OTG#08_20190412
大塚ギチへのインタビューは2019年の3月27日、4月4日、4月12日の3回に分けて、西新宿の大塚の自宅で行われた。録音時間は計8時間に渡り、ここでは約1時間分ずつテキスト起こしという形で紹介していく。
生前の大塚の言葉をできる限り残したいという目的から、カットや修正は最小限にとどめ、ほぼノーカットでお届けする。そのぶん話題の繰り返しなど冗長な部分も残っているが、療養中の大塚の話にゆっくり付き合う雰囲気を感じていただけたらと思う。
なお、生前の大塚は転倒事故とそれによるクモ膜下出血の後遺症で、記憶に障害を負っており、転倒前後からの記憶には喪失部分や誤認、思い込みなども多く混じっている。そのため本人の証言が実際の事実関係と食い違っている可能性もあることを、あらかじめご了承の上お読みいただきたい。
聞き手・構成・写真 野口智弘(※写真は往時のアンダーセルの応接間で、収録が行われた大塚宅とは異なります。また本ページ2枚目の写真はゲームセンターミカドのイケダ店長よりお借りしたものです)
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(#07から)
中野、西新宿、三鷹、アンダーセル設立前後
――……いまちょっと回し始めましたけど、前回の話で95年に『トウキョウヘッド』を出して、アンダーセルは98年? 99年?
大塚 99年。
――この4年間も結構聞いてないこと多いなと思って。家に後の創立メンバーになる人が遊びに来てたという話も、そもそもどういうことだったのかというのをいろいろ聞ければと思うんですけど。
大塚 いや、『トウキョウヘッド』を書き終えて……(録音)回ってる?
――回ってます。
大塚 で、それなりに話題になってくれて、中野に出てくることになって、中野でフリーランスとしてちょこちょこ仕事をさせてもらってて。
――中野に引っ越して、住まいが中野で。
大塚 仕事場兼住まいだよ。中野に住んでて。で、仕事してたんだけど、契約更新かなんかのタイミングで引っ越したのかな、新中野。
――中野の時代じゃなかったかもしれないですけど、家に『ダライアス』の筐体があった話って……?
大塚 それ中野。
――その筐体ってどうしたんですか?
大塚 捨てたよ(笑)。
――いやいや、「どうした」って処理の話じゃなくて入手の話で言うと。
大塚 いや、入手したんじゃなくて、その家を借りてた人がいて、その人の知り合いが置く場所がないというのでその家に入れてたんだよ。で、俺はそこに転がり込むことになったんだけど、邪魔だから捨てたっていうだけ(笑)。
――当時いまより粗大ゴミのルールってゆるいと思いますけど、それでも相当大変ですよね(笑)。
大塚 うん。ベランダからひとりであの重い筐体出して、ゴミ捨てたからなあ。
――捨てられるものなんだ……。というか入るものなんだ、そもそも……。
大塚 ねえ? 重かったなあ。
――(『ダライアス』は)それなりに家でやったりはしたんですか?
大塚 いやいやいや、3台のモニターと基盤はないから。
――あ、ガワだけ。
大塚 ガワだけ。
――それ本当に邪魔ですね。
大塚 邪魔。まあ、いま考えればレアなんだけど。ただね、『ダライアス』の筐体ってどこのゲームセンターもやっぱりお客さんの側はやりたがるけど、お店の側からするとすげえ邪魔なんだ、あれ。重いし、場所取るし、メンテナンスも大変だし。そこ(中野)にちょっといて、で、引っ越して新中野駅徒歩一分というか。
――じゃあ中野から新中野。
大塚 (最初のは)中野っつってもね、新中野より遠いところだから。(次の)新中野のほうが中野には近かったな。
――契約更新のタイミングでってことは住んでたのはそれぞれ2年ずつぐらいです?
大塚 いや、ゼロから(丸2年)入ってるわけじゃないから。ほかの人が契約はしてたんで。
――ああ、そういうことか。
大塚 それが途中で切れたから。だから1年もいたのかな? わかんない。
――じゃあその頃はフリーのライターとして。おもに仕事は雑誌ですよね?
大塚 うーん。だから『トウキョウヘッド』がなかったら就職もしてたのかもしれないけど『トウキョウヘッド』書いてからちょこちょこ仕事はいただけてたんで、ライター業はずっとやってた感じだよね。
――その頃のお仕事で読めるものはまだあったりするんですか?
大塚 アニメ誌ばっかりじゃない? 一番早々に拾ってくれたのが『Newtype』とかだったりするからね。
――そうか。『Newtype mk.II』もこの頃ってことか。
大塚 『Newtype』で拾ってもらって、そのあとまた『Newtype mk.II』でまたお話をいただいてとか。だから角川(書店)(※現KADOKAWA)ばっかりだよ。
――『Newtype mk.II』も前に話が出ましたけど、結構なビッグネームの人たちと取材を通して会ったわけじゃないですか。あらためて20年前とかを振り返って、あのときのインパクトはすごかったとか、覚えてる人とかは?
大塚 うーん。とくにいまべつになんか振り返ってなんとかというのはないけど、ただほかの人たち、要は『Newtype mk.II』っていろんなアニメの監督さんとか演出家の人たちを複数のライターさんがインタビューするというものだったんだけど、なんかその一覧リストを見たときに「みんなやっぱ本気では行かないだろうな」という感じはしたんだ。まあ、ライターの方々が諸先輩方だったからさ。だから「無難に行くんだろうな」という感覚はあったから、こっちはしくじってもいいからフルスイングで行って、という覚悟でやったのだけは覚えてる。だからすごいそのためだけに力を注いだのはあるね。インタビュー自体は確かに尖ってたのかもしれないけど、それよりは原稿書くときにどれだけ自分のなかでテンションを上げられるかというので、かなり労力を割いた感じはあるよね。実際その結果、世に出たときにそういうリアクションというか、いまだにその反響はいただいてるからね。ただそれ以上でも以下でもないんじゃないかな。
――富野(由悠季)さん、押井(守)さんはいずれ話も出てきたりすると思うんですけど、幾原(邦彦)さんの話って、そう言えばまだ聞いてなかったなと思って。三鷹でちょこちょこすれ違ったりとか、その後も顔見知りぐらいであったわけですよね。
大塚 三鷹で会ったっけな? 見かけたことはあるけど、べつに何もないよ。あ、本屋で会ったことはあるな。それぐらい。べつにとくに何もないよ。なんか俺ね、一回書いちゃうと忘れちゃうわけじゃないけど……。
――気が済むというか、その人への思いの丈はその文章に入ってるわけか。
大塚 うん。以上でも以下でもないよね。それよりも次、という感じではあったし。
――幾原さんだって当時『セーラームーン』のあと『(少女革命)ウテナ』やって、ぐらいのタイミングだったと想いますけど。
大塚 よくあの人食ってられたよな。仕事してなかったからな、10年ぐらい。
――そうですねえ。監督作としては『(輪る)ピングドラム』まで相当空いてますもんね。
大塚 空いてる。
――なんか海外に行かれてたって話も聞きますけど。
大塚 国の研修でね。
――ちょうどいまノイタミナで『さらざんまい』って新作が始まるみたいな感じですけど。
大塚 まあ、もうアニメをいっさい見ないから。まったく見ないんだ。何も見ないから、何もわからんし、わかることと言ったらたまにツイッターで誰かがつぶやいてるようなのを見かけて、なんとなく知るぐらいだから。興味もないね、いまは。絵柄を見るだけで最近思うのは、どれも同じなんだよね。
――うーん。まあ、『けいおん!』の時点で似たような絵柄の議論をされていたのがもう10年前ですからね。
大塚 見りゃ面白いものもあるのかもしれないけど、なんかべつに俺がそこになんかいま労力を注ぐ気もなければ……。
――まあ、『エヴァ』の直後の時代に比べれば「誰かがやるだろう」感はいま強いのかもしれないですけどね。
大塚 そうねえ。「べつになんか俺がやる必要もねえな」と思って。俺が何か発言する理由もないし、いちいちそれを見ていられるほどの余裕がいま俺にはないし。アニメの話はもういいです。
――そうですか。「あのとき何の仕事をしてましたか?」が最初になっちゃうんで、どうしてもそこに行かざるを得なくて。じゃあ新中野のときとかに宮(昌太朗)さんだったり、コヤマ(シゲト)さんだったりという、後にアンダーセルのメンバーになる人たちとちょっとずつ知り合っていった形になるんですか?
大塚 うん。まあ、コヤマと西島(大介)がデカいね。
――順番的には誰が一番最初?
大塚 西島大介との出会いだよね。人づてというか、あいつの広島時代の同級生と知り合うことがあって、そのあとに西島大介と会って。そしたら「一緒に絵を描いてたりする奴がいる」みたいな話になって、それは西島がゲームセンターでバイトしてた先の人が、コヤマのお兄ちゃんだったんだよね。で、西島とコヤマとふたりでつるむようになってたという。それで俺んちに遊びに来て。西島はそのころ働いてたというのもあるし。
――働いてたというのはマンガ家として? それとも全然違う仕事?
大塚 全然違う仕事。だけどコヤマの場合は当時実家暮らしだったし、ただバイトしてるだけだったから。バイトっつったって毎日やってるわけじゃないから、暇だったんだよ。うちにちょこちょこ遊びに来るようになって、それで一緒に。まあ、何もしてないけどね。メシ食ったりとか馬鹿話したりとか、そんな感じで付き合ってた感じじゃないかな。
――何年ぐらいか覚えてます? あの頃流行ってたものとか。
大塚 知らん! 覚えてない!
――(笑)。でも95年から99年ぐらいのどこかってことなんですよね。
大塚 全然わかんない。いま記憶障害者だから、そういうことを聞かれても答えられないので。
――いちおうリハビリとして(笑)。
大塚 記憶障害は脳の欠損で生まれてるから、リハビリでそうやってすぐ思い出せるようなものではないので。
――コヤマさんは確かこの頃の出来事だと『エヴァ』の劇場版を新宿のミラノ座で見に行ったことを、どこかの雑誌のイラストコラムで描いていたぐらい思い出があったみたいですけど。
大塚 いや、それ俺に会う前でしょ。
――ということは逆算してコヤマさんが大塚さんのところに行ってたのは98年とかになるのか。97年が『エヴァ』の劇場版なので。
大塚 だから知らねっつの(苦笑)。
――すいません。世間的には『エヴァ』とサブカルブームという時代だったと思いますけど、ゲームよりはアニメの記事を書く仕事が多かった感じですか?
大塚 うん。ゲームはもううんざりしたというのもあるしね。
――わりと『バーチャ~』と『トウキョウヘッド』でひとまずやることはやり終えたという感じ?
大塚 うん。だってゲームで何か書こうとなったときに結局さ、ソフトを評価するためにメーカー広報と付き合ったりとかしなきゃいけないわけでしょ。で、そういうことに興味は宝島社時代にもうすでに失ってたから。俺がやりたいのはプレイヤーたちを書きたいということだけだったね。で、それに対してのニーズはとくに発生しなかったし。広報とキャバクラ行ってる編集者が各誌にいて、その接待量で仕事が決まってくるみたいなところがあったけど、なんかバカらしくてさ。俺そういうのあんまり好きじゃないから。
――まあまあまあまあ。
大塚 だからやめたっていう。で、まあ、普通にアニメのライターとして仕事はさせてもらってたよ。それだけじゃない? あとはサブカル系の雑誌は当時多かったんで、そういうところでは拾ってもらって、仕事はさせてもらってたけど、それ以上でも以下でもないよ。
――脚本家の佐藤大さんに最初に会ったのってこの時期だったりします?
