はアスペクトの人から?
大塚 えーとね、当時アーケードゲームを扱う雑誌が結構あったんだけど、当時10冊近くあったのか。
――そんな出てましたっけ?
大塚 出てたよ、当時は。格闘ゲームブームだったから。そのなかで仲良くなったライターの先輩がいて、その人の紹介で「こういう奴がいるんだ」って編集者を紹介されて。もともとは『ゲーム必勝ガイド』って雑誌があったんけど、はじめは(アスペクトから)そこの編集の人間に「(『バーチャ~』の)プレイヤーたちの話を書いてくれ」っていう話が行ったんだって。ただその男は会社員だったんで「ほかの仕事ができない」っつうんで、その男が俺を仲介してくれたの。アスペクトっていうのは当時のアスキーの関連会社だよね。それで話をいただいて書いたっていうのがきっかけだよね。
――その企画の最初の感じというのは「『バーチャ~』でノンフィクションを書いてみませんか」みたいな感じだったんですか?
大塚 うん。もうそれだけ。
――それって逆に大塚さんの側にはそういうオファーが来るまでに「『バーチャ~』でもっと文章を書いてみたいな」という気持ちはあった?
大塚 すごい高かった。俺にとってはあのときゲーセンに入り浸って、しかもわざわざ新宿ジャッキーとかに会いに、新宿の(ゲーム)スポット21とかに行ったりしてるような人間だったから、書きたい気持ちは大きかったけど、ただ自分の実力というのがそのとき何も経験が、編集者のキャリアとしても1年ぐらいしかないからさ、できるのかどうかもわからなかったし、どうしていいかわからなかったというのがあるから、話をもらったときに「やります」と言って、最初は本っ当に悩んだけどね。わかんなくて。
――それはどう書いたらいいのか、みたいなことが?
大塚 うん。だって野口もわかると思うけど、文章なんてさ……。
――正解がね。最初から「こういう形にしたい」というのが見えてればいいですけど、当時ゲームのノンフィクションがほぼない時代に、何をどう書いたらいいんだというのは、相当難問だと思いますけどね。
大塚 うん。ただ「これをやらん限りはしょうがない」というか「これはやりたい」というのもあるし「ほかの人には譲りたくない」というのと、とにかくやっぱり『バーチャファイター』なので、ほかに『ファミ通』ぐらいしか取り上げていない時代ではあったから、とにかくプレイヤーたちのすごさとか、ムーブメントのすごさを伝えたくて。
――またスーパーファミコンから、セガサターンとプレイステーションの時代って、ゲーム雑誌自体も大きく趨勢が変わったわけじゃないですか。
大塚 うん。
――最終的に『ファミ通』が大きな地位を取っていくわけですけど。僕は『ファミマガ』読者だったんで誌面で面白いアーケードゲームを紹介してくれていた田尻(智)(ゲームデザイナー/ゲームフリーク代表取締役)さんはなんかゲーム作りのほうに行っちゃったっぽいし……みたいな。
大塚 まあ、田尻さんもね、俺にとっては兄弟弟子というか。面識はあるか、ないのかな? 田尻さん、編集者時代は『ファミコン必勝本』って『HiPPON~』の前身の雑誌でも仕事をされていた方なので。
――そう言えば鈴木みそ(マンガ家)さんって、最初『ファミコン必勝本』でそのあと『ファミ通』でしたっけ?
大塚 うん。
――みそさんのマンガ、確か最初に見たのは『ファミコン必勝本』だよなと思って。
大塚 当時の編集部とかって結構雑だったんで、マンガ家に原稿返したりもしてなかったから、夜な夜な編集部にいて仕事してるときにいろいろ原稿とか見てたよ。鈴木みそさんとか、あと西原理恵子(マンガ家)さんとかも。
――へえー。その頃の西原さんは、イラストのカットを描く人みたいな感じで?
