脳味噌も腸もばら撒いて見せやうか。

こんにちは。皆さん、憂さ晴らしてますか?

今日は仕事に帰って疲れて帰ってきたら家に届いていたDVD、「テディです!」の紹介と感想とやたら考えた生死感について書いていきます。

「テディです!」とは

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「テディです!TEDDY DEATH」は「処刑台の獣たち」などの監督であるマーク・マックィーンの作品です。約50通りのクマのぬいぐるみを殺す方法を収録した実写作品です。今回、わたしが見たのはその映像に鳥居みゆきと小島よしおの解説がついたものになります。

熊殺しの方法とは

例えば、ピストルやギロチンで殺したり、セメントで固めたり、ダイナマイトや火をつけたり、銃で撃ったり、煮たり焼いたりします。
撃てば綿やビーズの目が弾け飛び、焼けば焦げて溶けていき、、、
それらが、アニメ等ではなく全て実写で行われ、あらゆる方法で死んでいきます。
絵本「自殺うさぎ」の実写バージョンというような感覚で見ました。
鳥居みゆきの実況では、この作品に対するダメ出しなどもあり面白いです。鳥居みゆきバージョンのDVDでは、鳥居みゆきが持ってる熊の「多毛症」さんの包帯の巻き方や、鳥居みゆきの思う「テディです!」も特典映像で収録されています。実況をON/OFFで選べるため、実況なしで本来の作品も楽しめるようです。

無機物の死について

ここからは単純に自分の思考のみを書いていきます。
テディベアは、無機物です。でもこの作品では、「綿」が弾け出たり、頭が吹っ飛んだり、手足が千切れたりします。可愛らしいぬいぐるみが、そんな無惨な目に合うのが許せない人も多々いると思いますし、
人間で例えたら「綿」は臓器ですね。こんな風に人も弾け飛んでしまうのでは等と考えてしまいます。
わたしの中では繋がっている話なのですが、小さい頃「てくてくえんじぇる」という、万歩計の玩具を持っていました。1日に歩く歩数によって、電子画面の中のキャラクターが育っていくおもちゃです。名前をつけたりもできます。わたしはそのおもちゃがとてもお気に入りで大好きで、幼稚園にもつけていっていました。
しかし、わたしはあまり幼稚園に行ける子供ではありませんでした。
連れて行ってくれるはずの母がいつも精神病で体調が悪かったからです。
そして幼稚園に行かなければ外で歩く機会も少なかったため、てくてくえんじぇるのキャラクターも元気がなく、全然育たず、挙句の果てには「たびにでます。さがさないでください」とキャラクターは置き手紙を置いて、ゲームオーバーでいなくなってしまうのでした。
生まれて初めて、「死」のようなものを実感したのはその時で、わたしは電子のおもちゃ相手に何時間も大号泣したのでした。「わたしがちゃんと大事にしてればよかったのに」と自分を責めながら泣き続けたことを今も覚えています。母にリセットボタンを押され、「ほら、これでもう一回遊べるよ」と言われた時の、「だってあの子じゃないもん!!」と言った記憶が今でもあります。まだ4歳のわたしには人の死の経験もなく、ニュースを見てもあまりわかりませんでしたが、
「死」とは、「自分にとって代わりのない存在ともう二度と会えなくなること」だと思い知ったのでした。

代わりがいれば「死」ではないのか

例えば、使い勝手が良い百均の便利グッズが壊れてしまっても、「死んでしまった、もう立ち直れない」と思うことなく、代わりに同じものでも派生のもっと良いものでも買い代えて終わりでしょう。もしその使っていたものに命があれば紛れもなく「死」なのでは...しかし、機能しなくなったら死だと言い切っていいのか?命のないものに「死」を例えようとすればするほど、「では、同じ状況下において、人ならどうなる?」となります。
さて、今回の映像作品では次々とぬいぐるみが死んでいきます。
ぬいぐるみは「愛玩」のものですね(もっといい言葉があったら知りたい)。名前をつけたり、一緒に寝たり、話しかけたりするものですね。新しいぬいぐるみが来たら乗り換える人もいるかもしれないし、たったひとつのぬいぐるみを大事にする人もいるかもしれません。ですが、百均のハンディモップに名前をつけて一緒に寝て話しかける人はなかなか少ないかもしれません。
その「愛玩」のものが死んだ時は、友達が死んだような、家族が死んだような感覚になると思います。気持ちのいれ方の違いで、同じ無機物の「死」でも、扱い方は大きく変わるように感じます。
そして、今回の『TEDDY DEATH』でのぬいぐるみのように、大量の自分のものでもないぬいぐるみが死ぬのは?他所のぬいぐるみだから百均の便利グッズと変わらないレベルの無機物でしょうか。それとも、自分が心をいれて大切にしていたものに似ているから、可愛いから、可哀想でしょうか。死んでも死んでも、次々同じぬいぐるみが出てきて、また殺されます。
誰かの大切にしていたぬいぐるみを名前を紹介して殺しているわけでもありません。では、ありとあらゆる無機物と同じでは。
でも可哀想、酷いという気持ちを持つ人のことを想定できるのは、なぜでしょうか。