大塚 大と会ったのもその時期じゃない? なんか取材で会ったのが初めてだよね。ただおたがいね、名前は知ってたし。
――確かその辺、『ノーコン・キッド』のインタビューで語ってましたね。
大塚 だから知らんっつの。
――(苦笑)。じゃあ宮さんはそのあと? 宮さんと最初は?
大塚 なんか知らんけど、俺とコンタクトを取りたがって。
――宮さんのほうから?
大塚 うん。それは会社立ち上げる準備をしてた頃かな。で、なんか俺んちに来て。相当俺が罵倒したんだよな。
――罵倒(笑)。それはまたなんで?
大塚 いや、ぬるかったからだよ、単純に。シビアさがなかったからね、当時の宮とかには。育ちもよければ、ソニー・マガジンズというところで……。
――プレイステーションの雑誌(『HYPERプレイステーション』『HYPERプレイステーション2』)とか。もともと宮さんは音楽誌からゲーム誌という流れだったそうですけど。
大塚 ぬるくやってたから。だから全然フリーランスの人間とは感覚が違ったし。それからじゃない? それからなんか付き合うようになって。で、俺が会社を立ち上げようと思ってたときになんか「入りたい」って言うから。でも最初の頃はすごい距離あったけどね。宮も毎日事務所に来るわけでもないし。
――ふーん。
大塚 だから宮とはなんか、いまはもうあいつとその後(アンダーセル退職後)連絡したこともないし、話をしてもいないし、会ってもないし。まあ、一時代は一緒にいたんだろうけど。
――でもおたがいマイペース的な感じかもしれないですけど、宮さんとは創立から15年ぐらい一緒にやっていたことにはなりますよね?
大塚 まあね。
――うーん。
大塚 あんまりべつに、悪い意味じゃなくてあいつはあいつだし。
――じゃあもう結構最初から、宮さんがアンダーセルを出られるときまでだいたい同じ感じ?
大塚 そうだね。そんななんか……特別な思いはあまり。あるようでないようでという感じかな。
――宮さんご自身も言ってますけど「ゲームからアニメに興味を持つようになったのは『おジャ魔女どれみ』から」という話なんで、まだこの頃は音楽とゲームの人という感じですか?
大塚 あいつオタクじゃないからね。
――うーん。まあ、確かにそういうのめり込み方はしない人だなと思いますけど。
大塚 俺とコヤマとかがどんどんアニメの仕事が増えていくなかでやっぱり影響は受けたんじゃない? で、たまたまのきっかけが初めてちゃんと見るアニメで。なんかね、ガキの頃から実家ではアニメ見るのを止められてたんだってね。で、『おジャ魔女どれみ』を見たらハマって、そこからという。いまはあいつ、ゲームの仕事はやってないと思うしね。ゲーム誌なんてどこも変わり映えしないしさ、いまやったって儲かるわけじゃないし、面白くもなんともないからね。
――いまはさらにゲーム誌って雑誌で成立してるのはほぼないですから。
大塚 いやあ、数年以内に『ファミ通』もなくなるよ。KADOKAWAグループだってかなり厳しいというか危険だよ。Gzブレインとかになってるけど、あれだって首切りの一環だからね。リスクヘッジでしょ。
――選択と集中ということにはなってくると思いますから。
大塚 当初の計画とは大幅に変わってるしね。
――逆に宮さんと知り合ったタイミングで、宮さんが仕事してたような音楽誌のほうで文章を書いてみようみたいな、そっちの興味はなかったですか?
大塚 俺、全然音楽誌でライターやってたよ。
――あ、そうですか。具体的には何になるんですか?
大塚 何が?
――誌名とかは。
大塚 やだ(笑)
――そうなんですか(笑)。
大塚 人づての紹介で受けてたけど。面白くなかったね。
――大塚ギチという名前は入ってる?
大塚 普通にインタビューとかに入ってるけどさ。面白くなかったな。音楽業界は音楽業界で、基本的には新しいこと何もできないからさ。フォーマット決まっちゃってるし。
――あとは事務所なりのOKが出る範疇でという。
大塚 うん。だからやってもやらなくても、という感じだったね。
――まだいまから比べると90年代のほうがいろいろやってたのかな、みたいなイメージがあるんですけど、そうでもない感じですか?
大塚 90年代のほうがやってるよ。だって雑誌の数が全然違うからね。アニメ誌もそうだし、ゲーム誌もそうだし、音楽誌もそうだけど、サブカル誌なんていまほぼないからね。
――ないですね。
大塚 そういう意味で言えばとくに面白いことはなかったな。
――リスペクトしてる人に実際会ってみて、みたいな話もべつになく。ありました?
大塚 いや、ない。
――じゃあアンダーセルに話を戻すと西島さん、コヤマさん、元からいた菊崎さんもふくめて集まってたときに何をしてた感じなんですか? ゲームしたり、ビデオ見たりみたいな感じなんですか?
大塚 基本的には俺と菊崎でおたがいを論破し合うというのをずーっとし続けて。
――(笑)
大塚 それに年下の子たちがキョドるという状態だけだったな(笑)。
――コヤマさんの当時の心境についての証言は大塚さんが聞いたそうですけど、西島さんがどう思ってたのかも聞いてみたい気はしますけど。
大塚 まあ、当時の西島というのがね、すごいいまとは違ってなんだろうな、物事を全部斜めに見るというか、機嫌悪かったからなあ、あいつ。
――最近そういう意味では丸くなった感じ?
大塚 いやあ、もうアンダーセルに入った頃から丸くなってるよ。
――僕が前にオタク大賞というトークイベントのお手伝いをしてたとき、西島大介さんのマンガ(『魔法なんて信じない。でも君は信じる。』)に審査員のおひとりが個人賞を送ったので、僕から西島さんにメールで受賞コメントのお願いをしたら「この作品については作品内で語り尽くしてるんでコメントは遠慮させてください」みたいな感じでしたね。
大塚 まあ、西島らしいよね。(アンダーセル)辞めたあと一回も会ってないしな俺。
――あ、そうですか。
大塚 会ってないどころか会う気もないし。
――ニアミスもないですか。
大塚 ないね。だってあいついま広島でしょ?
――あ、じゃあ地元なんだ。「コヤマさんより西島さんのほうが天才肌」ということを以前大塚さん言ってたような気がするんですが、当時からそういう感じはありました?
大塚 最初に会ったときから天才型だなとは思ってたよ。ただ最終的にはいまたぶん西島とコヤマは付き合いはないだろうし。シゲももう興味はないだろうし。なんだかんだ言ってほかのメンツがあれだけど、俺がいまでも連絡を取れて、たまーにだけど話したりするのはコヤマだけだよ。それ以外の人間に関してはまあ、卒業生として送り出してるという感じだから、とくに何もないよ。
――わざわざベタベタする必要性を感じない、みたいな感じですか。
大塚 ベタベタする必要性がいまの俺のどこにあるかというとねえ……という感じではあるかなあ。うーん。とにかくいまは自分のほうの比重が高いからね。自分の問題をとにかく解決していかないと、これから先のことは考えられないから。あんまりまわりの人に振り回されないようにしてる。
――変にコンタクトを取ったがゆえに余計に面倒なことになっちゃう可能性だって、ないわけじゃないですから。
大塚 うーん。というのも退院後とかにあったけどね。そういう意味では大精算が終わっちゃってるという。残った人たちがいるので、そういう人たちが心配してくれたりするのに対して、どうやって誠意を持って返していくのかという感じだよな。だからアンダーセルというものをなんで立ち上げたのかという話になるけど、要は編集者として当時はアナログの仕事のほうが多いわけだからさ。場所が必要だったんだよね。
――という話でしたよね、コピー機なりFAXなりを置いての作業場という。
大塚 それを作らないとどうしようもないし、コヤマと西島大介というのをとにかく一人前に持っていくのが当時の俺のモチベーションだったから。だからあんまりね、宮のことに関しては心配したことなんか一回もないし。
――宮さんは当時からもうライターはやってたわけで。
大塚 しかもソニー・マガジンズだからね。だからとにかく当時はコヤマと西島だったのかな。
――アンダーセル設立のきっかけとして、コヤマさんと西島さんが映像を作って、それを古賀学(デザイナー)さんの結婚式のビデオとして流したとか、そういう話も断片的に出てたりしますよね。99年設立ということは『G2O』(ジーツーオー/ガンダム20周年記念雑誌)もこの辺ということか。
大塚 いや、もっと前だよ。ああ、でもその辺か。いや、会社設立前か。
――『G2O』があってからの設立ということですか。『G2O』でご一緒された古賀さんとの前段階ってあるんですか?
大塚 あったんだろうね。なんか飲み会で会った気がするな。誰かの紹介で会って『G2O』を立ち上げる頃に声かかって、古賀学の自宅圏仕事場に行って。
――もうペッパーショップ(古賀氏の屋号)だったんですか。
大塚 ペッパーショップはもっと前(93年)からだよ。いまはもうまったく縁がないというか。あんまりいまの仕事は好きじゃないから。なんかチャラいんだよ。
――当時の古賀さんってどういう人だったんですか?
大塚 変わんないんじゃない?
――うーん。
大塚 全然興味がないから。あのね、いろいろ野口が聞きたいのはわかるけど、さすがに記憶障害を抱えてしまって以降、必要なものと不必要なものが分別されてしまっているので、自分に興味がないことを振り返ることってほぼないんだわ、いま。
――すいません。掘りづらいというか、ご自身のなかで掘り返すものじゃないところを掘ってもらっているような気は、聞きながらしているので。
大塚 というかね、面白くないんだよね。聞く側も話す側も。
――うーん。
大塚 興味ある人の数なんてたかが知れてるんだろうし、俺自身が興味を失っているというか、それどころじゃないところがあるからね。
――もうお一方、アンダーセルを作るにあたって大塚英志(評論家)さんというのも、どういうポジションで関わられたんですか?
大塚 それはね、正確にはお話できない。単純にお金借りただけだから。お金借りたというのは仕事をいただいたんでね、それをきっかけに会社を運営できたというのはあるけれど。ただそれ以上のことに関してはさすがに相手も立場があるので、いまは連絡も取ってないし、お会いすることもないだろうし。
――この95年から99年の間に大塚英志さんと会って『(多重人格探偵)サイコ』のドラマとか、そういうのもこのタイミングという感じ?