大塚 何やってたんだろうな? よく覚えてないけど。
――西原さん、『まあじゃんほうろうき』よりさらに前の時代とかですよね。
大塚 いや、『まあじゃんほうろうき』とかの時代じゃない? そういう原稿とかも見てたし。みんなだから食えなかったからね、なんでもやるという時代だったから。(※『まあじゃんほうろうき』の連載は89年から94年まで)
――しかもゲームじゃないジャンルの人たちも「仕事できりゃどこでもいいや」というのでゲーム雑誌で仕事してたりしましたよね。
大塚 そうなんだよな。いま思い返してもその辺は俺を拾ってくれた井上裕務に聞かないとようわからんけど。なんかそういう時代ではあったね。
――そのあたりの仕事仲間でいまでも交流がある人とかいたりするんですか?
大塚 うん。さっき言った、当時からすげえかわいがってくれてるライターの先輩である石埜三千穂(いしの・みちほ)(ライター/諏訪信仰研究家)さんというのがいて。
――ああ!
大塚 いま石埜さんはね、いろんな事情もあって。
――戻られましたよね。長野かどこかに。
大塚 うん。長野の下諏訪のほうに帰られてるけど。定期的に会ってるし、この間もいきなり電話かかってきて「どうしたのかな?」と思ったら「いま新宿にいるから会える?」っつって、うちまでわざわざ来てくれて。結構定期的に最近会ってるな。
――SNSでも活動報告とかされてませんでしたっけ? でもゲームじゃなくてなんか民俗学とかあっちの分野に行かれてますよね。
大塚 うん。というか下諏訪という町柄(まちがら)ね、そういうことにアクティブになってるから、いまはゲームにはほとんど携わってないよ。
――せっかく地元に帰ったので、その地元じゃないとできないことを追いかけてらっしゃるのかなと。
大塚 (冷蔵庫から氷を取り出しつつ)うん。で、その地元の活動家としてはひとつ役職(スワニミズム事務局長)にも就いてるし、いろいろとアクティブにやられてるよ。もともとゲーム雑誌が減っていくというか斜陽になっていったときに、石埜さんはゲーム雑誌の仕事よりゲーム開発のほうでシナリオ(『さよならを教えて 〜comment te dire adieu〜』など)を書いたりとかしてたんだけど、そこも会社が続かなくなっちゃったりとかして「ひと区切りつけるわ」っつってご実家にお帰りになって。
――僕は石埜さんとは『CONTINUE』の(集中連載企画)「ゲーム雑誌クロニクル」のときにしかお会いしたことないんですけど。
大塚 あれは俺と石埜さんとやった最後の仕事になるんじゃないかな。あれは俺が石埜さんに頭を下げたというか「一緒にやりませんか」っつって、やってくれたんだけど。
――で、その「ゲーム雑誌クロニクル」のときの石埜さんの触れ込みが「スーパーファミコンのゲームをすべて遊んだ男」という……。
大塚 いや、だってあの当時俺が編集部にいた頃は石埜さん、全タイトルやってたからなあ……。
――歴史にすらまったく残らないゲームもふくめて全部ということですもんね。
大塚 『ファミ通』のクロスレビューとも全然レベルが違って、全タイトルやらなきゃいけなかったから、相当大変だったと思うよ。
――異常に多いゴルフゲーム、麻雀ゲームもすべてということですもんね。
大塚 RPGとかもね。
――偉業だなあ……それは。
大塚 だからやっぱ、その話は俺と石埜さんは共有してるから飲んでるときにはするけど、いまは石埜さんゲームとかはやらないからね。なんだっけな?「ソリティアをやってる」とか言ってたな……。
――そこに戻るんだ(笑)。もうソリティアかマインスイーパーとかしかないですよね、究極は。
大塚 (笑)。「安上がりだなあ」と思って。
――なんか道を極めた人の選択肢というか、異常な迫力がありますけどね。シンプルなところに戻るというのは。
大塚 うーん。というのを話したり。
――人は遊びを極めたあとでも何かをして遊ばずにはいられないのかとか。
大塚 そういうことでもないと思うけどね。単純に暇つぶしなんだよ(笑)、田舎町だから。そういうことだと思うけど。まあ、石埜さんとは長い付き合いですよ。
――当時の『HiPPON~』の編集部の感じって、ビルの一室に机が並んでて、ゲーム機も置いてあって、みたいな感じなんですか?
