【司馬遼太郎】人間というもの①
心に響いたものの抜粋となります。
人間の厄介なことは、
人生とは本来無意味なものだということを、
うすうす気づいていることである。
古来、気づいてきて、いまも気づいている。
仏教にしてもそうである。
人間は王侯であれ食であれ、
すべて平等に流転する自然かの一自然物にすぎない、
人生は自然界において特別なものでなく、
本来、無意味である、と仏教は見た。
これが真理なら、たとえば
釈迦なら釈迦がそう言いっ放して去ってゆけばいいのだが、
しかし釈迦は人間の仲間の一人として
それでは淋しすぎると思ったに違いない。
『ある運命について』(「富士と客僧」)
「なるほど、人間を超脱することは、稀有のことではある。
がそれだけでは、木石鳥獣と変るまい。
木石鳥獣は、ただ、じねんに生きておる。
あのものどもは、生死を思いわずらうこともあるまい。
おのれの煩悩をわずらうだけの才慮を与えられてはおらぬでな。
生死を超脱するだけが解脱の幸福なら、
人間は木石鳥獣になればよい。
坊主も、釈尊を拝まず、松の木でも拝んでおれば済む」
『梟の城』
釈迦は人間の苦悩が、
その心よりおこるものであると分析し、
さらに心と、心がつくりだす苦悩を見つめきって、
苦悩からのがれようとすれば、たれもが
その内面から自分を変える必要があるとした。
心は、心そのものがわるいのではなく、
その深奥に一ヵ所人間を苦しませる部分があるとする。
その部分から毒素を分泌しているために、
人間は苦しむのである。
その部分か、あるいは毒素のことを、
釈迦は妄執という概念でとらえた。
『十六の話』(「華厳をめぐる話」)
「何度もいうが、人間には志というものがある。
妄執と申してもよい。
この妄執の味が人生の味じゃ。
わしの妄執は、稲妻を小さな皿に盛ろうとするに似ている。
この清冽な味は、おぬしら人生の遊び人にはついにわかるまい。
わからぬことは口出しをせぬ方が智恵者じゃ」
『梟の城』
「人のいのちは、何のためにあるか」
氏親は、きく。
「人の世に用立てるためにござる。
子は親に尽すために存し、
親は子を育てるために存し、
あるじは妻のために存し、
妻はあるじのために存しまする。
ひとことにて申せば、人は人のために存するかと⋯⋯」
早雲は、この齢になって、
人が生きてゆくということはそのようなものだ、
と思うようになっている。
『箱根の坂 中』
そういう下層の民は、
いままでのような神仏があってはこまるのである。
猟師や漁師は殺生をせねば一日も暮されぬ連中であり、
貧乏百姓も、子をうんでは間引いて殺している。
この連中がその殺生のゆえに極楽へゆけぬとなれば、
救われようがない。
生きて貧窮にあえぎ、
死んで地獄にあえぐとなれば立つ瀬がないではないか。
親鸞・蓮如の汎神論を否定した
ほとんど無神論のにおいさえもつ教義は、
乱世のなかで大きく迎えられたのは当然であろう。
『妖怪』
「悪とは何ぞや」
陶芸家はここで懸命の演説をぶとうとしたが、
しかし語学力がついてゆかなった。というよりも、
相手に対する誤解をいよいよ深めることになる、と用心した。
陶芸家がいいたかったのは、
人間というのは存在そのものが悪なのだ、
ということであり、
法然や親鸞の言葉を持ち出そうとも思った。
人間は道を歩けばアリを踏みころす。
生きてゆくためにはおなじ生物仲間の魚介を殺して食わねばならない。
本来殺生戒という大悪を犯さずには生きてゆけないのである。
それをせずに生きられる者のみが善人であるが、
善人というのは果たしてこの地上にいるか、
善悪をつきつめればそれほどむずかしいものである。
日本の簡素な仏教はそういう善悪観の上に立っている、
と言いたかった。
しかし善悪についての考えのちがう回教徒を相手にこんなことをいえば
どういう騒ぎになるか知れたものではない。
『歴史の舞台』(「友人の旅の話」)
正義という多分に剣と血のにおいのする自己貫徹的精神は、
善とか善人とべつの世界に属している。筆者などは
善人になれなくてもできるだけ無害な存在として生きたい
とねがっているが、
正義という電球が脳の中に輝いてしまった人間は、
極端に殉教者になるか、極端に加害者にならざるをえない。
正義の反対概念は邪義であり、邪義を斃さないかぎりは、
自己の正義が成立しようもないからである。
『ある運命について』(「奇妙さ」)
こちらの内容は、
『人間というもの』
発行所 株式会社PHP研究所
訳者 司馬遼太郎
2004年4月19日 第1版第1刷発行
を引用させて頂いています。
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