大塚 そりゃそうでしょ。だからその話はもういいから。単純に仕事のインタビューでお会いして、そのあとに大塚さんに仕事をいただいただけの話だからさ。そういう話はわりともう、俺自身が切り捨ててる話ではあるので。
――ごめんなさい。
大塚 聞きたいのはわかるんだけど、俺がいま抱えてる問題の比重が高すぎるので。
――そうですね。
大塚 正確にお答えすることができない。しかも俺だけじゃなくて俺以外の人間も関わってることだから。
――じゃあいい加減そろそろアンダーセル設立のあとの話を聞いていきましょうか。
大塚 時系列で話をするとすげえ時間かかるよ。20年やってたわけだからさ。
――まあ……時系列で聞かないとあとで整理が「こっちとこっちはどっちが先なんだ?」みたいなことがわかんなくなっちゃうかなあという、単純にその心配だったりするわけですけど。最初のオフィスは中野?
大塚 いや、違う。西新宿。
――この近くですか?
大塚 いや、駅前。大ガード先の。そこに1年、2年ぐらいいたのかな? いまでこそ言えるけど、ほとんど俺とコヤマはずーっと四六時中(アンダーセルに)寝泊まりしてたんだけど。
――僕の記憶違いだったら申し訳ないんですけど、設立の5人以外にもうおひとりいたっていう話って?
大塚 まあ、いたはいたけどたいして何もしてないよ。会社立ち上げて2週間ぐらいで辞めてったからね。
――あ、そうですか。
大塚 どうでもいいよその話は。
――じゃあわりとすぐ西新宿から中央線沿線に引っ越そうという話になったんですか?
大塚 俺とコヤマがほとんど事務所で寝たりして、夜にメシ食ったりとか一緒にしてたけど、場所柄ね、結構夜中とかも銃声がしたりとかさ。
――20年ぐらい前の新宿って石原(慎太郎)都知事が取り締まりに乗り出す前だから、結構危ないところもありましたよね。
大塚 精神的に結構、やっぱ俺らも若かったというのもあるし、床で寝るってのもただのマンションとかじゃないから、雑居ビルとかだったんで、肉体的にも精神的にも目減りするという状況があって。シャワーとかもないしさ。
――ああ。
大塚 で、「このままだと俺らダメだね」って。
――素朴な疑問ですけど、サウナとかに行くしかないんですか? あの辺って銭湯あるんですか?
大塚 いや、帰るだけ。というのがあったんで「引っ越すか」という話になって、アニメの仕事が少しずつおたがい増えてたから、中央線沿いがベストだろうってひと駅ずつ探して、安くて広くてシャワーも浴びれるような、となったらやっぱりマンションになるんで、それで見つかったのが三鷹だったという。それで引っ越した。だからなんだかんだ言って(武蔵野市)御殿山時代が長いんじゃない? あそこに引っ越したら引っ越したで、俺とコヤマはほとんど泊まり込みで。
――そうですね。まあ、シャワーもあるから仕事場で寝ると言ってもそこそこ快適に。
大塚 という感じだったな。
――2000年過ぎからもう三鷹ということか。
大塚 長かったね。
――昔の古い資料というか、アンダーセル時代の古い書類とか見てたら、押井(守)さんと一緒に自衛隊の艦隊を見に行く、アニメ関係者ツアーの旅のしおりみたいなのも出てきましたけど。
大塚 自衛隊の艦隊を見に行くんじゃなくて、押井さんが「軍用艦に乗ったことがない」というんで。で、身内が当時防衛庁の関係者だったんで、それもあって見に行けることになって。ほんで高橋良輔さんという監督も来られることになって。そしたら当日樋口真嗣さんまでいて。
――(笑)
大塚 「なんだこれ」と思って(笑)。で、見に行ったというだけの話だね。とくに思い入れも何もないよ。
――それはそれで面白かったんじゃないんですか?
大塚 いやー、どうだろうね。そういうさ、さっきから野口が聞きたがってるような「面白かったんでしょうね」ということに関してさ、やっぱり確実に俺は事故以後、そういうものに対しての思いは風化しているので。記憶に残ってないことも多いし、思い出したところでいま魂をゆさぶられるとか、何か心境が変わることはないよ、もう。
――ちょっとミーハーがすぎましたね、すみません。
大塚 逆に言えば、それを全部失わざるを得なかったということのほうが事実としてはデカいので、あんまり考えないようにしてるよ。それよりはこれからのことを考えなきゃいけないという時期ではあるしね。だからアンダーセル時代のことというのは、まだ明確にこまごまと語っていくのには時間がかかるんじゃないの? だって20年やってきたわけだからさ、自分の生活の一部どころか半身ぐらいのものだったわけだから、それについてこまごまといま聞かれても、すべてが整理されてるわけでもないし。
――しかも頭を打ってる人に聞いてるわけなので、ちょっと無理はあるなと思いつつ。
大塚 うーん、無理ではないけど俺自身がそれに対していま何の思い入れもないと言えば何の思い入れもないからね。
――確かにわざわざ話したくないことを聞く場ではないので。
大塚 話したくないというよりは、そのモチベーションがあるんだったら、いまとこれからをどうにかしていかなきゃいけないというモチベーションに転化せざるを得ないから。もう要はいろんな意味で体力もそうだし、精神力もそうだし、下がっちゃってるわけだからさ。だから過去のことを振り返っている余裕はいまの俺にはあんまりないよ。
ひと区切り、ついてみて
――今日ちょっとどうしましょう? 次回以降というか、じゃあこの辺の話はいったん置いといて。
大塚 うーん、というかいまの段階で話せないことはなくはないんだけど、話すことで、なんだろうな……。
――無理に大塚さんにモチベーションを上げてもらうのも結構大変なことになっちゃうので、いま話したいことに切り替えちゃって全然いいんですけど。
大塚 そうねえ……いまのいま。それもまた難しいんだけど(笑)。
――(笑)
大塚 ただまあ、転落事故から気がつけば数ヶ月で、もうすぐ1年だからね。早えなあという。まあ、その1年の半分が記憶ないわけだけど。早いねえというのはひとつある。
――変な話、それでも体はもつものなんですね。
大塚 いや、奇跡的に肉体はもってるし、こうやってしゃべれるからいいけど。脳の状態に関しても回復は早いと言われてるけど、なんだかんだ言ってやっぱり疲れやすいとか、いろいろあるよ。ただ俺の年下の子たちが脳梗塞で倒れて障害残しちゃって、いまだに。俺より入院期間長いのかなもう。そういうのを見ると俺の場合は、まあ、障害者認定を受けざるを得ない立場ではあるけれども、軽度にはなってるのかなあ。やっぱり右半身動かないとかさ、そういう話を聞くと……。
――本人もですけどまわりとかご家族もね。
大塚 きつい。
――どうしたってその人をケアする人生にシフトせざるを得ないわけですから。
大塚 うん。そうなんだよね。そこがいま結構大変ではあるわな、みんな。ただ連中の脳梗塞とかってさ、俺のケースとちょっと違って、俺が転落事故で頭を割ってるわけじゃん。外傷性クモ膜下出血ということになるんだけどさ、連中が倒れた理由って食生活だからね。
――ラーメン食べて、肉食べて、みたいな?
大塚 二郎系、二郎系、二郎系でしょ?
――なんでしょうね、二郎系のファンの方たちの、カレーで辛さを競う人たちもそうですけど、チキンレースをしたがる感じというか。
大塚 うん。死ぬよ?
――ですよねえ。
大塚 ラーメンのスープなんで脂と塩だから。あれ飲み干して完食って言ってると本当に脳梗塞なんて軽く起こすよ。
――普通に考えてもドロドロだもんなあ。
大塚 それでもやっぱり脳梗塞をやったら、食生活も朝昼晩、ゆるいご飯しか出ないわけじゃん。そうなるとみんな食べたいみたいだね、やっぱり。ラーメンとかマクドナルドとか。その食生活を改善するのも大変だけど、いまのままだと本当に同じことをまた繰り返すからね。そのために食生活、塩分とかカロリー低めで点滴生活を入院中はしてるわけだからさ。
――転倒後、味覚とか食べたくなるものって変わりました?
大塚 いや、食生活は細くなったよ。要は味のないおかゆをずっと食わされてたからさ。
――まあ、胃もちっちゃくなるでしょうし。
大塚 胃はすごい小さくなった。いまでもラーメンとか全部は食えない。だから外食はほとんどしてないね。できなくなっちゃった。本当にやせ細った。まあ、みんなね、歳とともにやせ細っていくけど、バカ食いとかはできなくなった。
――まあねえ。若いまんまの気ではいちゃうんでしょうねえ。
大塚 そうだね。もとの生活というものに対しての願望が強くなるから、それだと変わらないんだよ。同じことをもう一回繰り返すだけというか。
――そういう方たちのゲームのモチベーションも若いままな感じなんですか?
大塚 いや、変わらんよ。そこに戻したいという願望だけがすごく強いよね。
――「青春時代を俺はキープしてるんだ」みたいな感じ?
大塚 うん。だから俺はね、意外とそういうことに対して自分のなかで結論が出ちゃうと、とりあえず距離を取っちゃう人だからあれだけど、みんなやっぱり執着するよね。
――言ったらジジイになってもロックみたいな、そうしたいし、そこを俺も目指すんだ、みたいな感じを標榜(ひょうぼう)してる人は多いですよね。
大塚 うーん、そうね。俺の場合は常に変わっていくことに関しての恐怖心はないから、べつにいいんだけど。
――体がご自身が想定していたより先に、老いというか、万全じゃない状態が前倒しで来ちゃったと思うんですけど。
大塚 まあ、死にかけた回数がちょっと半端じゃないからね、今回は。
――逆に今回の転倒じゃないときに、小さいときとかでもいいんですけど、死んでたかもしれないこととかありました? 大病とか事故とか。
大塚 いや、それはないね。5年前の舌ガンの疑いで舌を切り取ったというのが大きな手術ではあったかな。それもさいわいなことに、後遺症は残ったけどとくに大きな問題には後にならなかったし。ただやっぱり転落事故のときはね、1年前ぐらいから予兆はずっとあったんだよな。
――その予兆というのはもうちょっと具体的に言っていただけると、どういう感じなんですか?
大塚 社員に対する福利厚生の充実というのをとにかく注力して、会社として税金も代行で払ったりとか、会社の経営もとにかく税金もふくめてお支払いはきっちりするとか、そういういままでルーズだった部分というのをとにかく整理するというのをしてたんだけど、そのあたりから当時の社員に対する育てるモチベーションも低くなって。だから野口とかのいた頃で終わってたんじゃない?
――僕のあとのアシスタントってこないだ話した岩村君が残って、そのあともうひとり若手の子が。豆腐屋に引っ越して最初にお邪魔したときぐらいにお会いしましたけど。
大塚 うん。いまはKADOKAWAにいるけど。
――そうですか。お名前は伏せときますか?