大塚 うん。で、毎月人が辞めてくという。
――(笑)
大塚 先輩方がどんどん辞めていく。
――じゃあ『ファミコン必勝本』から『HiPPON~』にかけて、雑誌があまりうまく回らなくなってた感じ?
大塚 まあ、売れ行きは悪いしねえ。前も話してたけど営業の力が強くなるばっかりで、みんなそれぞれ次のステップを考えてて。それ以外でいまどこにいるかわからない人とかもいるけど、外部の人間で言えば石埜さんと、俺が辞めるタイミングとギリギリかぶさっていまでも飲んだりする人もひとりいるけどね。
――その方はまだメディアで活動されてる方ですか?
大塚 ゲームメーカーを転々としたりとかしてる。
――で、さっきも話に出ましたけど(『HiPPON~』)編集部としてはコンシューマーのゲームを取り上げてるわけですよね。「ゲーム雑誌クロニクル」ではそれと前後する時期の『ゲーメスト』の話を大塚さんと石埜さんが聞き手という形で関係者にインタビューしてるじゃないですか。で、『ゲーメスト』編集部では『ストII』の筐体を編集部に何台か置いて、うまい奴らにライター経験がなくても書かせて、そこから攻略情報を書いてたみたいな証言を取ってましたけど。
大塚 それに比べたら全然もうコンシューマーですよ。コンシューマーにならないとページもらえなかったからね。
処女作『トウキョウヘッド』
――でも当時の大塚さんの気持ちは『バーチャ~』に行ってるから、仕事終わらせてゲームセンターに行って、みたいな感じです?
大塚 そういう感じではあったのかな。その延長線上で辞めてしまったので。
――それは本を書くからということで?
大塚 違う違う、順序が違うって。辞めてほかの編集部に入ろうと思ってたの。そしたらたまたまそういう話、「『バーチャ~』のプレイヤーたちのノンフィクションを書かないか」という話をいただいたんで、そこからフリーランスが始まるという。
――あれはどれぐらいの期間で書いたものなんですか?
大塚 どれぐらいかかったのかな? 最初は本当に悩んでたから時間かかったけど、後半はあっと言う間に書いちゃった。1年はかかってないよな。
――前々から『バーチャ~』の有名プレイヤーは知り合いで「あらためて話を聞かせてください」という流れだったんですか?
大塚 本を書くのでアテンドしてくれたのが編集部の人間で、付き合いはそこからだよね。俺は(インタビュー対象を)見かけたことはあるけど、べつにコミュニケーションは取ってなかったから。それぐらい当時の彼らはすごかったんで、やっぱ距離があったよね。俺もただの田舎者だったからね。
――そのすごいというのは、プレイしている状態で常に人だかりができている?
大塚 うん。半端じゃなかった。「この人たちがいまのムーブメントの中心にいるんだ」という感じはしたしね。だからその熱量というのがまだ全然世に伝わってないというのを伝えたい、という編集者的な責任感があって書いたというか。ただやっぱり最初は悩んだけどね。取材したあとも「どうやって文章を書いていいのかな」と思ったから。
――書いては捨て、書いては捨て、みたいな感じだったんですか?
大塚 うーん、そういう感じだったのかなあ。結局さ、その頃って編集者をやってもまだ1年しか経験なかったし、文章を書く量というのもそれまでフリーランスのライターじゃないからさ、どうしたって時間がかかっちゃうわけだ。時間がかかるというよりは、文体が定まってなかったというのがあって。ガキの頃から文章を書くのは嫌いではなかったから書いてはいたんだけど、商売道具として文章をまとめていくという最終的な工程まではなかなかハードル高いじゃない。それがまだ見えなかったから。だから書き始めたら書けたんだけど、書き始めるまでに時間がかかったのは事実だね。
――それ、編集者さん側からダメ出しというかアドバイスなりフィードバックというのは?
