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アンディ・ウォーホル・キョウトに行って、切なくなった話

アンディ・ウォーホル・キョウトに行ってきた。
7月に前売りペアチケット買って待つこと3か月。
待ちに待った11月22日「いい夫婦の日」に行ってきた。
娘と。
(娘のお誕生月なので、バースデープレゼント)

展示コンセプトがアーティストアンディの軌跡をたどるような構成で、若き画家として走り始めた時期からポップアート・キングに上り詰めた絶頂期、そして人気アーティストならではの孤独、そして死への意識が支配した終焉まで、彼の人生を体感するような展示だった。

私はピッツバーグの近くに昔住んでいたことがあるので、彼のアート人生がピッツバーグから始まったってのも勝手な親近感に思えたし、京都訪問した時の写真には、京都市民として「ここにいはったんや」という感慨に浸ってしまった。京都の旅やホテルのパンフ類、荷物送付の控えまであって、なんでも記念にとっておくタイプの人なんだ。意外と庶民的でかわいいなとそんなことにまで微笑みが止まらなくなった。

Andy Warhol Kyotoより

展示作品については私なんかがどうのこうのいうようなもんじゃないと思うので、「ぜひ観に行って体感することをお勧めする」としか言えない。
一つ参考までに「アンディ体感中」の娘の写真をのっけとく。
(あ、動画はダメだけど、写真は撮り放題でした)

Andy Warhol Kyotoより

ウォーホル作品はいわずもがなポップでかわいい。
よって鑑賞後のミュージアムショップのグッズのクオリティがハンパない。
何も買わずに帰れる人いるか?と思った。

類にもれず、トートバッグをお買い上げ……(テンション上がる)。

Andy Warhol Kyotoより

展示もよかったしトートバッグも手に入れてとても満足な時間を過ごせたのだが、実のところ、「Andy Warhol Kyoto」とは全く関係ない理由で、私は会場に到着してからずっと切なくて切なくて泣きそうだった。大好きなAndy見れるうれしさと興奮がいっぱいなんだけど、それを凌駕しそうな切なさがこみあげてきてその間で揺れ、感情の置き所に困っていた。

会場は京セラ美術館の東山キューブというセクション。初めて訪れる人は、「なんてきれいでかっこいい美術館だろう」と感嘆すると思う。
しかしここは、名を変える前は京都市美術館。私が「育った場所」といっても過言ではないのだ。レトロモダンな美しい場所で大好きだった。
すぐ近くに住んでいた幼少期から、夏などはとくに毎朝パンくずを入れた袋をもって散歩してきては、裏の池の鯉に餌としてやるのが日課だった。私が水面に近づくだけで鯉たちが集まってくるほどだった。
そして母が券売所でパートをしていたため、美術館の中にもほぼ自由に出入りしていて、エルミタージュ美術館展、印象派展、エジプト展などなど、子供のころからすべての展示を観ていた。(はいごめんなさい。古き良き昭和の時代の裏口見学ってやつです。もう時効ってことで……)。
重厚で巨大な扉がちょっと怖かったこと、高い天井の漆喰の白さ、レトロな照明の幾何学模様、大理石の手すり造作の光沢と触れた時の冷たさ。全部蘇る。
中学生になると、美術館の敷地や裏庭を通り抜けて登下校していた。学校の帰りに友達とお菓子食べながら恋バナした場所、バドミントンの「自主練習」してた場所でもある。
その面影がかろうじてこの池の藤棚ベンチ一つになっちゃってたわけだ。

私の……あ、違う、美術館の裏の池

この池から振り返って見回すと、もうあまり昔の美術館の面影がない。
思い返せば、今アートに取り組んでいる自分の原点は、ここ京都市美術館だったと言える。その思い出の場所をところどころハサミで切り取られて、新しい素材でコラージュされたみたいだ。それはそれで斬新で美しいのだけれど、心の中にある思い出の姿を失ったようで、切なさがこみあげた鑑賞だった。

(このベンチに座っていると時々聞こえる「ぱお~~ん」っていう象の鳴き声は健在だったのでちょっとほっこり。池の向こうの通りを渡ると動物園なので)


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