「ご先祖様に申し訳が立たない」という視点は結構重要。
誰にでも父方、母方にそれぞれ幾人ものご先祖様がいる。そして当たり前なのだが、遡れば歴史のどんな時代にも自らの血縁者が生きていたのである。由緒ある家系であれば古くからの家系図が残っていることもあるかもしれないが、現代を生きる私たちのそのほとんどは、自らのルーツというものをよくわかっていない。仮に言い伝えられているものを知っていたとしても、そのルーツは幾多あるうちのたった一つに他ならない。そして時代が古くなればなるほどよりわからない。しかし霊感でわかることがある。時に古い史跡などを訪れると先祖因縁というものが浮上してくることがあるからだ。その場所が、非業の死を遂げた自らの血縁者由来の場所だったりすることがある。私にはそれは時に肉体の痛みとして感じる。その痛みは先祖の叫びだ。私の身体は幾多の先祖のうち1人でも欠けていたらここにはない。だからこそ現代に生きる我々は先祖から紡がれた肉体を通し、そんな因縁を癒すことができる。それは何故か。我々が今この瞬間を生きているからである。先祖にとって血を分けた子孫の生命はとてつもない希望であり、光だ。幾多の先祖の思いと幾多の先祖の期待と幾多の先祖の見守りをもって我々は生きている。この霊的構造論は誰にでも当てはまる。だからこそ善く生きねばならない。善く生きるとは何か。事の善悪は立場や環境、時代で変わる。故に紋切り型ではいかない。善くとは先祖達の見守りに報いる、ということだ。逆に言えばどんな人にも守護霊=先祖がいる。その方達の見守りに、後ろめたさを感じてしまう行いは控えた方がいい。人間だから悪意は生まれる。でも少しづつそれを削ぎ、この命を輝かせる方向に持っていく事だ。