大塚 伏せといたほうがいいんじゃない? というか伏せとかなきゃいけない理由もないけど、オープンにしなきゃいけない理由もないからさ。まあ、がんばってるみたい。だからその辺で終わったというか……。(15秒ほど沈黙)……まあ、なんかこうやって話をし始めて思ったけど、べつにネガティブなことではないんだけど、やっぱりほかの経験とは違うよね、20年やってきたという意味では。で、卒業生もそれなりにいるわけでさ。それぞれがそれぞれにいまがんばってるわけで。あとはね、俺の至らない限りで。
――いえいえ。僕とか逆にギリギリ育ててくれる上の人がいる世代でよかったなあというか。いまのゲーム系なりアニメ系なりの人ってもっと師弟関係とかないところでポンとやらざるを得ないと思うと。
大塚 やらざるを得ないというか、ウェブメディアで何か書くと言っても担当編集も編集者経験がじつはないから、校正もできないしさ。編集者として校正経験がある人間からすれば文章見たら一発で、編集者が目を通してるんだろうけど「てにをは」だろうが全然デタラメでさ、極端な話、「!」マークのあとに半角なり全角なり空けてないような原稿が山ほどじゃん。
――で、いまの編集とか、ネットの人だとなおさら「え、そうしなきゃいけないんですか?」みたいな校正のイロハも全然なかったりとか。
大塚 うん。だから校正のマニュアルとかもね、当然うちの新人には常に渡してたけど、最後のほうは誰も見なかったからね。
――そうですか。
大塚 うん、見ない。俺がいちいち赤(字)入れてあげないとわかんないし。そこをもう誰も重要視しないもん。
――僕は大塚さんからの最初の直接的な教えというのは「これ読んどけ」と渡された、ライターになって欲しい人のブックガイド(『だからこそライターになって欲しい人のためのブックガイド』)みたいな、茶色い表紙の本で、あれで相当「あ、こういうところを追っていけば自分のスキルアップにつながる情報が本になってるんだ」というのは、ずいぶん役に立ちましたね。
大塚 うん。でもあれだってやっぱり当時のサブカルチャーがあるからこそ必要な情報であって、いまあれを読んでピンと来る人間なんてほとんどいないんじゃない?
――まあ、紙の情報メディアの時代の本ではありますけど。
大塚 そういう意味では自分のなかでの時代と、自分のしたいことのズレというのもあったし、その上で……うーん、人を育てるということに関して言えばひと区切りついてたんだなあ、というのもあるしね。まあ、この辺の話はもうちょっと経ってからになっちゃうのかな。
――そうですね。あせって聞く必要も、話してもらう必要もないので。
大塚 うん。
――できるところからで全然いいんですけど。
大塚 いまはだからこれからをどうしていくのかということだよなあー。
――やっぱり転倒は大きい経験ということですけども「それについて書いていくしかないかなあ」みたいな感じなんですか? それとも「それはそれで小説のヒントにはなるかもしれないけれども……」みたいな感じなのか。自分の身近なことを書いていくことになるのか、フィクション的なところに持っていくのか、なんとなくのおぼろげな展望というのは。
大塚 倒れる前から取材をして、書き残しているものがいくつかあるし、そういうものを書いていくべきなのかな、と考えたりもしてるんだけど、一番ホットなのは結局俺がいま抱えているというか、この一年の状況のなかで生まれた転落事故の話なわけじゃん。ただなんか自分のなかでも複数案件あって、どういうアプローチにしたらいいのかを考えながらも、まだエンジンはかからないよね。ピンと来るものがいまだに見つからないから。うーん。それでいま日々考えてはいるけど。というような状態ではあるね。
――古くはそれこそ志賀直哉とかが、事故って療養先の温泉に行ったときの話として『城の崎にて』を書くとか、そういうのも文学の歴史にはあったりしますけど。
大塚 うーん。でも療養期間がいま必要だから、それは外出してどうこうじゃなくて、体力的な問題もそうだし、治癒をさせるのが何より第一だから、とにかくそれに労力を注ぐしかないんだけど。ただそんなことってさあ、いままで経験したことがあるのかっつったらね、ないし。自分の体調を見ながらそれをやってかなきゃいけないんだろうなとは思ってる。ただこれから先どうすんのかな、というのは俺にもわからんね、まだ。
――「大塚さんはこういうことをどう見るのかな?」と疑問がちょっと湧いたことがあって。例えばミュージシャンの人が薬物だったりトラブルだったりで一回すごいブレーキがかかってリスタート、みたいなことがあって、岡村靖幸さんにしても槇原敬之さんにしても、最近ので言えばピエール瀧さんもそうなるのかもしれないですけど、そういう人たちのブレーキ前、ブレーキ後みたいなのってどう見てます? もちろん逮捕と事故は違いますけど。
大塚 うーん。ケースバイケースなんだなと思うよね。バックアップしてくれる人たちがうまくバックアップしてればそれ以上のスキャンダルには発展しないし、岡村靖幸だってね、きっちり世の中に逮捕にオープンになる前に、すでに過去にクスリで捕まってるんでね。
――2回目か3回目なんですよね。(※逮捕は3回)
大塚 なのでね、でもいま現役復帰してるし。槇原敬之もそうじゃん。ただ瀧さんの場合はスキャンダル性が高かったということだよね。という見方以上はないかな。ちょっとごめん、一瞬止めてもらっていい?
――ああ。
(トイレ休憩)
大塚 ……なんだろう、昔の話に対する興味というか、昔の話をこの数ヶ月間、振り回されることも多かったけど、それよりはこれから先のことを考えるようにしてるし、いちおう過去のことに関しては精算がひと区切りついたので。まあ、それがゆっくりとちゃんとオープンにできる日というのもたぶん来るんだろうけど、いまはそういうモードではないんだろうな。だって俺、これからどうすればいいのかというのは俺にも未知数だからね。
――そもそも復帰できるかどうかも、これからの慣らし運転で全然変わっちゃうと思うので。
大塚 うーん、そうね。だからひとつあるのはどこかに依存して、どこかと一緒にやるということよりも、自分で自発的に何かやっていくということになっていくんだとは思うけどね。紙がこれだけ壊滅的な状況で紙媒体に頼っていくというのもね。
――言葉、テキストというのも大塚さんがずっとやってきた表現だと思うんですけど、例えば写真とか最近撮られたり、スマホでもいいんですけどそういうことってあります?
大塚 スマホレベルではあるけどね。
――でもカメラマンの大塚ギチを望んでる人たちもいると思うんですけど。
大塚 うーん、そうねえ。なんかだからいろんな可能性はあるんだと思うし、それをやればいいんだなとは思ってるんだけど、自分のなかでいまやりたいことというのと、やるべきことというのと、やれることというのが、なんかまだ噛み合わないよね。
――うーん。自分のなかだけのことじゃなくて、それを世間の流れが望んでるか望んでないかみたいな、自分とは関係ないところの流れも加えてあったりしますしね。
大塚 うん。まあ、でも相当いろんな人たちが、ツイッターとかもそうだけど応援してくれて、楽しみにはしてくれてるけども、やっぱり最大級は原稿になっちゃうんだよね。しかも原稿が一番安いんだよな(笑)。
――まあー、いまは言葉の情報としての軽さったらないというか。流行り廃りも異常に早くなっちゃって。でも面白いもんで、逆に数年前の記事がうっかりなんかの拍子で「あ、これ読んでない人そんなにいたの?」みたいな、2周目のを出しても意外と最初のものとして楽しんでくれる人も結構いるという。
大塚 うーん、いるけどやっぱり、具体的に言えば売れる冊数が全然違うよね。だって変な話、出版社からのオファーで編集と執筆とかデザインもやって本を一冊作った場合って、べつに売れようが売れまいがまとまった金にはなるからね。それに対して小説ってやっぱり時間はかかるし、いま全然売れないし。
――ちなみに大塚さんが手がけた本で一番売れたのって何になるんですか?
大塚 一番売れたの? 俺が作ってきたアニメのムックは結構いまでも高額で取り引きされてるけど、重版2回、3回かかって売れたのはアニメの『(天元突破)グレンラガン』の2冊じゃない? 5万部とか行ったからな。
――すごいな。あの時代もう本が売れなくなりつつある時代で、アニメのムックでもというのを考えるとすごいですね。
大塚 上巻が5万部まで行ったのかな、初版は1万ぐらいだったはずだけど。重版かかって5万部ぐらいになって。で、下巻のほうは3万とか4万とか行ったかな。あのふたつは馬鹿みたいに売れたな。
――まあ、あれはたぶんみんなも望んでただろうし、望んでたものがたぶん望んでた以上のクオリティで出たから余計でしょうね。
大塚 あれはもう、自分のなかでひとつの精算だよね。いままでやってきたことを全部ぶち込んだという。
――総決算感はありましたね。
大塚 売れたねえ。売れたけど、制作スケジュールは本当にまあ(顔をこすりながら)、俺のわがままですごいタイトになっちゃったんで。
――いや、でもタイトにしたがゆえの、まだ人気の波が収まってない時期に出せたという。
大塚 ことではあるけど、結局あれで編集長はいい気がしなかったけどね。スケジュールがタイトすぎちゃったんで。
――無理をせざるを得なかった。
大塚 というかそこまでやらないと『グレンラガン』にはならないでしょ(笑)。
――なんかの容量を超えてる感が作品のなかからもほとばしってるシリーズですからね。
大塚 わざわざだって自腹で放映終了後に『グレンラガン』のトークイベント(『天元突破グレンラガン最終発掘完了編』公開収録大座談会!!)やって、それを全部収録するムックなんてね、いまどきないじゃん。
――いまどきというか、過去にもほとんどないでしょうからね。
大塚 だからそういうお客さんの側に立って面白いものというのを作れるか、作れないかということだけだからさ。それを最後にフルスイングでやってる感じはあるよな。そのあとに『かみちゅ!』のムックを作らせてもらえることになってやったけど、尾道までロケハンに行ってやったし、実際あれも売れてくれたんだけど、やっぱり『グレンラガン』のときとはテンションが違うよね。俺自身が『グレンラガン』に対して思い入れがすごかったというのもあるしね。
――『かみちゅ!』の本もすごくいい本ですけど、作品のカラーもあってどこかスローというか、ゆったりしたものではありますから、熱狂のところにさらに燃料を投下していくような感じではないですよね。
大塚 うん。というかあれを作り終えて、そのあとにずっと『秘密結社鷹の爪』のパッケージデザインとかもやってたんで、それで映像を見るのは仕事として見てたけど、それ以外でアニメ見るのもうやめちゃったからね。なんかお客さんの側に立つということに関してできなくなってたのかなあ。俺自身がお客さんじゃなくなっちゃったということだよね。
ドラマ『ノーコン・キッド』
――そこからゲームセンターのミカドという、送り手と作り手が渾然一体となってる感じというか、大塚さんがミカドに新しい面白さを見出したというのは、なんかつながってるのかなという気はするんですけどね。ちょっとアニメ界が送り手は送り手、受け手は受け手と整理されちゃったがゆえに、違うところに面白さを見出したのかなとか。
大塚 どうだったんだろう。いまと違ってね、当時のミカドもそうだし、アーケードゲーム自体もかなり下火ではあったから。でもイケダ(店長)はイケダなりにミカドを運営してがんばってたりはしてたけど、いまほどね、どこのゲームセンターの、生き延びてるゲームセンターも元気じゃなかったし。だからそこになんかヒントがあるなと思ってやり始めたという。
――そういや知らないなと思っていま聞こうと思うんですけど、イケダさんと何で最初知り合ったんですか?