大塚 ない!(笑)
――ほぼ放置みたいな?
大塚 うん。
――それもすごいな……。いろんな本の作り方はあると思いますけど、例えば「とりあえず一章分書いてみましょうか」みたいなところでチェックがあったりとかは?
大塚 ああ、そういうのはあったね。それぐらいだな。あとはおまかせで。
――素朴な疑問ですけど、本が出るまでに取材費的なものは出してくれたりとかは?
大塚 ないよ、べつに。発売して印税をもらうまでは何もないよ。本作りで途中経過でお金が出ることってなかなかないからね。
――当時はワープロですか?
大塚 いや、編集部時代にMac(マッキントッシュ)を買ったので。で、しかもその頃のMacってむちゃくちゃ高かったので。40万ぐらいしたのかなあ。それで書いてた。
――当時のバブル後の時代ってお給料よかったんですか?
大塚 どうだろうね。
――いわゆる駆け出しのゲーム雑誌編集者がもらえる額としては。
大塚 うーん、その前の中古流通の仕事とかと大差なかったと思うよ。儲けてもいないけど安くもねえみたいな。
――でもMacは買えて。じゃあMacのワープロソフトで打ってた?
大塚 と思う。
――フロッピー(ディスク)の時代ですよね。(ワープロソフトは)「ことえり」とかになるんですか?
大塚 その頃どうしてたんだろう? ことえりとかATOK(エイトック)とかだったと思うけど、覚えてないというか。当時の入稿したテキストデータは現存しているので、それのファイルを確認すればわかるんだろうけど、どうしてたのかわかんないね。まだデジタルとアナログの狭間にあった時代だから。
――当然手書きの原稿もまわりでいっぱい飛び交ってるわけですよね。
大塚 もちろん。ただ入稿したデータを確認したけども、プリントアウトがあるんで確認したけれども、デジタルで入れてるんだろうね。よく覚えてねえや俺。
――その当時のデータはこの部屋にもポスターがありますけど『(TOKYOHEAD)RE:MASTERED』の作業のときに確認した感じ?
大塚 そうだね。(感慨深げに)うん、そうだね。
――93年から95年にかけてか……。僕は田舎でひたすらスーファミで遊んで、PCエンジンCD-ROM2は高いんで金持ちの近所の友達の家に通って『天外魔境II(卍 MARU)』をクリアして、みたいなことをやってましたね。
大塚 うん。俺もガキの頃からコンシューマーに関してもかなりアクティブに遊んでいたし、だけど自分のなかで感情的なブレイクスルーがあって、いまでも影響を及ぼしているものと言えばゲームのなかでは『バーチャファイター』が圧倒的にデカいよね。じゃなかったらここまで『バーチャ~』の連中と付き合いはないし。
――僕が『バーチャ~』を見た最初の記憶ってゲームセンターじゃなくて、当時教育テレビの深夜番組(『ファイト!』)で――それはあとで調べたら『YOU』とか『土曜倶楽部』とかを引き継いだ枠だったらしいんですけど――ルー大柴さんとちはるさんが司会で、いろんな大学の面白サークル同士の対決を毎週番組でやってて、それでゲーム研究会対決の回で『バーチャ~』のデカい筐体をスタジオに持ってきてて、『バーチャ~』対決で勝敗を決める趣向だったんですけど、それで初めて見たときに「なんじゃこりゃ!?」ってインパクトがあって、番組はどうでもいいからこのゲームだけもっと見せてくれないかみたいな、そういう気持ちで見たのが最初でしたね。
大塚 うん。最初にゲーセンで見たときにそれと同じように鈍器で頭を殴られるというか、グラフィックの感覚とか、6ボタンじゃなく3ボタンであるとか……。
――当時『バーチャレーシング』のデモとか3DOとかで「今後はドットじゃないゲームも出てくるんですよ」みたいなことはちらっと知ってたはずなんですけど、やっぱりびっくりしましたね。
