とある勧誘の御婦人
昨日の日中、とある宗教の勧誘のご婦人が訪ねて来ました。
この方は何回も訪ねて来たことがあります。
初めの頃は、信仰心も人それぞれですし、感覚も人それぞれなので、この方の信仰や感覚について話を聴いたりしつつ対話したら面白いかなと思って、勧誘に来ていると分かった上で対話しようと思って話していました。
しかし、会話を重ねるうちに分かってきたのですが、この方、あんまり人の話を聞く気がないのです。
表面上は人の話を興味を持って聞いている風なのですが、私が言ったことに対して
「でも○○○」
「でも□□□」
と、自分が勧誘したい内容に話を持って行きたいだけなのです。
まあ、勧誘に来ているので当然といえば当然なのですが。
そんなわけで、
「ご自分がどれだけ何でもかんでも、でも、でも、と言って人の話を受け取ってキャッチボールをする気がないかわかってますか?」
とそろそろお伝えした方が良いかなと思い始めた頃、
そそくさと帰って行かれました。
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そうして宗教勧誘のご婦人が帰った後、
「ああ、早速、表層世界を動かしている力と接触したなあ」
と思いました。
そしてまた、私にとって"この表層世界を動かしている力に親しみを持って近づく"ということは、
"ちゃんと怒る"ということも含まれているのだなあと感じました。
親しみを持って近づくと言うと、フレンドリーで平和な感じがするものですが、必ずしもそうとは限らないのだと思います。
怒りがどこから出てくるのかにもよりますが、
それは時に、必要があって発動するもの。
それを出さないのは優しさではなく、無視の一種です。
かく言う私は散々それをやって来たので、怒りを出さないことで、一見平和なようでその実何が起こるのかはよくよく思い知っています。
なので、怒るべき時に怒るということは、無視せずこの世界と向き合うということであり、ある意味親しみを持って近づくことの第一歩になり得るのだと感じています。
もちろん感情に任せてキレまくるとかは全然別な話ですし、
本質的な怒りであってもどう出すかは状況に応じて様々だと思いますが、
それでも無いことにはせずに少なくともこの世界に対しては出していくというのが生き方全体を保全する上で肝要なのかなと感じている次第です。
そして現に、上記のセリフを実際に言う前に、意識が発動した時点で私の怒りはこの世界に出されていて、その時点でご婦人がそそくさと帰るという現象が現れているわけです。