大塚 ああ、『ノーコン・キッド(~ぼくらのゲーム史~)』。
――じゃあ脚本家の佐藤大さんとの古くからの縁がまずあって、その大さんのドラマでゲームセンターの協力が必要だから、というそういう連鎖の仕方なんですね。
大塚 うん。『ノーコン・キッド』って企画が立ち上がって、制作に入る直前までじつは何も決まってなくて、大が俺に相談してきて。そのあとにテレビ東京のプロデューサーたちに会って「じゃあゲームの手配とかうちのほうでやりますわ」って俺の友達とチームを組んでやっていくときに、イケダに知り合ってという流れかな。
――それまでゲームセンターって、例えば10年前、15年前ぐらいに行くことありました?
大塚 うーん、行かなくはないけど。
――昔のようなはっきりした目的があって足を運ぶ感じとは違うわけですか。
大塚 ないね。なかったね。だから『ノーコン~』以前『ノーコン~』以後でも、俺のなかでモードが変わってるんだろうし。いまはね、ほっといても元気なんで。
――10年ぐらい前にアーケードゲーム誌を手伝ってたんで、ちょっとだけあの時代は取材してて、『頭文字D』のレースゲームがあったり、コナミやセガがクイズゲームを競って出してて、みたいなのは覚えてますね。トレンドが格ゲーという感じではなかったですけど。
大塚 そうね。まあ、『ノーコン~』以前以後でいろんなものが変わったのは事実だな。
――主演の田中圭さんも、まさか数年置いてこんなにブレイクするとは。『ノーコン~』のときも「達者な人だな」と思って見てましたけど、ブレイクの仕方がまた極端ですごいなと。
大塚 偏差値72とかだよ彼。天才だからね。
――そうなんですか。でもまさかおじさんとのオフィスラブのドラマでブレイクするとは思わなかったですけど。
大塚 いま引っ張りだこだからね。バラエティも。
――当時はむしろハマケン(浜野謙太)さんがメインの3人のなかでは一番有名ぐらいでしたもんね。
大塚 ヒロインの波瑠ちゃんなんか全然まだ無名だったからね。
――それでもう1年後、2年後ぐらいには朝ドラ(『あさが来た』)主演だったりするわけですけど。
大塚 うん。田中圭くんも本当にブレイクしたからね。
――ねえ。CMでも毎日見ますし。
大塚 (グラスに注ぎながら)ドラマもね。
――当時の大塚さんが『ノーコン~』の現場は、大変だったけど各話のいろんな監督の仕切り方が見れてすごく興味深かった、というようなことを言ってましたけど。東映チームの監督さんだったり、そうじゃないところで映画作ってる人たちが各話で監督したりとか。
大塚 うん。それは何を聞いてるの?
――いや、『ノーコン・キッド』の思い出が何か聞ければと思って(笑)。それより機材をセットして動かすのが大変だったって感じですか。
大塚 24時間フル体制だったからね、俺らは。
――しかも撮影は真夏ですもんね。
大塚 ほかのみんなはね、現場終われば帰れるけど、俺らは翌日のセッティングを全部そこから始めなきゃいけないから、朝からずっと現場立ち会って、撮影中もメンテナンスやって、終わったら明日の準備してという日々だったから、とにかく忙しかった。
――(アーケードゲームの)機械の機嫌によっては現場はそれを待つしかない、みたいなこともあったでしょうし。
大塚 あったあった。で、しかもそれを理解してもらうのにすごい時間がかかったね。
――まあ、普通の現場だったら、セットなら撮影と照明のセッティングが終わればスタートみたいな感じでしょうけど、それにまた別のファクターが増えてるわけですもんね。
大塚 うん。だから監督もそうだし、すべての人間が最初はゲーム機を小道具としか考えてなかったけど、それがじつは大道具なのか、それ以上のものなのかというのを伝えていくというか、理解してもらわなきゃいけないので。
――「こういうデカいものがセットの真ん中にあるならじゃあカメラはどこに置くんだ」とかそういうことですか?
大塚 そういう次元だけじゃないよね。「動かなくなってるものはなんで動かせなくなるんだ?」という話になってるからさ。
――ああ。「電源が入ってたら動くんじゃないのか」みたいな話に?
大塚 「直せないのか」って話になってさ。で、直せないんだよ。古いゲーム機だから。そうすると極端な話、ヒューズも買いに行ったりとか、そこからしなきゃいけなかったりとか。そういう(撮影スタッフとの)カルチャーの差みたいなのはずっとあったんで、それが結構ヘビーだったかな。
――すごい世話が大変な動物を使って撮影してるようなもんですか。
大塚 ああ、一緒一緒一緒。本当にそう。あとおじいちゃんの役者さんとかを使ってるのと一緒だね。「昨日は機嫌がよかったけど、今日は機嫌が悪い」とか。それがずーっと続いたから、長かったし。
――しかも予算の都合で撮り終えなきゃいけない日はタイトに決まってるわけで。
大塚 うん。お金は厳しかったな。面白かったけどね。
――なんやかんやでのあのテレビ東京の深夜枠が一定の面白さ以上を続けてるのって「予算は少なめでも面白く撮ろう」みたいなのがあるんですかね。
大塚 いや、結局のところ「面白く撮ろう」ということはみんなあるんだけど、最終的にはスポンサーだよね。スポンサーがお金を払うか払わないかだよ。いまでも続くシリーズとかってパチンコ、パチスロのスポンサードがついてお金を払ってくれてたりするから生き延びてるし。そういう意味では厳しかったんじゃない? 視聴率もよくもなければ悪くもない、みたいなギリの状態だったからなあ。いまだに思い入れはあるよ? けれども当時はね、「続編はやりたい」というのはみんなの思いだったけど、やっぱりどこかがお金を出してくれないと続かないよ。そういうことにはならなかった。ちょっと早すぎたのかもしれないし、かと言っていまやってどうなるのかもわかんないし。自分のなかでは――まあ、なんて言うんだろうな、プロデューサーたちふくめてゲームわかってる人いなかったからなー。
――そういうもんですか。
大塚 うん。だからなんだろう、結果的にさ、化学変化が起きるか起きないかは人によって変わっちゃうわけでさ、そこまでは行かなかったよな。
舞台『トウキョウヘッド』
――例えば『トウキョウヘッド』の舞台とかって、ゲームのことがわかってる人がいるかどうかの割合で言うと、また違う感じなんですか?
大塚 全然違う。全然違うというか、舞台の『トウキョウヘッド』でゲームのことわかってたのって、誰もいないんじゃない?
――じゃあさらに少ない感じ?
大塚 うん。監督が俺の原作を古くから読んでて。
――それは上田(誠)さん?
大塚 うん。ヨーロッパ企画の上田さんがたまたま読んでて、舞台の話をいただいたときに「『トウキョウヘッド』をやりたい」っつって俺のところにオファーが来て。あとは「できるだけ協力します」という形でやったという。それからはやっぱりゲームのレクチャーのためにいろんな人たちを読んで、やってもらって。まあ、舞台自体は評判よかったし、いまでもね、いろいろと「また見たい」とか言ってくれるから、ありがたいし。
――僕は罰当たりなことにその舞台見に行けなくて「そのタイミングは海外に行ってて見に行けません」みたいな状態だったので。
大塚 まあ、もう一回はできないよ。あのメンツでは。だって吉沢亮くんなんか使えないでしょう。こんだけ忙しくなっちゃってるからさ。
――ああ。すごいですよね。『ノーコン~』もそうですけど、すごい役者さんたちがブレイクする前に出てもらっているという。じゃあ『トウキョウヘッド』は稽古とかで準備を経ていくなかで、みなさんにそれぞれに『バーチャファイター』とか、ゲームセンターのゲームの独特の面白さみたいなものに気づいていってもらった、みたいな感じなんですか?
大塚 うん。そのためにやっぱり役者さんたちに対してレクチャーしてもらうためのプレイヤーたちに声をかけて、参加してもらって。というのがあったりしたけどね。あとは上田さんに対してこっちができる説明、聞かれたものに関して説明するという。あとはそれ以上に関しては舞台の演出に口出しできるわけじゃないからね。というのはやってた時期だったな。
――『アメトーーク!』とかでNON STYLEの石田(明)さんを見る度に「(舞台『トウキョウヘッド』では)この人が大塚さんの隣にいたのか……」というのを想像して、不思議な気持ちになりますけどね。
大塚 うん。石田さんはやっぱりすごい社交的な方なんで、すごい気をつかってくださって。
――でしょうね。
大塚 俺がずっとひとりで稽古とか見てるときにもわざわざ来てくださって、いろんな話をしてくれたりとかね。
――NON STYLEがM-1だけじゃない芸人さんとしていまも存在感を出し続けてるのって、やっぱりあのふたりに漫才だけじゃない個性がちゃんとあるからなんだろうなあ、というのがじんわりわかってきましたね。
大塚 うん。石田さんはやっぱりそういう意味では芸人さんではあるけれども、社会人としてもしっかりしてらっしゃるので。
――きっと人間として面白い人なんだろうなと。
大塚 うん。すごい真面目な人だよ。
――という気はします。大塚さんはドラマだったり舞台だったりに、図らずもここ5年10年で立ち会うチャンスがあったと思うんですけど、そっちに興味を持つ感じはあります? それよりは外部からゲストとしてできる限りのことをした感じですか?
大塚 お話をいただいてできることはするし。ただそれ以上は自分が踏み込めるものではないというのも自覚しているので。
――なるほど。
大塚 演出家の方だったり監督さんだったりにおまかせするしかないし、役者さんとかも。そこは割り切ってはいるな。それ以上にはならないよね。前みたいに『ノーコン~』のときみたいにフルタイムで現場に入って付き合い続けるというのは、いまの俺には現実的じゃないんだろうし。
――まあ、体力的にもそうでしょうし。
大塚 うん。だからあのときにはできたけど、いまはちょっと。やるんだったらチームの体制も考えてやり直さなきゃいけないし。だって朝早かったもんなあ。で、帰ってくるのは夜中だし。よく生きてたなと思った。たださ、俺自身はそのときは面白いよ? で、「いい経験をさせてもらってるな」とは思ってたけど、事務所にたまに戻るんじゃない? そうしたときに俺の経験値、俺がいま興味があるものというのは浸透してないわけだ。わかんないからね。伝えてもないし。で、伝えたところでわかってもらえないというのはあったよね。ああ、でもそう考えるとその頃からなんかフリーランスの感覚にはなってたのかもしれないね。
――それは三鷹の事務所に戻って、一階で仕事をしてるアシスタントさんなりに、いまやってる仕事の熱気や温度感は伝わらない感じ?