大塚 うーん。
――みんながポリゴンを使ったゲームのすごさを『バーチャ~』で一気に刷り込まれた感じというか。
池袋サラ生誕50周年記念100人組手
大塚 いまでも『バーチャ~』をやってる人間たちって熱狂的な人間たちは多いけど『1』『2』をリアルタイムで経験してる人間の数は本当に減ってるわけだ。『3』も少ないよね。『4』以降になっちゃうんだけど。でもそれをまたいで全部話ができる人間というのは数が少ないので、そういう人間たちの対してはシンパシーは感じるし、同時にあの人たちにヤンキー文化とはまた別の形で自分の価値観を作ってもらえたというのはひとつあるからさ、いまでも新宿ジャッキーとか池袋サラとか、ブンブン丸もそうだし、柏ジェフリーとか、名だたるプレイヤーたちが当時いて、俺がハタチの頃にあって話を聞いて、本を作って、それがいまでも脈々と自分のものになっている感じはあるよね。
――年齢感で言うと、池袋サラさんがちょっと上で、あとのみなさんはだいたい同世代の感じなんですか?
大塚 ブンブンと柏は全然下だよ。俺が当時ハタチすぎで、あいつらまだ10代だったんで。
――それもすごいけどなあ。
大塚 池袋サラ、吉嶺さんとかは上だったんで。で、上っつったって、いま考えたら当時まだ20代後半だからね。
――おじさんの域には全然行ってないわけだから。
大塚 行ってない行ってない。で、羽田(隆之)(編集者)さん、新宿ジャッキーも(年齢的には)そんなもんだからね。それがいまだに付き合いはまだ発生してるというか、舞台をやったときもそうだし、みんな協力してくださって。
――当時のインタビューの感じってどうなんですか? おたがいが話し慣れてない状態――それは初対面だからとかそういうことじゃなくて――『バーチャ~』の感覚を説明できる言葉が存在するのか――ロングインタビューみたいなのは話す側も聞く側も初めてだったと思うんですけど。
大塚 うん……そうね。(数秒考えて)だからなんだろう、新人アスリートとインタビュアーが話すみたいなところからしかスタートはしてないんだけど。
――ああ。
大塚 それが結果的にいまでも縁になってるのはあるから。おととしぐらいに(2015年12月5日)吉嶺さん、池袋サラが50歳になるときに「100人組手やりましょう」って言ったら即答でOKしてくれて、そしたらすごい勝率(71勝29敗)とかだったんだよね。
――年齢のことを考えてもめちゃくちゃな勝率でしたよ。
大塚 うん、すごかった。最後とかもすごかったよね。俺、当時現場にいて対戦の勝敗表とか作って、誰と次に戦うかみたいなことを現場で全部やってたけど、吉嶺さん勝ちすぎちゃってさ(笑)、「最後戦うの誰にしよう?」ってしょうがないから新宿ジャッキーが来てたからハッと思い立って「残り3試合は全部新宿ジャッキーとやろう!」っつって。そしたらそれも勝ち越したからね。
――普通は100人組手って組まされる人が最後まで立ってるかどうかが焦点になるわけですけど。
大塚 いや、全然強かったなあ。あれはいまでもネットで見れるだろうけど、あれはすごかったね。50歳であれだけやれるんだからなあ。
――すごいですよね。当時も大塚さんは『バーチャ~』の腕は一定のレベルまで行った上でのインタビューだったと思うんですけど、その人たちにしかわからない領域もやっぱりあるわけですよね。
大塚 もちろんそうだよ(笑)。それがプロとアマチュアの差だからね。あの人の戦ってきた回数と、俺がやってきた回数なんてのは全然桁が違うから。
(#07につづく)
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