顔や身体があるからでしょうか。
生きている動物を模しているからでしょうか。
「大切にすべきもの」という固定概念からでしょうか。

わたしに答えはまだ見つけられませんが、わたしはありとあらゆる家電や物に名前をつけ、食器が割れただけでも泣く生活をしています。
これが正しいのかはわかりませんが、大切にはできます。


大切な人の死を経験しても、変わるところと変わらないところがある

わたしは、思春期に父方の祖父母と父親の死を、大人になってから一番の親友の死を経験しました。何度人の死を経験しても慣れることもなく、色々なことを考えます。単純に一言で表せるような言葉は見つかりませんが、死後に何度も闇と光を何百往復もしてやっと受け止められるものだと思うので、「誰かが亡くなったらこう考えるのが正しい」というのは全くみつかりません。誰も亡くしたことがない人に、「人が死んだのに死にたいなんて、死を甘く見てるんじゃないの?」と言われた時には、お前にわかるものかと思ったものでした。大切な人が亡くなったら、「大切な人のいない世界なんて」と死にたくなることがあって当然だと思っています。大切だったんですから。そして何より、生きてるんだから、無い物ねだりで死にたいのなんて当たり前なんです。
そして、映画の中のような、誰かが死んだときの反応なんて出来ないし、映画の中のような受け止め方もできません。『嘘でしょ...』なんて言ってられません。

もちろん、その大切な人の死因にもよると思いますが、
病死や事故死ならその人の分まで生きようと思えるかもしれません(勿論そう思えない人がいたとしたって、それが間違いというつもりではないのです)。
でもそうでなかった場合、受け止め方が真っ直ぐではなくなります。
ただ、それでも、人が死んだりする惨い作品が元々大好きだったわたしは、人が惨多しく殺される作品でも頻繁に見てしまいます。それは非現実で、代わりに出演者の誰かが受け止めてくれるからです。わたしが大切に心に刻んでる死とはまた別物だからということもあると思います。ですが、心が強くあれない日には、そんな作品と重ねて思い出が蘇り、心が痛くなったり沈んでしまう日もあります。
しかし「死を以って生を知る」ことがあります。

死を以って生を知るとは

大切な死において、まだうまく解決策として見つかったものはありません。ただひとつ思うことは、葬儀や火葬を見ていく中で「今日はもう二度と来ない」と思うのです。同じ人の同じ葬儀、火葬はもう二度とないのです。生きているうちは、生きて一緒にいる中で「あれ?前にも同じことしなかったっけ?デジャヴじゃん!あはは」ってことが何度かありますが、葬儀と火葬はもうこれ以上、「今日と同じ日はもう二度と来ない」と思うのです。その時そのことを初めて知ったりします。この「テディです!」でも、大量生産だとしても全く同じぬいぐるみを殺せたことは一度もないでしょう。
今日と同じ日がもう二度と来ないと思えば、良く過ごしても辛く過ごしても、「今を一番大事にしたい」と思ったり、二度と来ないなら「今日を越えればもう大丈夫」だったり、なんとか希望が見えて来る気もするのです。

ところで、今回の感想はなんだったのか

やたらと死ぬぬいぐるみの動画を見て、生死感にやたら重きを置いてしまいましたが、今回見た「テディです!」はとっても面白かったです。
やはり、どんなに死に敏感になることが人生に今まであったって、その先生きていたら腹立つことや、なんだこいつと心の中で罵ることはあります。
軽視でもなんでもなく本当にあるのです。
それを、誰に愚痴をこぼすでもなく、手をくだすでもなく、この作品でここまで潔く通過していく死を見ていたら、なんとなく清算される気もしています。作った人の気持ちを考えたら居た堪れませんが、これで発散される気持ちは間違いなくありました。
あとただ単に、爆発するテディベアも可愛いんです。
どんな惨い作品を見ても、どんな邪悪な気持ちを抱いてしまっても、生きてるものや代わりのないものにある命は間違いなく大切だということを忘れずに、色んな気持ちを抱いて生きていきましょう。


では、おやすみなさい。

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ちんちんむし
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