大塚 伝わらないのと同じに、俺あんまりじつはそれが得意じゃないみたいだね。
――昼間のパパの仕事に関心持ってくれ、という感じの空気は確かに出さないなあとは思って。
大塚 というかそんな余裕ないからねえ。
――ああ。たぶんだから事務所で迎える側としては「今日の大塚さん、疲れてそうだなあ」というふうにしかならないというか、そこでなかなか「今日どうでした?」と聞くのも悪い気持ちになるのかもしれないですけどね、推測するに。
大塚 うん……。なんかそういう感じはあったのかな。じょじょにそれが貯蓄されていった感じはあるな。
――うーん。
大塚 余裕ないよ、現場なんか入ってたら。
――僕もちょっとだけテレビの現場にいたんでわかります。撮影は鉄火場なんで。
大塚 それをわざわざさ、彼女でもアシスタントでもいいけど、帰ってきてからいちいち説明するのって。
――「そんなことはいいから早く風呂入って寝たい」という感じになりますもんね。
大塚 うん。じゃないと翌日につながらないからさ。そういうムードはあったなあ。で、しかも俺、ムックとかもそうだけど、本を作り始めたらより寡黙になっちゃうしさ。
――はいはい。また時代が飛びますけど、僕がアンダーセルで大塚さんの仕事に立ち会ったのって、オタク大賞の本を作るのに「大塚さんのデザインが上がるまでアンダーセルに行って見張ってろ」みたいなことになったのが最初で、あのときも『ANUBIS』の本(『ビジュアルワークス・オブ・アヌビス』)のあとで、相当ヘロヘロでしたよ。
大塚 あれは全部、生まれて初めてデザインから編集から全部やってたからね。で、まあ、あれは当時コヤマが手伝ってくれなかったらできなかった本だし。かなり疲弊したよね。実際いまもいい値段で取り引きされてるんで。
――力(りき)を入れた分だけのものにはなってるという証だと思うんですけど。
大塚 うん。ねえ。というのはあるな。
――あれが2003年頃ですか。
大塚 知らんけど。
――(笑)。僕が当時覚えてるのは、あんまりにも大塚さんが眠かったり疲れてたりするんで、本棚にあった眞鍋かをりの写真集を見せて元気づけたという(笑)。
大塚 ただいまは思い返すのが非常に大変なのと、思い返す必要性を感じていないので。とにかく何度も繰り返すようだけど、ちょっとね、たまたま昨日大きな節目を迎えたこともあって、これからのことを考えていかなきゃいけない時期ではあるからさ。昨日は朝イチからそういうことがあったんですげえ疲れて、今日もぐったりでずーっと横になってたね。こういう時間(夕方)になるとずいぶんマシになるし、夜にかけては結構マシなんだけど。そうやって一個一個クリアしていかなきゃいけないんだけど、それで一気に疲弊しちゃった感はあるね。
マイナーカルチャーの触媒として
――その足のむくみは多少マシになりました? まだむくんではいますけど。
大塚 まあ、しょうがないよ。これだけ薬を飲まされてる状況だから。ずいぶんマシにはなってるけどね。
――それにしても大変そうなんで。
大塚 いや、大変だよ。だから日によってまだまだ浮き沈みというか波がある状態だから、あんまり無理できないのもわかってるし。少なくとも外出て歩いて数分のコンビニ行くだけで息切れするぐらい、日常生活送るのも疲れちゃってるからね。
――昨日の疲れが残ってるときにいろいろ聞くのはあんまり良策ではなかったですね。
大塚 いや、べつに逆に言うといましか話せないことってそういうことだから。べつにそこに関しては「今日は体調あんまりよくないからキャンセル」みたいなことを言わなかったのは、今日にしか話せない話というのがあるんで。
――僕もよっぽど「今日は延期します?」とLINEで打ちかけたんですけど。
大塚 俺も体調悪いときは思ったけどね。ずっと寝込んでるときは「来週に切り替えてもらったほうがいいのかな?」とも思ってたんだけど、夜になったらかなり元気になるのはわかってたから、いまにしか話ができないというか、間を空けててもしょうがないじゃん。だから話せる話は野口に対してはしておこうかなと思って。
――ちょっと今日は聞くべき話と、こっちが聞きたいところが全然一致させられてなかったので、今日聞くタイミングじゃない話を最初振っちゃったなと思って。
大塚 うーん、昔話をいまされてもさ、俺にとっての重要度と思い返すことが脳にとって負荷がかかるのがあって。なのでね、どうしてもしぶるというか、難しい問題だなあと思うよね。いまそれは抱えてる問題のひとつではあるかな。
――在宅みたいな形でもいいと思うんですけど、どこかの会社なり編集部なりの仕事に参加していくみたいなプランってあったりするんですか?
大塚 お話をいただいている件もあるんだけど、俺がいまフルタイムで働ける状況ではまだないので。
――月~金とかは無理な話なので。
大塚 うん。だからとにかく自分の体調を整えないことにはそれもまかなえないから。まだわからない。
――条件が整えばない話ではない?
大塚 ない話ではないけど、どれだけいま自分が以前のように働けるのかというのもまだ見えてないから。
――確かに。障害者の人にとってはなおさら高いハードルなので。
大塚 それはもっとも。まあ、この間ブログにも書いたけど、健常者は障害者ではないので、障害者が抱えてる問題というのは伝えても考えてはくれるけど、同じ立場にはならないからね。俺の場合はね、リハビリセンターとかいろんなところで障害者の方たちを大勢見てきたし、自分自身もそういう立場にあるから当然理解は深まってるし、わかるようにはなってるけど。
――(スマホを見て)もう1時間半ぐらいはいただきましたね。
大塚 まあ、いま現状で話せる話ってこういうことなんじゃないかな。いままで結構多岐に渡って話を聞いてくれたし、話をしてこれたんで。
――べつに数ヶ月後とかにまた何回かやっていいわけですし。
大塚 そうね。
――来週も録っても録らなくても、どっちでもいいですけど。
大塚 そうだね。いま最大限話せる状況というか、話ができることってこれぐらいかなあ。まあ、ひと区切りついてるとは思うんで、今月中とか来月には。
――ミカドがきっかけで大塚さんを知った人も結構多いと思うんで、もうちょっと『燃えプロ』(『燃えろ!!プロ野球ホームラン競争』)だったり、ヌルシュー部(難易度が低めなシューティングゲームを楽しむミカドの部活動、大塚が副部長を務めた)の話があってもいいかもしれないですけど。
大塚 いやあ、やめたほうがいいと思うよ(笑)。なんでかと言うと、もう新しいカルチャーがあそこには生まれてるので。で、そこに俺は付き合えてるかと言うと付き合えてないから。古参の人間としてはべつに。
――何年か前に大塚さんは触媒みたいなものは入れたかもしれないかもしれないけど、その後も化学反応が起こってるならわざわざ首を突っ込むこともないか、という?
大塚 ということだよね。その余裕が当時はあったんじゃない? いや、あったんだよ。面白かったし。ただいまはもうすでに動いてるものだから。そうなるといつも思うけど、俺の中では卒業というかひと区切りになっちゃうから。
――体が思うようになかなかいかないような状況でも、例えば大塚さんのこれまでの20年30年って停滞してるものだったり、あるいはまったく世間的に注目されてなかったところに刺激を与えることで何か活性化させてくるというのが、表現のひとつの柱だったと思うんですけど、そこへの興味は体がこういう状態でもまだ保ち続けている感じですか?
大塚 うん。だからマイナーカルチャーに関して面白いものがあればとにかくメジャーにさせてあげたいというか、オープンソースにしたいという気持ちはいつも変わらずにあるんだけど、いまは何度も繰り返すけど、それよりはとにかく自分のことを考えなきゃいけないという時期になっちゃって。その自分のことを考えるということをずっとし続けなきゃいけないというのは、なかなか大変ではあるよね。まだ見えてないね、全然答えが。
――体というのも大きいテーマだと思うんですけど、そういうインナースペース的な興味を持たざるを得ないという感じなんですか?
大塚 それは強いよ。ただそれをするために必要なのって肉体も大事だけど、脳の力をフルで使わなきゃいけないという問題もあるんだけど、その脳自体にここまでの負担をかけるというのはなかなかいままでできてなかったというか、してないわけじゃないんだけどそれでやっぱりかかる負荷というのはデカいからね。だからすぐ疲れちゃうし。
――本を読むとかそういうことってできます?
大塚 ああ、もうすっごい減った。なんかあるとね、すぐ知恵熱を出したりとかもするしね。だからこれから先どうするのかな、というのを模索しながらやっていくしかないし。
――例えば散歩以外に筋トレとかできるものなんですか?
大塚 いや、厳しいね。散歩するのも筋トレするのも体力必要なんで、そこがガタ落ちしてるから、そこから始めないとすぐ息切れしちゃってね。すぐ疲れちゃう。ちょっと何かしたらちょっと休んで、ちょっと何かしたらちょっと休んで、ということの繰り返しにはなってるから。劇的に一瞬でよくならないというのはね、リハビリの先生とかにも言われてるんで、じっくりやっていくしかないんだというのはね、あるけど。もどかしいというのも終えたよね。
――変な話、健康法だの民間療法みたいなのが前より気になるようになったりとか、そういうことってあったりします? 結構なおじいちゃんおばあちゃんがそういうものの情報に振り回されたりしてるじゃないですか。通販みたいなのでも。
大塚 あれもね、金かかってばっかりだからね。
――いやあー、金かかるというか「金取るなあー」みたいなもんばっかり売ってますよね。
大塚 それはね、最低限に抑えていかないと。効果ないもんばっかりやっててもしょうがないしね。で、しかもさ、何度も同じこと言うけど、いまの状況を誰かに説明して共感してもらえることだとも思わないからねえ。自分で自分の処理をしていかなきゃいけないわけだから。
――それはある面ではそのとおりで、でもそうじゃない面もあると思うんですね。でなかったらみなさん――ツイッターなりネットで軽く知りたいぐらいであっても――もっと周囲に知られないまま障害者生活を送ってる人は世の中にたくさんいるとは思うんで。
大塚 そういうコミュニティがあるのも知ってるし、わかるんだけどね。微妙なんだよね、それも……。
(チャイムが鳴る)
大塚 ちょっと一回止めてもらっていい?
そして「第一部・完」
大塚 じゃあ最後締めで、野口のほうから振り返ってなんかありますか?
――うーん、僕がアンダーセルにいた時代(2003年から2010年ごろにかけて)の話って今回聞けなかったことばっかりなんで、それを置いといて振り返るのもなんですけど、そうですねえ……でもまあ、20年か。たまたまですけど平成も終わっちゃうわけで、でも40代半ばでのブレーキというのはまだ若いと言えば若いと思うんですね。平均寿命で考えたらまだ30年ぐらいはあるなかでのブレーキなので。僕はまあ、以前と同じような形での復帰でなくてもいいとすら思ってるんですけど、大塚さんの今後、そうですねえ……だって大塚さん、書きたくなかったら書かないじゃないですか(笑)、どっちかと言うと。
大塚 「どっちかと言うと」どころか書かないよ。
――使命感なり「俺じゃねえと書く奴いねえからなあ」みたいな状況が大塚さんを書かせていたと思うんで。
大塚 うん。だからその回数が決して多くないからね(笑)。(ライターや作家ではなく)デザインで食ってたというのもあるし。
――前に志田(英邦)(ライター/大塚編集の本に度々参加)さんと雑談してたときに僕は「大塚さんは京極堂(京極夏彦の小説「百鬼夜行シリーズ」の中心人物)みたいな人なんで」って例えたことがあって。「まわりで人がバタバタ死んでいっても『俺が出ていくしかない』という局面になるまでは憑き物落としをしてくれない人なんで」みたいに例えて「確かにそうかもねえ」みたいな感じで志田さんも笑ってましたけど。
大塚 ふっ。
――逆に言うと、大塚さんがそこまで動いてくれたときって読者にとっては必ず物事の見方が変わったりだとか、憑き物的なものが落ちたりだとか、重い腰を上げてくれた甲斐があることばかりだったんで。ただもしかしたらその積み重ねが無意識的に大塚さんの腰をさらに重くしてたのかもしれないなあ、とも思ってたりするんですよね。もっと短編ぐらいの感じで重い腰を上げてもらってもいいのかなあというか、もうちょっと大塚さんの「どっこいしょ」が軽くなると、ご本人的にも負担が少なくていいのかなあ、みたいな。
大塚 うーん、それは難しいねえ。なんでかと言うと重い腰を上げてやるから俺の仕事になってるわけで、それで重い腰を上げて評価が得られて仕事をしてきたんだけど、そのためにはやっぱり編集部たちからすると不透明な部分が多すぎるんだよ。実制作は全部俺が請け負っちゃうから。それでやっぱり売れたとしても次につながるというケースはなかなかないんで。
――(編集部の)「もっと定期的に量産してくれ」みたいなオーダーとは噛み合わないというか。
大塚 そういうことだよ。「定期的に量産してくれないと」というのがあるからさ。だから宮の仕事が増えたのもそういうことだしね。俺からすると薄いんだけど、そういう仕事の仕方というのは後にはなかなか残らないからねえ。
――大塚さんは量産型じゃなくて、ついS(スペリオル)ガンダムみたいなものを作っちゃうわけじゃないですか。「つい」というのは失礼かもしれないですけど。
大塚 というのは、それ以外のやり方でやったときに何か成功するのかと言ったらさ、自分の価値があるのかとか、お客さんが喜ぶというところにつながらないんだよな。
――うーん。じゃあいま本とか読めない状況で日記を書いてもリハビリばっかりで変わり映えもしなくなるか……。いや、軽めの療養日記みたいなのもひとつの手かなと思ったんですが。
大塚 うーん。ネット上やブログでそういうことをして、反応は決して悪くないし、アクセス数も悪くないんだけど、お金に結びつくかというとね、難しい問題もあって。
――ちょうど谷口隆一(または「タニグチリウイチ」名義)(ライター)さんが最近暇ができたというか、ご本人曰くリストラされたみたいで、いままでずっとウェブ上に残してきた日記を96年ぐらいから読み返して振り返る文章を最近載せてて。
大塚 してるね。きついなと思うよ、収入がないから。雑誌媒体で連載を持ってたわけじゃないからね。
――あれだけの時代の証言であっても、それは直接はお金にならないんだなあと。
大塚 ならないよ。編集部で給料もらってるだけだったろうからさ。大変だよ、紙媒体で生きていくのは。そういう時代のなかでどうやって生きていくのかというか、新しい可能性、未来を作っていくにはいいタイミングだったんじゃないの、今回。
――それこそミカドが配信とかいっぱいやってますけど、タイミングがあればアンダーセルで動画コンテンツをやるとか、そういうことって考えたことはあります?
大塚 うーん、考えてたけど、なんかピンと来なくてね。動画コンテンツだってタダだから。
――あれだけでお金にしようと思ったら相当大変ですからね。
大塚 いまはね、少しずつそういうことにトライしてるのは知ってるし。
――それまで動画を作って世に出すことにお金がかかってたのがゼロに近くになったというメリットはありますけど、動画でお金をプラスに持っていくのは相当大変なんで。
大塚 同じことはほかの媒体でもできないし。
――でもここまでいろいろお話を聞かせてもらって、万全じゃないにしても大塚さんの記憶だったり、考えだったりみたいなのが、事故で一回断絶はあるにしても引き続き続いているんだというのを言葉に残せただけでも、一番の大きな目的は果たせたと思うので。
大塚 であるならばよかった。
――また今後どういう形になるかわからないですけど。おしゃべりなのかテキストなのか。
大塚 まあ、とりあえず結構な尺録ってるんで、それを分割してオープンにして、それを徐々に小出しにしてくなかで自分自身の状況や環境も、考え方も変わっていくのかなという気はするから。
――そうですね。聞いてもらったり、読んでもらった人からまたリアクションもあるかもしれないですし。
大塚 うん、そうだね。
――ここまで聞いてもらったり、読んでもらった人には「長い時間お付き合いいただいて、ありがとうございました」という気持ちもありつつ。
大塚 うん。これで第一段階はひと区切りかな。
――とりあえず最初のシリーズとしてはいったん締めということで。
大塚 まあ、さんざんね、死にかけた人間としてはまだ死亡率が下がってるわけではないし、この先何があるのかは俺にもわからんし。けれどもいちおう現状しゃべれることは野口とお客さんには伝えてるつもりではあるので。まずはここで一回ひと区切りにしようか。
――わかりました。3回に分けて長い時間、収録ありがとうございました。
大塚 いやいや、逆に野口には毎回わざわざ来てもらって。感謝してます。
――いえいえ。
(書き起こし以上)
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長いインタビューの後の、長いあとがき
「なんとなく野口がこの間言ってたオレの生い立ちインタビュー、ちょっとやってみようかなという気になってる。」「面白いかな?」
そんなLINEを大塚ギチ――いつも呼んでいた形に呼び直すが――大塚さんから受け取ったのは2019年の2月12日だった。すぐに「いいですね」と返して、大塚さんの体調や、こちらが新宿までゆっくり出向けるタイミングなどもあり、収録は3月の終盤からとなった。桜もすでに咲いていて、初回はとくにいい日和だったのを覚えている。疲れやすくなった体をわざわざ押して新宿駅まで迎えに来てくれた大塚さんは、健康体ではないけど思ったよりは元気そうという感じで(正直もっとやつれた姿も想像していた)、およそ8ヶ月ぶりに会った風貌はスカジャン姿と茶髪というもので、先祖返りではないがヤンキー度が増していて、ちょっと面白かった。
大塚さんが転倒事故を起こした、という連絡を当時のアシスタントのクドータクヤさんから受け取ったのは2018年の7月末だ。僕はアンダーセルを卒業(退職)してフリーランスになってからも大塚さんの仕事を手伝うことが度々あり、ここ3年ほどは三鷹の事務所で月に何度か、空いている机を借りて作業させてもらっていた。事故と手術、入院については本当に大変だったらしい。ご家族で唯一東京圏内にいたお兄さんとクドーさん、ミカドのイケダ店長といった人たちがケアに奔走し、大塚さんはなんとか一命をとりとめたが、その大変な状況について本人は退院後「いやーそれが覚えてないんだよなー」のひと言でけろっと済ませているのだから、本当にひどい人である。記憶を司る部分に障害を負ったので(運動野の障害ではないので半身不随などではないし、呂律も回っていた)それも仕方ないが「この人、少しは覚えてるけどまとめて覚えてないことにしてるのでは……?」と思わないでもなかった。
そんなわけで転倒事故を経て、少しおじいちゃんになった大塚さんからは、2018年の秋ごろから時々電話やLINEをもらうようになった。残暑の頃に来た最初の電話は意識もあやふやで、事実誤認や被害妄想も混じり、泥酔した大塚さんと話しているような感じで困惑したが(お酒は止められていたのでさすがに飲みながらの電話ではなかったと思う)、月を追うごとにしっかりした話し方になり、2019年に入ってからは、話が時々繰り返すことを除けば、以前と同じように話せるほどになっていた。
電話口で「昔のことを思い出すのもリハビリになると思いますよ」と口にしたのは、年明けの頃だった。言外には「だっていつ死ぬかわからないから」というカッコ書きも正直あった。大塚さんはそのときは「ちょっと考えてみるわ」という感じだったが、数週間ほど経って冒頭の返事をもらえることになった。大塚さんの回復はもちろん嬉しかったが、同時に再発率も高いと聞いている。アンダーセル時代に聞きたくても聞けなかった話は山ほどあり、本人がそのまま健在でいてくれて、遺言として使う必要がなければそれに越したことはない。ドライな言い方をするわけではないが、僕にとって大塚さんは転倒事故を起こした2018年7月の段階ですでに一度死んでおり、そのあとの数ヶ月は奇跡的にもらえた猶予期間だと思うようになっていた。
1回目、2回目は充実した収録となった。大塚さんは「一日で集中できる時間は限られるようになった」とこぼしていたが、テンションを保ちながらおしゃべりを3時間、4時間と続けられる体力が戻っていることにはほっとした。3回目の収録はそれに比べると本人の体調も思わしくなく、収録を聞き直してみるとインタビューとしても精彩を欠いている。口も重く、こちらは内心「なんでも話すって言ってたじゃん!」と思う気持ちも少しあったが、療養中の人間に対して無理に聞く理由もない。こちらはそのまま4回目、5回目とさらに毎週足を運んで引き続き聞いていくつもりだったが、いつの間にか大塚さんのほうから「とりあえず今回でいったん区切ろうか」ということになり、ひとまずの「第一部・完」という形となった。
4月18日。大塚さんからメールが来た。
「おつかれ! このあいだはありがとう。
じたくで携帯をなくしてしまった!
もうしわけないんだけど
見つからず。ちょっと携帯鳴らしてもらっていいかな?
ちょっとベットで寝込んでてベットで探してたんだけど
いまだ見つからず…。(電話番号)
すまないいですがよろしくです。」
メールで来たのは、つまりPCだけは使えるのだろう。すぐ電話、Facebookのメッセンジャー、LINEのLINE通話でかけてみると、コール音はするものの、そのまま留守電になってしまう。「かけてみましたが、反応ありませんでした。」とメールで返す。大塚さんからは「うーん。死んではないよだね。どこにあるんだろうか。」「留守電のオペレーターは出るんだよね?」という短文のメールが2通届き、それが僕と大塚さんとの最後のやり取りとなった。
このときは心配こそしたものの、それが最後になるとは思っていなかった。シリアスに受け取らなかったのは、以前にも二度ほど大塚さんから同じ問い合わせがあったからだ。どうも短期記憶の能力がかなり弱っているらしく、スマホをどこに置いたかという些細なことがとくに思い出しにくいらしい。僕のいる松戸から大塚さんのいる新宿までは、行けなくはないが気軽な距離でもない。いずれにしてもメールは使えるのだから、何かあれば連絡が来るだろうとたかをくくっていた。
それから10日ほど経った。さすがに気になり「スマホ見つかりましたか?」というメールやメッセージを送ってみたが反応はない。電話やSNS通話もかけてみるが、バッテリーも切れたらしくコール音なしで留守電になってしまう。スマホの契約手続きに詳しいわけでもないが、障害者の大塚さんが仮にひとりで再契約と開通を試みたとしても、10日はかかりすぎだろう。
そんな矢先、以前大塚さんと縁があった映像関係の方からDMをいただいた。その方も大塚さんのことが気がかりで、最近大塚さんと会っていたらしき僕にコンタクトを取ってみたという。僕からはスマホの紛失を説明し「その後どういう状況なのか聞いてみます。いきなり体調が悪くなっているとか、そういう不安が的中してはないとは思うのですが、ケアが必要なら動かないといけませんし。ご心配ありがとうございます」と返した。タイミングが悪いことに改元に合わせてゴールデンウイークは10連休となっており、大塚さんが通っていたリハビリ施設もいつも通りのスケジュールではないはずだ。アンダーセルの精算もすべて終わったと聞いたので弁護士さんが来ることもなさそうだし、事務所の片付けが終わって以降、激務のイケダ店長が様子を見に来る余裕もないだろう。プライベートなので聞かなかったが、彼女にあたる方がどのくらいの頻度で自宅に来ているのかも知らない。急に不安になった。
4月30日。その後もメールに返信はなく、西新宿の大塚さんの自宅まで足を運べたのは結局平成最後の日になってしまった。新宿中央公園近くのバス停を降り、小雨が降るなかマンションまで歩く間に可能性をいくつか考える。
・自宅にいるが単に連絡が取れないだけ
・代わりの連絡手段がないまま帰省や旅行で長期間外出している
・病院か警察のお世話になっている
・死んでいる
アパートとしては大きく、マンションと呼ぶには小さいその建物は、昨年夏の転倒事故を起こした階段まわりに蛍光灯も手すりもなく、昼なお暗い。マンション入り口の郵便受けには郵便物が溜まっており「自宅にいるが単に連絡が取れないだけ」という最良の可能性は早々に消えた。
チャイムを鳴らし、ドアを叩き、「大塚さん!」と何度か呼びかけても返事はない。その音を聞いた隣室の人も顔をのぞかせたが、本人の姿はしばらく見ていないという。大家さんが同じマンションに住んでいると聞いて部屋番号を教えてもらい、そちらのチャイムも鳴らしてはみたが不在だったので、事情を説明する置き手紙と連絡先の名刺をドアの新聞受けに挟んで帰ることにした。あとでイケダ店長に聞いたが、このとき大塚さんの部屋のドアの鍵は開いていたらしい。僕がドアノブに手をかけてみなかったのは(間抜けだが)単なる偶然だ。
夕方に大家さんから連絡があり、大家さんもかなりの日数見てないどころか、このところゴミを捨てた形跡もないという。大塚さんのゴミが出てないと判別できるのは、つまり本人がいつも飲んでいる白ワインの瓶が最近まったく捨てられていないらしかった。並行して連絡を取っていたイケダ店長からも「近日様子みてきます」「大家さん立会いで鍵開けます」と折り返しのメッセージがあり、こちらはすべてを託して「よろしくお願いします」と返すしかなかった。
明けて2019年5月1日。世間的には令和になった。お昼になってイケダ店長から「亡くなってるみたい。」「警察呼びました」というメッセージが届いた。イケダ店長はどうしても都合がつかず、代理でミカドのアキラさんとTMFさんに代理で行ってもらったところ、自宅のドアの鍵は開いていて、部屋を開けたところ異変に気づき、すぐ警察を呼ぶことになって、アキラさんもTMFさんも遺体を直接見ることはなかったという。警察の検死によれば死亡推定日は4月18日ごろ、つまりスマホをなくしたという僕とのやり取りのあと、ほどなくして亡くなったらしい。そんな早くに、とは驚いたが、もし息を引き取ったのが直近の29日や30日であれば「もう少し自分が早く動けば助かったかもしれない」という後悔を一生抱えることになったわけで、そうならずに済んだのはせめてもの救いだった。死因は多臓器不全とのことだが、部屋で暴れた形跡などはなく、おそらくそれほど苦しまずに、眠っているかそれに近い状態のまま息を引き取ったのではないか、ということだった。
5月3日。大塚さんの死が発表される前に池袋ミカドのスタッフルームにイケダ店長、クドーさん、ルパン小島さん、アキラさん(TMFさんは不参加)といった、大塚さんの死を先んじて知るごく一部の人たちが集まり、ご親族とのやり取りをイケダ店長を通じて聞きつつ、それぞれの情報を共有する機会が設けられた。僕しか知らなかったことを話し、逆に僕が知らなかったことを聞くうちに「遅かれ早かれいずれこうなっていた」「一番の生存ルートは北海道の実家での療養だったが本人がそうしなかった」「本人が太く短く生きたかったのだから仕方がない」ということで晩年の大塚さんをよく知る全員の意見が一致した。聞けばお酒もやめてはおらず、転倒事故が直接の原因とは言え、お酒が寿命を縮めたのは言うまでもない。
世に流通するすべてのインタビューが、何らかの形で公開前に情報の足し引きが行われているように、このインタビューにもオフレコ部分はいくらか存在する。そのなかで僕は大塚さんに「新宿から引っ越す考えはあるんですか?」と聞いていた。新宿の家賃は割高で、多くの義援金をいただいたとは言え生活コストは抑えるに越したことはない。当面は入るお金を稼げない以上、負担は減らして療養に専念してはと聞いてみたが、大塚さんはいろいろ理由をつけて首を縦には振らなかった。結局のところやはり新宿が好きで、愛着と執着が強かったのだと思う。なにしろ『バーチャファイター』のブームの中心は新宿西口のゲームセンター「スポット21」だったのだ。ほかにもロフトプラスワン、ネイキッドロフト、ゴールデン街、そういう新宿の猥雑さがよく似合う人だった。
「野口、人は死ぬんだぞ」――そう大塚さんに言われたのは僕がまだアンダーセルにいて、ウェブニュースのライターとして少しずつ経験を積んでいた下積み時代のことだ。コミケの代表を長く務めた米沢嘉博さんが、53歳の若さで亡くなったという訃報記事をアップし「米沢さん、まだそんなお年じゃないですよね」とこぼした僕に、大塚さんはこう返したのだった。米沢さんとのご縁は当時オタク大賞にゲストで出ていただいた程度だが「この人の話をもっと聞いてみたい」と思わせる人だった。気取った言い方ならメメント・モリという格言に近いかもしれないが「人は死ぬんだぞ」という大塚さんの言葉はそれ以来ずっと意識するようになり、その言葉のおかげで今回のインタビューも取ることができた。皮肉にもその対象は大塚さん自身になってしまったけれど。
言霊、スタンド能力、どういう説明が一番しっくり来るのかはわからないが、自身や周囲と表現を巡って格闘するうちに肉声とテキストでそういう言葉の力を最大限に引き出す力を手に入れた、特殊な人だった。インタビュー中のやり取りにもあるが、人に向けた言葉のインパクトが強いわりには、本人がきちんと覚えてないのだから(酒の席ならなおのこと)時にそれはトラブルの種となったが、好きか嫌いかはともかく、人の心の水面に波風を立てる、そうした大塚さんの言葉の力に疑問を差し挟む人はいない。
僕もアンダーセルを出てしばらくは、まだ生きていた大塚さんの生霊に「ヌルいもん書いてんじゃねえぞ」とささやかれていた。後に現実の大塚さんと再び会うようになり、生霊はささやかなくなったが、今後はしばらく死んだ大塚さんから頭の片隅で何かつぶやかれることになるだろう。いつもそういう力のあるメッセージを飛ばし続けていた人だった。いくらか衰えたとは言え、その一端がこのインタビューを通じて少しでも伝わったのなら、大塚ギチという存在を共有し、覚えている仲間として、このあとがきまで読んでくださっている「あなた」に対して本当にありがたく思う。いまは「最低限のことはできたか」と荷を下ろす感覚と「ほとんど全部墓まで持ってかれてしまった……」と途方に暮れる感じと、その両方だ。
ガンダムのメディアの可能性を広げた『G2O』と、完結には至らなかった小説『フォー・ザ・バレル』の実像、
『Newtype mk.II』『フォー・ザ・バレル』『だから僕は…』(文庫版)で相対した富野由悠季という巨大な存在、
ゲームライター時代からの長い付き合いとなった脚本家・佐藤大との友情、
『ジョジョの奇妙な冒険』のノベライズに宮昌太朗とどう取り組んだのか、
『ANUBIS ZONE OF THE ENDERS』の打ち上げの席で小島秀夫監督と喧嘩したという話、
『イノセンス』を巡って押井守、石川光久、鈴木敏夫という三者とどう対峙したか、
雑誌『CONTINUE』誌上でのさまざまな仕事と、なぜ復刊には参加しなかったのか、
プロダクションI.Gの山荘で神山健治監督らと寝食をともにしながら行われた『精霊の守り人』(ノンクレジットで脚本チームに参加)の脚本合宿、
年上の飲み友達、メカデザイナーの出渕裕とどんな話をしていたのか、
夜な夜なファミレスで京田知己監督と行われた『交響詩篇エウレカセブン ポケットが虹でいっぱい』の脚本打ち合わせ、
『FREEDOM』で意気投合した若手の森田修平監督と楽しく酒を飲んだという話、
近年の転機となったアーケードゲームシーンへの(本人曰く)出戻りと、ゲームセンターミカドの存在、燃えプロ、ヌルシュー部、エアガイツ、バーチャファイター3tb、
晩年の仕事となったゲームレコード、上條淳士『TO-Y』のフィギュアプロジェクト、田島昭宇『MADARA』復刻プロジェクト、
大塚さんを拾い上げ、同時に壁ともなり、理解者と敵が入り交じっていた巨大な組織、角川書店(現・KADOKAWA)に対する考え、
「怒り方も説教の仕方もそっくり」と周囲が語る、あさのまさひことの長年の師弟関係、
アンダーセルの作業机の脇に永野護のサインが書かれたカードが大事そうに置かれていたこと、
どんな小説、どんな映画、どんな音楽が好きだったのか、
何十回になってもいいから、そういうものをできる限り聞くつもりだった。すべて墓まで持って行かれてしまった。大塚さんと表現のあり方を巡って論を交わした、相手の方はまだ生きているかもしれないが、大塚さん本人にそれを聞くことはもうかなわない。全8回、合計14万字超という、ロングインタビューとしても過剰な量の言葉を費やしてもまだ「第一部・完」でしかないのは、つまりそういうことだ。
いまは多くの人がスマホを持っている。それは写真が撮れ、動画が撮影でき、そして録音もできる道具だ。最後にこれを読んでいる人に向けてお願いするが、家族、友人、興味はあるけれど会ったことない人、もしそういう人がいるなら、どうかその人が生きているうちに話を聞きに行ってほしい。なぜなら人は死ぬ。僕もあなたも。あなたの大切な人も。録音ができなければ話を聞くだけでもいい。いきなりコンタクトを取って変な勧誘と思われると困るのなら「最近知り合いが早死にしちゃったもんだから」と、このインタビューを口実にしてもらっても構わない。今回の僕は、たまたま運良く間に合っただけだ。
島本和彦先生はかつてクリスマスを孤独に過ごす人たちに「サンタになれ!」と説いた。大塚ギチも、サンタのように個人ではなく概念になればいいのにと思う。大塚さんが人生のいくらかを削って分厚い本を作った『天元突破グレンラガン』のカミナのように、大塚ギチはもういない。それでも本気に表現したいものに対して、誰でもいくらかは、大塚ギチのように本気で取り組むことはできると思う。「あんな人はいなかった」と言うだけではなくて、そう思ってくれるなら少しだけでも大塚ギチのようになって、何かアクションを起こしてみてほしい。できれば死ぬ前に。
こんなに長いインタビューと、そのあとがきにまでお付き合いいただいて、本当にありがとうございました。大塚ギチに代わってお礼申し上げます。それとみなさん、お酒はくれぐれもほどほどに。
2019年6月23日
ゲームセンターミカドの大塚ギチ追悼イベント当日に高田馬場で
野口智弘